つばめ
「気色悪いだろ?」
瀬名がつぶやくように訊いた。
薬が効いてきたのか、瀬名は落ちつきを取り戻していた。
瀬名の頭部には既に角は無い。瀬名の体調の回復とともに、前髪の中に埋没していったのだった。
「そ、そんなことない」
美緒はあわてて否定する。
「いいって、まともじゃねえもん、俺」
瀬名は今にも泣き出しそうな顔で、そう呟いた。
「違う! 気持ち悪くなんかない。私は―」
―綺麗だと、ただ綺麗だとそう想った。そして。
そう言おうとして、瀬名の言葉にさえぎられた。
「とりあえず、今日は帰ったほうがいい。遅くなるし」
「う、うん」
美緒はゆっくりと立ち上がり、フラフラと玄関へ向かう。頭の中がこんがらかって、何を言っていいのかも分からなくなった。瀬名の頭に生えた角、それを思い出すとなぜだか胸が熱くなった。胸が高鳴った。
じわじわと湧き上がるもう一つの感情。
―どうして? 私は瀬名君の角を見てそんなことを想うのだろう。そんなはずないのに。綺麗だって思う気持ちだけじゃない、この気持ちは何?
自分の感情がよく整理出来なかった。
「このことは誰にも言わないでくれ。ばれるともう一緒でいられない気がして怖いんだ。頼む」
そう後ろから瀬名の声がした。とても寂しそうな声だった。
「言わない。絶対言わない」
美緒は振り返って言った。
バタン。と美緒の目の前で、部屋のドアが閉まった。
美緒は無意識のうちに靴を履き、ドアを開けて外に出てしまっていたらしかった。
ガチャリと瀬名が鍵を閉める音。
美緒は「私、言わないから!」と、さえぎるドアに向かって、そう叫んでいた。
しばらくドアの前にたたずんでいたが、瀬名の返事はなかった。
あきらめて美緒は階段を降りる。
美緒は再度、瀬名の頭部にあった美しい角を思い出していた。
―私の中にある、もうひとつの感情。それは……。そんなはずない。なんで私はそんなこと思うの。
走った。美緒は階段をかけ降りた。
自分の感情を振り払うように、消えてほしいと願うように。
―私は、わたしはっ。瀬名君の角を見て。思った。綺麗だって。とても綺麗だって。そしてっ。そして、そして―嬉しかった。私は―私は、喜んだ。
その自分の考えに、美緒はぞっとした。
なんという闇の感情なのだろうか。秘密を知ることによって、瀬名を自分のものにできるのではないかと。
怖かった、ただひたすらに家に帰りたかった。やさしい義父と義母。そして真由の所へ。そこに帰りさえすれば全て解決するとでもいうように。
マンションを飛び出し、角を曲がると目の前に男が立っていた。ぶつかりそうになりあぶなく身をかわす。
が、バランスをくずして倒れそうになり思わず塀にもたれかかる。
「大丈夫か?」
男がそう声を掛けてきた。言葉とは裏腹に、冷たい冬の音色のする声だった。
「す、すみません、大丈夫です」
そう謝って、美緒は男を見た。鋭い目つきの男だった。ゾクリするほど冷たい、でもどこか寂しそうなそんな眼だった。
―このひと、どこかで、見覚えがある。
美緒はとっさにそう思ったが、それがどこでだったか、思い出すことは出来なかった。
「そうか」
男はそう言い残し、瀬名のマンションに入っていった。
このマンションの住人かと思ったが、どうやら違うようだ。マンションの前に黒い高級車がエンジンをかけたまま止まっていたからである。運転手らしき初老の男が、運転席に座っていた。後部座席には女性がひとり座っている。女性の顔はよく見えなかった。
何か違和感のようなものを感じたが、それが何であるか、こんがらかった頭では理解出来なかった。
美緒は大きな溜息をつき、駅に向かって今度はゆっくりと歩き出した。
自分が信じられなかった。瀬名がずっと悩んで、悩んで、悩んで、苦しんで、隠していたものを見て、それを嬉しいと思い、喜ぶとは、どうかしている。美緒は激しい自己嫌悪に襲われていた。
フラフラとまるで夢遊病者のように歩を進める。階段を駆けたせいだろうか、胸の鼓動が鳴り止まず、いまだにドクドクと脈打っている。
無性に喉が渇いた。
近くにあった自動販売機のミネラルウォーターを買い、一気に三分の一ほど飲み干して深呼吸をすると、ようやく動悸がおさまってきた。
ふと、さっきすれ違った男の眼を思い出す。あの人、確かに前にどこかで会ったことがあるように思えた。しかし、それがいったいいつのことだったか、どこでだったのかが思い出せない。
そう考えた時、美緒を急にめまいが襲った。立っていられずに、おもわす道の上にへたり込む。意識が遠のき、頭の中が一瞬ブラックアウトする。
『駅前、瀬名との待ち合わせ』
頭の中になにか声が響いたような気がした。
美緒はあわてて立ち上がり周りを見渡すが、周りには誰もいなかった。
―駅前、瀬名君との待ち合わせ。そうだ。瀬名君と初めて待ち合わせたあの日、駅前の噴水で瀬名君に『狙われている』だとか『監視されている』とか言ったという人! あの人だ!
そう思い出した瞬間、美緒は再び走り出していた。
瀬名の部屋へ、瀬名のもとへ。
美緒の胸に不安がいっぱいに広がっていく。さっきの人があの時の男であれば、瀬名の部屋に向かったに違いないと思ったからである。瀬名を狙い、瀬名を監視する男が、瀬名に接触をはかっている、そうとしか思えなかった。
暮れかけていた太陽は完全に落ち、周りを闇が支配しようとしていた。
瀬名のマンションへと続く道を曲がると、まだ車が止まっているのが見えた。その横に瀬名を両手にかかえたあの男と、運転手が立ってなにか話していた。何を話しているのかは美緒には聞き取れない。
瀬名はぐったりと力なくうなだれていた。意識を失っているように見える。
「瀬名君!」
考えるより先に美緒は叫んでいた。
男と運転手が美緒を見る。
運転手が美緒の方に動き出そうとして、すぐに立ち止まった。男になにか言われたようだ。
男は瀬名を車の後部座席に押し込み、美緒にゆっくりと歩み寄ってくる。
運転手は男に頭を下げ、車の中に消えていった。
「倉科美緒さんですね?」
男が美緒に近づきながらそう訊いた。
―この人、瀬名君のことも私のことも知っている。
美緒はその事実に、驚愕した。
「瀬名君に何をしたんですか。す、すぐに部屋に戻してください」
男の質問には答えず、美緒はそう男を睨んだ。
ずい、と男は美緒の目の前まで進み、美緒を鋭く見つめた。
美緒はおもわず一歩あとずさる。
「彼の―瀬名君の身体におきた変化を見ましたね」
男は静かに、しかし、はっきりとそう言い、
「彼の身体は、今、特殊な状態にあります。我々は彼を保護しなければなりません。あなたは事を荒だてないでいただきたい」
と続けた。
「あ、荒だてているのは、あなたです。瀬名君を返して、返してください」
美緒は男から受ける圧迫感のようなものに耐えながら、必死にそう口にした。
男の眼に苦渋の色が浮かぶ。少なくとも美緒にはそう見えた。
この人もなにかに苦しんでいるのだろうか、そう美緒は感じた。
「あなたを、このまま拘束することも出来ます。しかし、私、個人としては、そうはしたくはない。どうか今日の事は忘れてほしい」
恐ろしい事を、さらりと男は言った。
「え!」
美緒は恐怖にふるえて、三歩ほどあとずさった。足が震えて今にもその場にへたりこみそうになるのを
必死にこらえる。
「忘れる。と言ってもらえますか。警察に行っても無駄です。警察は我々に対しては、動くことは出来ない仕組みになっています。それに……」
男はそこで言葉を切った。
警察が動けない。その言葉は美緒には衝撃だった。それが本当だとするとこの男は、どこかの政治家や警察に、手を回せるだけの力を持っていることになる。決して、一般の雑誌やテレビでは扱われることがない、裏の世界を知っているもの。アングラ雑誌等ではよく話題にあがる、国の秘匿機関、財閥系の家系、暗殺組織……。芸能人のゴシップ記事と同様のネタとしてにぎわせているものが、今、美緒の身に突然ふりかかっているのだろうか。と美緒は戦慄さえ覚えた。
男は話を続ける。
「あなたはご両親を亡くされて、親戚の家に引き取られて育ったということでしたね。たしか義妹の名前は真由さんで、義父さんの名前は」
「やめてっ!」
美緒は男の話が終わる前に、そう叫んでいた。
忘れなければ、お前の家族がどうなるかわからんぞ。そういう脅しであると美緒は気付いたからである。
「それでは、忘れてもらえますか」
男は冷酷にそう告げた。
「わ、忘れます」
美緒は絞り出すようにそう言って、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「話は終わりましたか?」
男の背後から声がした。運転手だ。いつのまにか男のすぐ後ろに従うようについていた。
「ああ、終わった」
男が疲れたようにそう言葉を返す。
「このような役目は、私にお任せください」
「いや、いいんだ」
そう男は言って、瀬名を乗せた車へと歩き出す。
美緒は放心したように、地面にへたりこんだまま固まっていた。
ふと顔を上げ、車の方を美緒は見た。後部座席の女性の横顔が一瞬見えた。
美緒の知っている女性だった。
橘つばめ。
美緒のクラスの担任教師だった。
車は愕然とする美緒の横をすり抜け、闇の中へ消えていった。