警察
警察署。
美緒の街のその建築物は老朽化が進み、完成時は白かった外壁も灰色に染まり、わずかにひび割れも入っている。
来年にはその役割を終え、新築される庁舎に移転する予定だ。
その少し古びたドアから、二人の人影が吐き出された。
ひとりは美緒。もうひとりは、その着ている制服から警察官のようだった。
「それでは、気を付けて帰りなさい」
警察官はそう事務的に言って、警察署の中に踵を返す。
美緒はポツリと警察署の前で、ひとりたたずんだ。
全てはオートマチックだった。
受付らしき場所で、誘拐の旨を告げ、奥の部屋に通され、二人の警官に囲まれ、マニュアルに書いてあるような質問をされ、紙きれ一枚に服装や状況を書き、押し出されるように警察署を放り出された。
これでいいのか、と美緒は思った。
誘拐とは、身代金受け渡しであるとか、犯人からの電話の逆探知とか、瀬名の誘拐現場の捜査であるとか、瀬名の部屋に犯人の手がかりがないかとか、そのような事を調べるものではないのか。と刑事ドラマからの知識で美緒は考えていた。
結局、書いたのは紙切れ一枚である。これでは瀬名の捜査など、素人の美緒にも不可能に思えた。
美緒は、愕然と、唖然と、警察署の前でただ絶望していた。
これから先、どうすればいいのか。あの瀬名をさらっていった男が誰であるのか。まったく手がかりすらない。今にして想えば車のナンバーを覚えておくべきだったと美緒は激しく後悔した。担任の橘つばめに訊いたところで答えてはもらえないだろう。
この先、どうすればいいのか。そう美緒が、ただ途方にくれるしかなかった時だった。
「おじょうちゃん」
と背後から声がした。
美緒が振り返ると、そこには四十代後半とおぼしき中年の男が立っていた。
少し白髪の混じった頭髪。スーツ姿だがネクタイはしていない。少し、しわがめだつ目尻。優しそうな顔をしているが、その眼光は鋭く美緒を射抜いている。
「なんでしょうか?」
美緒がそう訊いた。
警察署から出てきたところを見ると、私服の刑事といったところかもしれない。ひょっとしたら瀬名の事をもっと詳しく知りたいであるとか、そういう事を訊きに来たのかもしれない。と美緒は期待する。
しかし、その期待は次の言葉によって、あっさりと打ち砕かれた。
「おじょうちゃん、友達が誘拐されたって話だけど、それは警察では力になれねえ。大人の事情ってやつでな」
「どういう事ですか」
美緒は少し怒ったようにそう言っていた。感情が押さえ切れなくなってきていた。
「怒らないで聞いて欲しいな、おじょうちゃん。あんたの友達は誘拐ではなく、失踪として処理されてんだ。さっき、おじょうちゃんが書いた紙切れ、ありゃ失踪届けさ。まあ、それも今はシュレッダー行きかもしれねえがな。つまり……」
そこで刑事は言葉を切り、腕組みをした。
「つまり、なんですか」
美緒の声に怒気がはらむ。
「つまり、上から圧力がかかってるってこった。残念だが警察は動かねえ」
「そんな!」
美緒は思わず声をあげていた。
あの瀬名をさらった男の言う通りだった。
警察は何もしてくれない。そう思った時、美緒の脳裏にもう一つの言葉が浮かぶ。
『たしか義妹の名前は真由さんで、義父さんの名前は……』
ゾクリと美緒の全身を寒気が襲う。
美緒の行動は事態を悪化させただけではないのかと思われた。
刑事はスーツの内ポケットに手を入れながら、
「おじょうちゃん、力になってくれる奴をひとり教えてやる」
と言い、メモ帳を取り出した。
「力になってくれる人?」
「ああ、そうだ。何でも屋というか、こういった裏の仕事を請け負ってくれる男だ。多少の金は必要だがね。お人好しで女に甘い大馬鹿野郎だが、腕は確かだ」
刑事はそう言って、メモ帳に住所と地図を書き込み美緒に渡す。
メモ帳には『久遠』と書いてあった。
「久遠さんって言うんですか?」
「ああ、表向きはスーパーの従業員ってことになってる」
「でも、私、少しくらいの貯金ならありますけど……」
「いっただろ、久遠は女に甘い。いや違うな、じょうちゃんみたいな美人に甘い。ありゃあ、昔、女にひでえことして、いまだに負い目を感じてるって感じだがな」
そこで刑事は一息つき「肝心なのは、じょうちゃんが久遠に対して、精一杯の誠意をみせるってとこかな」と続けた。
美緒は渡されたメモ帳の切れ端をじっと見つめていた。
他に行く当てもない。刑事の言う通りにするしかないように思われる。
刑事は「じゃあ、そういうこった」と警察署の内部へと踵を返す。そして警察のドアに入る前に美緒を振り返り「黒木に聞いたっていいな。おじょうちゃん」と言い残した。