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先輩とげっぷ

 朝の寒さがうそだったような十月半ばの放課後。


 左手に持った赤白缶のタブを右の人差し指に力を込めて引っ張ると、爽快な破裂音と共に開いた穴から白いほわほわがほわっと出て消えた。


「私げっぷ出せないから炭酸飲むとお腹パンパンになるんだよね」

 先輩は湯気の立つコーヒーのカップを置きつつ、あたしのコーラを見ながら言った。


「先輩も? あたしも勝手に出ることはあっても自分の意思では出せないんです」

「じゃあそれ飲んだらお腹張って苦しくなるんじゃないの?」


「そうなんですけどこの味はちょっと好きなんですよ」

「ふーん? んじゃあせっかくだし私もちょっと訓練してみようかな」


「訓練?」

「うん。炭酸って別に飲めなくてもいいんだけど遭遇する機会結構多いじゃん? だからいざとなった時のためにげっぷ出せるようにしといた方がいいよな?」


 いざという時がどんな時なのかは分からんけど、先輩は『しばし待たれよ』、と忍者走りで部屋を出て行った。


 あたしもまあげっぷ出せないよりは出せた方がいいのか? 本当か? といまいち謎だけどお付き合いすることに。ふたは開けてしまったけど、そんなすぐに気が抜けるということはないだろう。


 しかし今日は暑いなあ。ようやく秋らしくなったかと思ったらまた夏だよ。衣替え早まったぞい。まだ夏服で袖なしニットという選択肢が今日は最良だったねぇ。ベストだけに。ぐふふ。


 窓からのゆるい風は湿ってはいないが温度がちと高い。まあこのあたしが年に数えるほどのコーラを飲みたくなるような日なので、炭酸日和といえばそうなんだろう。


 多分サッカー部かな、二列のランニング隊がわっせわっせと体育館の裏から駆け出てきた。


 吹奏楽部のなんか聞き覚えのある曲と合唱部のなんか知ってるけどタイトルは知らない歌が微妙に重なっていないものを乗せた生ぬるい風を聴きながらそんな様子を眺めていたら、先輩が飛行機で戻ってきた。四階から向かいの校舎の一階までなのにえらい早いな。さすがだ。


 あたしの向かいに座った彼女はまだそこそこ熱そうなコーヒーをぐいぐいぐいっと三口で飲み干すと、すぐさま片手持ちでかっこよくオレンジ炭酸のフタを開け準備完了。


 が。


「これって一気に全部行くんか? 私も炭酸ほとんど飲んだことないから分からんのだけど」

「さあ……。あたしも基本飲まないですしカラいのもやですし、ちょっとずつ口に含んで炭酸飛ばしながら飲んでるんでよく分かんないす」

 炭酸の存在意義を全否定する発言をしたら、


「お前なんで飲んでんだよ」

 先輩はぷぷっと噴き出した。


「だから炭酸は嫌いですけどコーラのこの味は好きなんですよ」

「じゃあもうそんなんなら最初っから振りまくってボウルにでもぶちまけて完全に炭酸飛ばして飲んだらいいじゃん」


「いやそれはダメですよ。炭酸無いとそれはそれでつまんないっていうか、なんかただの黒い甘い汁って感じでおいしくないじゃないですか。だからコーラに限っては炭酸は嫌いだけど好きみたいなことになってるんですよ」

「クソみたいな恋愛ソングみたいなこと言ってんな」


「まあそうなんですけどでもそういう食べ物って結構あるでしょ? 納豆とか臭いけどおいしいし、辛いカレーもツラいけどいいみたいな」

「おぅ? 確かにそう言われてみりゃそうかもな。そら豆も足の裏味だしな」


 同意はしてもらえたがこの例えは嫌だ。まあ確かにそう思わんでもないけど、先輩の靴を煮込んで食べたらそら豆味になるのかとか、話がそれかけたので再び本題へ。


「やっぱりある程度お腹の中をガスで満たさないといけないわけですよね? でも炭酸初心者がいきなり全部ってのはきついんで半分ぐらいで行ってみます?」

「そうだな」


 ということで、あたしたちはほぼやったことがない炭酸一気飲みをハーフだけどやることに。


「じゃあいくぞ」


 と先輩の合図で缶の飲み口を唇に当てて傾けた。


 んぐんぐ、んぐんぐ、缶が水平になったところで、


「かーーーーーーーっっっっっ!!!!」

 二人揃ってがちんと缶を机に叩き付けた。


 通ったのは冷たい液体のはずなのに、口から胃までの間が熱いような刺すようなひりひりのちくちくで焼き付いている。清涼……飲料水……? 一体お前のなにが清涼だというのか。確かに体温は多少下がったような気がするが、そりゃ冷たい液体を飲んだら炭酸に限らずそうなるだろうが。清でも涼でもない。こんなんただの苦行じゃないかお前。


「……で?」


 先輩も各パーツを真ん中にぎゅっと集めたしかめっ面で聞いてきた。でも、そんなのあたしだってどうしていいんだか。


「分かんないですけど胃の中のガスが逆流しやすくなるような?」


 そのイメージを表したポーズは、あたしはちょっと前かがみに喉を開く感じ。


 腹筋で胃を圧迫し炭酸ガスを押し出してやろうとの試み。


 一方先輩はぴんと背筋を伸ばして真上を向き、両腕を垂直に上げるというもの。


 胃から食道を通って口まで、あたかも煙突みたいに縦一直線に突き抜けるみたいな感じなんかな。なるほどなるほど。それもまたいいアイディアっぽいかも。


 とはいえ。


 出ない。


 出ないもんは出ない。


 前後に左右に、潮に揉まれる海底の昆布のごとく体をうねうねうねらせてみても無理。腹からの声と共になら出やすいかもと、


「ご〝ぉ〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お」

 と地を轟かせるが如き野獣の咆哮や、


「き〝ゃ〝ぁ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ」

 と天を切り裂くが如き断末魔の金切り声を上げても無理。


 荒ぶる昆布たちがいくらデス声で叫ぼうとも、喉の元栓はがっちり閉じられていて、お下品な吐息はほんのわずかも漏れ出すことはなかった。


「出ん」

「出んですね」


「お腹張ってる感じはあるんだけどなぁ」

「ですね。胃の中にガスが溜まってる感じは確実にあるんですけど、でもそれがまとめて放出される気配はないんすよね」


 当たり前だが人体の仕様も一様ではない。人の体は人の数だけ違っている。


 あたしたちは胃の中の不要な空気を排出する機能が備わっていない側の人間なのかもしれない。


 現代を生きる清楚でおしとやかな乙女にそんなはしたないものは不要だと、進化の結果省かれてしまっているのかもしれない。


 ――んだけども、同時にこれは訓練すればどうにかなる部類のやつな気もする。


 たとえば自転車やペン回しのようなやつ。できないうちは敵のデカさに絶望しかなかったけど、一旦コツさえつかんでしまえば鼻息一つで吹き飛ばせるぐらいのやつ。


 というわけで、これはどうにかなるかもなんでどうしたもんかと頭をひねっていると、


「赤ちゃんみたいなのどうよ?」

「あーママのおっぱい飲んだあと背中ぽんぽんするやつですか。いいかもですね」


 先輩と赤ちゃんプレイをすることに。


 はじめはあたしがママ。なので先輩はまずあたしの膝の上に横向きに座りながら、長い黒髪をかき上げた。


 相変わらずなんという艶めかしさ。根元から先までその一本一本すべてが一糸も乱れることなく全く同じ滑らかさでぬるぬるさらさら流れ落ちた。


 それから、彼女は腰から上をこちらにひねった。


 そうして、どちらかでも魔が差してしまったとき、唇と唇が接触してしまうという事故を避けることは不可能な距離で目と目を見詰め合わせることになったんだけど、それはたった一呼吸分ぐらいの時間だけ。何かが起こるということもなく先輩の視線は通り過ぎ、左の頬と左の頬が触れ合うと、あたしの首はしなやかな両腕で抱え込まれた。


 見た目だけは小柄で華奢な彼女だけあって、全身を委ねられてもその重さが心地よいぐらい。


 相変わらず体温はあたしよりは低いけど、それはそれで幸せなぬくもり。


 柔らかく温かくてていい匂いがして、小さな先輩はまるで大きな赤ちゃんみたい。


 その背中をゆっくりとぽんぽんしてみる。


 オレンジとコーラがまろやかに溶け合った色の世界。


 十月の陽光に照らされた少女二人によるあまりにも抒情的なこの光景、自分がその絵の主人公の一人であるなら、情感はなおさらだ。


 あたしの中の母性というものがとめどなく込み上げてくる。愛が無限に溢れ出してくる。


 今のあたしは全世界全人類の誰よりも優しく慈悲深い存在だ。この世のすべてを愛で包み込んで許しを与える女神だ。


 今ここにあたしは完全無欠の慈愛の聖母となった。


 だけど、ちょっと思うところもないではない。


 なんかこれ先輩の作戦っぽいもん。


 これちょっとすごくいいもん。


 提案してきたのも先輩だし。こんな雰囲気じゃこのままなし崩しにされても抗うことは難しそうだ。それどころか、そうなることを期待しちゃってるかもしれないぐらいだし。


 でもまいっか。ちょっと良すぎてもう何も考えられない。


 今はただかわいいこの子を抱っこしていたい。この心地よさにただただ浸っていたい。


 ただひたすらあたしはあたしの世界にうっとり陶酔し、優しい拍子を打っていたんだけど、


「ゔ〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝お〝あ〝あ〝ぁ」


 耳元に地の底から這い出てきた異形の化け物じみた咆哮が響いた。


 おいこらちょっと待ておい。なんて汚え声出しやがるんだ。こんな邪悪な赤子がいてたまるか。せっかくいい感じだったのにふざけんじゃないよ。ぶっ殺してやろうかこいつマジで。



 そんなこんなでまた結局げっぷは出なかった。


 先輩のチャレンジは失敗ということで、今度はあたしが赤ちゃんに。


 先輩は体をひねって横向きに座っていたので、空気の通り道がまっすぐになっていなかったのが駄目だったのでは、と考えた。


 なので、あたしは真正面から行く。


 先ほど先輩は髪をかき上げていたが、そうする必要がないあたしはその代わりにスカートを膝上までたくし上げた。


 うちの制服は夏服も残念だが、冬服はそれに輪をかけて野暮ったい。


 学生服に浮ついた洒落っ気など言語道断である、とばかりに特徴的な装飾の付加はその一切を認められず、ただ体表を覆うことだけを唯一の目的とした機能性完全特化の『学生用作業服』という呼び方が最もしっくりくるというような代物である。


 しかし、この場に限っては、このひどく没個性なもっさり制服というのが存外良いのかもしれない。


 ハイカラという言葉がハイカラであった時代でもそれなりのハイカラ具合でしかなかったであろうこの純朴な黒セーラーという召し物は、この季節のこの時間の少女二人が紡ぐ物語にあまりにも似つかわしい。


 先輩の目を見つめながら、そんなあられもない格好で彼女の太ももの上にまたがった。


 そして、ここからはさっきと同じ、事故的な何かはまたも起こらなかった。間近な視線をすぐに外し、そっと頬を寄せ、両腕を彼女の首の後ろに回した。


 オレンジとコーラがねっとり絡み合った香りの世界。


 晩秋の斜陽に照らされた少女二人によるあまりにも退廃的なこの光景、他の誰かに見られでもしたら、ちょっと言い逃れはできないかもしれない。


 その甘く麗しい耽美な時の中に先輩はさっきと同じリズムを刻み始めた。


 なんとこれはなんたること。なんたる不思議。上下が逆になっても彼女の柔らかさと温かさといい匂いは変わらないままだ。


 だけどさっきとは心持ちがまったくの真逆なのだ。


 今あたしが体を委ねている相手はまさにママだ。今あたしは赤ちゃんで、先輩はまごうことなき母親なのだ。


 時間がここで永遠に止まってしまったらいいのにと思わずにはいられない極上の心地よさ。


 もう何も考えられない。


 今のあたしは全世界全人類の誰よりも無垢な存在だ。自我もない、感情もない、記憶もない。唯一残っているものといえば、一切の穢れなき本能、ただそれだけ。


 だから、本能がそうさせた。お腹が苦しい気がしたから。あたしの体は無意識のままにそれに従っただけ。


「お〝ぎ〝ゃ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ」


 先輩鼓膜が破れて死亡。


 その弾みで後ろに投げ出されて後頭部を強打したあたしも死亡。


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