先輩と帆船
先輩は教科書とノートを広げてお勉強中。
化学の宿題とのことで、じっと集中し、ペンを走らせては止めを繰り返している。
やっぱり本当に正真正銘の美少女だ。黙ってさえいれば。
あたしは指名予告されている明日の数学の授業の問題中。
――すぐに終了。
スマホをいじるのもなんだしと、暇つぶしに動物のイラストをノートに落書き。
ちょうど空きスペースもなくなってしまったところで、先輩もやるべきことを終えた。
先輩はぬーんと両腕を上げながら背中を反らして右に左に伸びをすると、
「そのタヌキかわいいな」
「クマです」
絵心ないけど描くのは好き。
「先輩もなんか描いて」
「やだよめんどくさい」
「見たい」
あたしは落書きしてもいいノートをバッグから取り出し、先輩の前に広げた。
「じゃあトラ」
先輩の絵を見るのは初めてだけどどんなのかな? やっぱ見た目通りのかわいいタッチなのかな? 先輩字もかわいいし。屏風絵とか水墨画みたいな『和』って感じなのもありだよね。ちょうど題材もトラだし。でも和は和でも浮世絵はイメージとちょっと違うかな。
先輩は右手にシャーペンを握ると、先端を紙に接地させた。わくわく。
一筆目の軌跡だけでもう察した。
得てしてこのタイプは仕上がりも早い。
あっという間に四足歩行の餃子が誕生した。獣神餃子大王との名を授けよう。
ひょっとすると異世界のトラがこんな感じだったからという可能性も無くはない。
「描いといてもらってなんですけど、それもやっぱ意外性のためのわざとなんですか? 先輩みたいなかわいい子がコレかよかわいいみたいな」
「いや。本気だよ」
「へー。にしてもちょっと下手すぎません?」
「まあ元々才能がないってのもあるけど、絵を描くこと自体が好きじゃないからな」
このプライドの塊どころじゃなく城塞みたいな先輩が怒りもせず、自分の欠点を何の言い訳もせず淡々と認めるとは。ほんとに絵に関してはどうとも思ってないんだな。
「なんでなんです? お絵描き楽しいじゃないですか」
そう聞いたら、
「昔いろいろあったんだよ」
先輩の瞳に影が差した。
「ほう」
今日はお茶の用意はしてなかったけど、急遽準備をした。
簡単に緑茶。お菓子はなし。
「小学校の確か五年だったかな? 図工の授業で船の絵を描くってのがあったんだよ」
先輩は猫舌ではないけど、冷めるのを待っているらしい。今日の気温が少し高めなせいかな。机の上の湯呑みを両手は触れずに囲いながら語り始めた。
「はい」
あたしは口を潤す目的でまず最初にちょっとだけすすってみたんだけど、やっぱり先輩と同じように残りはもうしばらく置いておくことにした。
「なんかな、持ち手の付いた金網みたいなのに固いブラシみたいな筆をしゃかしゃか擦り付けてしぶきを飛ばす、みたいな技法を使った絵を描くってのだったの」
「ああ、それで船ですか」
「うん。お前らあった?」
「ないですねえ」
後から調べてみたんだけど、スパッタリングという技法らしい。
「そうか。それでな、帆船ってあるじゃん。昔の帆が張った船。それが嵐で荒れた夜の海を必死こいて行くみたいな絵を描きなさいってのだったの」
「はい」
「でさ、私が描いちゃったのは、大渦の中にその船が沈んでいくところだったんだよね」
「はあ」
「こんな感じ」
先輩は獣神餃子大王の上にその様子を描き始めた。
そしてそれもしゃしゃっとすぐに完成した。
相変わらずの残念さだけど、様子は分かりやすかった。ぐるぐるの渦巻から縦向きになった船の上半分が突き出ているという状態。
帆船と夜の海というから、そんな様子で木造の茶色の船が青黒い海の大渦に呑まれていくのかなと、頭の中で色を付けた。
「これかわいそうですけど乗ってる人全員死にますね」
「うん。でもこんなの描いたの私だけで、みんなが描いてたのはすごい海は荒れてうねってんだけど、船はまだ沈んでなくて五分五分で助かるかもしれんみたいなのなの」
「まあそうですよね。あたしも最初の説明聞いた時そんな絵が浮かびましたもん」
あたしがそう話しているのを聞きながら、先輩は湯呑みに両手を添えた。そのまま持ち上げて口の前で傾け、それをまた下ろすと 、
「うん。で、図工の絵ってしばらく教室前の廊下に飾られるんだよ」
「うちもそうでしたね」
あたしも先輩と同じように両手で湯呑みを支えて飲んだ。
「うん。で、みんなの船はまだ生きてるし、横長の船が収まりがいいように紙も横向きにして描くのが普通じゃん」
「はい」
「でもさ、私のは船が縦になっちゃってるから縦長で描いてたんだよね」
「はい」
「で、その時の担任がなんか神経質っていうか妙にキッチリした人でさ、どうでもいい細かいところやたらと気にすんの」
「はい」
「で、絵が貼り出されたんだけどさ、縦長の絵って私だけだったし、一人だけ縦にするのはその先生的に気持ち悪かったんだろうな、私の絵も横にされちゃったんだよ」
「はあ」
そう言いながら先輩は説明と同じようにノートを右に90度回転させた。
「そしたらこんな感じでさ、なんか船が異次元空間から出てくるみたいな感じになっちゃったんだよね」
大荒れの海に沈んでゆく絶体絶命絶望状態の船が、何事もなかったようにしれっと宇宙へワープしてきたので、あたしは吹き出してしまった。お茶飲んでる最中じゃなくてよかった。
あたしが相槌を打てないので、先輩は自分だけで話を進めた。
「そりゃそんな反応になるよ。だからみんなもザワついたよ。実際の絵は海も空も濃い藍色に塗ってたし、そのしぶきのやつも白い点々だからそれがいっぱいで星みたいになってたし、渦も時空の裂け目みたいな感じでさ、もう完全に宇宙空間だもん。十七世紀の大西洋沖みたいなはずだったのが西暦五千年のおとめ座スピカ付近みたいな感じになっちゃってんの。あとマストと帆も下手くそだったからなんか波動砲も撃ってるみたいになっててさ。みんな昔の遭難船の絵描いてるのになんで一人だけ宇宙戦争してるんだよって、そりゃ騒ぎになるよね」
あたしがしこたま笑っている間、先輩は達観したふうな薄い笑みでお茶をすすっていた。
ようやくあたしが落ち着いてきたのを見計らい、また先輩は口を開いた。
「まあそういうことだよ。もともと絵描くのあんまり好きじゃなかったけど、それでさらに嫌いになったんだよ」
ふーん。この頃は先輩も羞恥心とか社会性とか人並みにあったんだな。
「でもまあ一人だけそんな絵描くのって、逆に芸術家っぽくないですか?」
感性はやっぱり独特だったみたいだけど。
「まあそれが好きだったらいいかもしれんけどな」
先輩はまた湯呑みを口に持って行った。
そんなに大きくはない湯呑みを両手に包み、その絵を見つめて哀愁を漂わせる先輩。
やっぱりかわいい。
「でもまあよかったじゃないですか」
「ん?」
先輩はあたしの目に視線を戻した。
「だって最初のやつだったら全員死んじゃってますけど、でもこれなら全員助かってるじゃないですか。ね?」
「そうだな」
先輩はちょっとだけ嬉しそうにしてくれた。




