亜美
夢を見た。
また、美緒が子供の頃に、本当の両親と住んでいた家。
前は亜美ちゃんと、子供の頃の美緒を、俯瞰で見ているような夢だった。
今度は違う。美緒はテーブルをはさんで、亜美と向かい合って座っている。
ふと自分の手を見ると、子供の手だった。
―そうか、私は子供に戻って、亜美ちゃんと遊んでるんだ。
美緒はぼんやりと、そう考える。何か、大変な事があったような気がするが、それがなんだったのかを思い出すことは出来なかった。
「あの人が欲しいんでしょ」
突然、亜美がしゃべり出す。
美緒は、驚いて亜美を見つめる。亜美は意地悪そうに笑っていた。
―あの人ってだれだろう。
思い出そうとして頭をかかえるが、思い出せなかった。
「あの人が欲しいんでしょう」
亜美がもう一度言う。
美緒の心に何かが浮かんだ。心の奥の、もっと奥の方。さわさわと、誰かが笑っているような気がした。とても綺麗な、とてもぶっきらぼうのようで、とても繊細な、そんな、そんな、誰か。
「瀬名君」
亜美がぽつりと、そう言った。
―そうだ、瀬名君だ。
美緒は、ハッキリと思い出した。それと同時に、なぜ亜美が瀬名のことを知っているのかが気になった。
「何で瀬名君のこと知っているの?」
「あの人が欲しいんでしょう」
美緒の問いには無視をして、三度、亜美はそう訊いた。
「違う」
美緒は否定した。
なぜだか、目の前の亜美が、とても恐ろしいもののような気がしてくる。いつのまにか身体が小刻みに震えだしていた。
「いいえ、あなたは、あの人が欲しいの」
亜美はそう言って立ち上がり、美緒にゆっくりと近づく。
「違う」
耳を押さえ、美緒はうずくまる。
いやだ、やめて、やめてよう、亜美ちゃん。そう、美緒は心の中で叫んでいた。
「嘘ばっかり、私にはいやなことを押しつけて、美緒はいつでも嘘ばかり」
亜美が、美緒の肩を掴む。
「違う!」
美緒はそう泣きながら叫んで、必死に亜美の手を振りほどこうともがいた。しかし、強い力で押さえつけられ、身動きすらとれない。
亜美はそんな美緒を哀れむように一瞥し、ゆっくりと耳元に顔を近づけ、
「あなたは、卑怯なのよ」
と,ささやくように言った。
「違う!」
ゆるして、ゆるして、ゆるして、ゆるして。美緒は何度も、何度も、そう心の中で叫び続けていた。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
美緒が眼を開けると、真由の顔が目の前にあった。
美緒はまたしても、なにか寝言を言っていたらしい。
「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
心配そうな真由が、美緒の眼を覗き込みながら、そう訊いた。
美緒はあわてて上半身をベットから起こし、
「だ、大丈夫。また変な夢、見ちゃったみたい。まいったなあ」
と答える。
「ずっと、ごめんとか、ゆるしてとか言ってたよ。すっごい、こわかったんだから。どんな夢みてたの?」
「あ、うん。なんだか覚えてないや。はは」
あわてて美緒は笑って誤魔化す。時計を見るとまだ5時を回ったばかりで、窓のカーテンから差し込む光もまだ弱々しい。
くったくのない真由の笑顔を見ながら、美緒は昨日の事を思い出す。
瀬名の身体におこった変化。
目つきの鋭い男。
つれさられる瀬名。
なにも出来ずに、へたりこむ自分。
夕食も食べずに部屋にこもる美緒を心配する家族。
「おじゃましまーす」
突然、真由が嬉しそうに言って、両手で美緒の身体をベットの端に押しやる。
トン、と軽くベットの端の壁に、美緒の肩が押し付けられる。
なに? と美緒が聞く前に、空いたスペースに真由がすべりこんだ。美緒の左腕に両腕を巻きつけて。
「びっくりさせた罰でーっす。へへ、一緒に寝るのひさしぶり」
そういって真由は、美緒の横で腕にしがみついたまま眼を閉じる。すやすやと寝息をたて始めるまで三分もなかった。
美緒は力なく左腕に巻きついたままの真由の腕を、はずそうとして、やめる。
昨日から様子のおかしかった美緒を、真由はずっと心配していたんだろう。そう思えば、巻きついた真
由の腕は、とても優しくて暖かいものだ。と美緒は思う。
本当の姉妹以上に仲がいい、色々な人から美緒と真由は、そう言われた。でも、ひょっとしたら、本当の姉妹ではないから、こんなに真由は、なついてくれるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。
美緒は眼を閉じる。
―あと少しだけ、あと少しだけ、この暖かさにつつまれて眠ろう。何も考えずに。次に目を覚ましたら、目を覚ましたら……。
「瀬名君、早く帰ってくるといいねえ」
由美子が美緒を元気づけるように、そう口を開いた。
お昼休憩。美緒の席で向かい合って座り、ふたりは一緒にお弁当を食べてている。由美子の座っているイスは、瀬名の机のものを借りたものだ。
由美子は『いないと寂しいんでしょ』とでもいうふうに、顔をにんまりとさせて、美緒の肩をポンポンと軽く叩いている。
「う、うん」
美緒は曖昧にそう返す。
瀬名は家庭の事情で、海外の母親の元にしばらく滞在することになった、と連絡がありました。と担任
―橘つばめは言っていた。
嘘だということは分かっている。
橘つばめが嘘をついているのか、瀬名の母親と偽った連絡があったのか、それは美緒には分からない。
ただ、瀬名はもう、ここには帰ってこない。それだけは確実だろう。そう美緒は思う。
もしかしたら、何かの間違いで、瀬名はすぐに帰してもらえるかもしれない。そういう考えも美緒の中にはあったが、やはりその可能性は低いように思えた。
『忘れろ』と瀬名を連れ去っていった男は言った。それは、美緒の中の瀬名を全て、消し去れという命令だった。瀬名という存在を、いなかった事にしろと。
警察に行っても無駄だとも言っていた。
しかし、美緒には警察に届けるくらいしか、方法はないように思える。ともかくも誘拐現場に居合わせたのだ。無駄だと言ったのはあの男のハッタリであるかもしれない。
もっとも気になるのは、男が美緒の家族の名前を知っていたことだった。
しかし、事情を話せば、警察も家族を守るよう手配してもらえるかもしれない。
―放課後、もうすこし考えを整理して警察に行こう。
美緒はそう結論付けて、由美子に視線を向ける。
目の前に、由美子の顔があった。目の前、十センチの距離。
「えっ、えっ、何? どうしたの由美子?」
あわてて美緒は、ガタリ、と座っていたイスを後ろに引き、後ろに少しのけぞった。
「あやし過ぎる。ずっと、うつむいたまま黙り込んでるし。ねえ、もしかして、瀬名君と何かあった?」
由美子、疑惑の眼差しであった。
「ないない、ちょっと考え事してたよ。うん」
「嘘だね。何隠してんのよ。美緒」
由美子は、ぐいっと腰をイスから浮かせ、あとずさった美緒を上から見下ろす。
―さすが由美子、するどい。それとも、私が分かりやすいだけ?
由美子の顔がさらに近づいてくる。美緒をじっと見据えて『さあ、いいないさい!』とその眼は語っていた。
その距離、目の前、一センチ。
はたから見れば、少女ふたりが今にもキス寸前にも見える距離だった。
由美子の鼻先が、美緒の鼻先に触れる寸前の距離まで耐えて、美緒は屈服した。
「わかった、話すから。話しますから」
と言う美緒の降伏宣言に、にっこりと由美子は笑い「それでよろしい」と大げさに、そして優しく、美緒の頭をなでてから、イスに座った。
おおお、と教室中の、主に男子から歓声があがる。
いつのまにか、美緒と由美子は教室中の注目をあびていたらしかった。
可憐で細身の美少女と、親分肌の健康少女がキス寸前までいっていたのだ。それはもう、男子生徒は固唾を呑んでいたに違いない。中にはウットリと見つめる女生徒もいたが、真っ赤になってうつむいてしまった美緒には気付きようもなかった。
「おっと、お嬢さん達、女同士とはいただけませんねえ。僕でよければ、お相手いたしますよう」
不意に男子生徒が、ふたりに声を掛けてきた。
ぎょっとした表情で、由美子が声のした方に振り向き「げっ」と声をあげる。
にやにやと愛想笑いを浮かべた男子生徒――神田平助が立っていたからである。
顔つきだけを見れば、それなりには整っているといえなくもない男である。だか、その性格面において、女子の評価を著しくさげるこの男。
かわいい娘はとりあえずくどく、口を開けばセクハラ発言多数、自分を世界で一番愛している自己陶酔癖。簡潔に言えば、それが神田平助という男である。
由美子が苦手としている人物もいるのだということを、高校に入って始めて美緒は知った。
今まで美緒が確認しているだけでも、平助は由美子を四回くどいており、
一度目は優しく丁寧に断られ、
二度目は怒声を浴びせられ、
三度目は顔面パンチ、
四度目は回し蹴りをくらっていた。
「私の半径一メートル以内に近づくなっていったでしょ」
由美子が声に怒気をはらませてそう言った。
「何を言ってるんだい。君が僕に引き寄せられたのさ」
「なにい、私はイスに座ってただけっ、どうやって引き寄せられたって言うのよっ」
周りの男子がワイワイ騒ぎ出す。クラス名物ともなりつつある由美子&平助の喧嘩が始まったのだ。
平助は男子生徒には非常に人気がある。元々愛嬌はあるし、セクハラ発言さえなければ女子にも人気があったのではないだろうか。もっとも同じクラスに、圧倒的美貌の瀬名がいたのではきびしいかもしれないが。
「そうか、では僕が引き寄せられたのかもしれないな。しかし、それは君が悪いんだよ。君がその長くて健康的な脚線美と、大きすぎず小さすぎず……いや、大きすぎないが、まったくもって十分な大きさの胸と、しまる腰つきがぼくを呼ん……」
いい終わる前に、由美子の足が半円を描くように、平助に向かって跳ね上がった。
それは平助の下腹部を正確に射抜く。
金的。
「かふぉ」
意味不明の叫び声と共に、平助は股間を押さえたままうずくまった。
顔面パンチに、回し蹴りの次は、金的だった。いままでの由美子の攻撃は、そうはいっても女子の力なので、平助の身体に大きなダメージを与える事はなかった。だが、そこは、そこだけは。
平助は悶絶した。
きゃあ、かっこいい。と一部の女子から歓声が上がる。
何人かの女子が由美子を潤んだ目で見ていた。どうやらこのクラスには、あやしげな性癖をもつ女子がいるらしかった。中学の時にも、何度も後輩から告白されている。その手の告白は、なかなかにしつこくて困ると由美子は言っていた。『私にそっちの気はありません』と断っても、『それでもいいんです、私はそれでもずっと想ってますから』等と、答えに窮する考えを持つものが多いからだそうだ。
由美子は男女問わず好かれる、と美緒は思っている。
しかし、当の由美子の意見は、美緒のものとは違っている。
昔、美緒は由美子に『由美子は男女問わず人気あるよね』と訊いた事がある。由美子は少し悲しい顔をして『それは違うよ』と言った。『目立つって事はさ、それだけ憎まれることも多いんだ。好かれる分だけ誰かに憎まれてるのよ。憎んでるって奴は、それを私の前では口にはださないかもしれないけどね』そう言った時の由美子の顔はとても苦しそうに見えた。
「美緒、屋上で話そう」
と由美子は美緒の手を掴み歩き出した。
美緒は「うん」と答え由美子に続く。
後ろの方で平助が「いてえ、くうう、いてえ、でも、気持ちいい」などと唸っていた。男子生徒から笑いがおこる。
おそらくは平助の冗談だろう。
しかし、由美子の蹴りは、何か怪しげな性癖を、平助の中に芽生えさせたのではないだろうかと、ひとり心配する美緒だった。
屋上に上がって周りを見回すと、数名の男女が仲良く食事をとっていた。
美緒達は周りに人のいない場所へと移動し、教室での話を再開する。
「で、続きを聞かせてくれる?」
そう由美子がきり出す。
美緒は昨日、瀬名の部屋でおこったことを話した。瀬名におこった体の変化をのぞいて。それだけは言ってはならない、そう感じていた。『いわないでくれ』そう言った瀬名の顔が脳裏に浮かぶ。
驚いたように口を開いたままだった由美子は「本当なの?」と訊いた。
無論、由美子は美緒がそんなバカな嘘をつくことはないと思っているが、クラスメイトが誘拐されるという事が、さらに生徒の間でも人気のある担任の橘つばめが、それに加担しているということが、どうにも現実味をもって感じられないからだ。
「私、やっぱり警察に行って見ようと思う」
そう美緒がいった。
「そ、そうだね、それしかないと思う。私もついていこうか?」
「ううん、大丈夫。由美子は見てないんだし、私ひとりで大丈夫だと思う」
そう美緒は言って、空を見上げた。
空は快晴。雲ひとつない景色だ。
―こんな時は、普通は雨でも降ってるのにな。
そう思って、燦々と照り付ける太陽に、美緒は溜息をひとつだけついてやった。