美緒
美緒が始めて瀬名一樹を知ったのは、高校の入学式だった。
その日、美緒は中学からの親友である由美子と校門で待ち合わせして、一緒に登校する約束になっていた。
高校生活に感じる期待と不安、どちらかといえば不安の方が大きい。そんな気持ちを心の隅に無理やり追いやり、小さく深呼吸をして高校へと続く斜面をのぼる。
家から歩いて十五分という距離の私立高校は、緩やかな坂を上った場所にあり、県内でも有数の進学校として有名だった。文武両道を掲げるこの高校は、運動部の活動も盛んでインターハイでも上位に喰い込む事も多い。
合格が決まった時の義父の喜びようは、美緒も義母も驚くほどだった。
美緒の両親は、美緒が小学生の時に、交通事故で他界している。そんな美緒を叔父と叔母は引きとってくれて、まるで本当の子供のように育ててくれた。
寡黙で酒もあまり飲まない義父が、記憶がなくなるほどに酩酊し「よかった、よかった」と繰り返しながら、美緒に抱きつき頬に髭をすり寄せてきた。酒臭い息を感じながらも、美緒は不快さは感じなかった。ただ喜んでくれる優しい義父の愛情に感謝した。
ふと坂の上を見上げると、スーツ姿の男が校門から出てくるのが見えた。
朝、学校に向かうのならともかく、出てくるというのに違和感を覚えた。鋭い眼をした男で全身からにじみ出る迫力を持っていた。気おされて美緒は男に道を譲るように道の端によった。
坂の途中でその男とすれ違う。美緒は、学校関係者が駅にでも向かっているのかな、と思いそのまま気にせず歩く。
坂を登り終えて校門の前に着いたとき、由美子はまだいなかった。
改装してまだ一年という真新しい校舎が、陽光を浴びて薄く光って見える。それがまるで自分達の新しい出発を祝っている様に思えた。
学校の校舎の真ん中に備えてある大きな時計を見ると、丁度待ち合わせの時間だった。
遅刻? それとも電車が遅れている? 等と考えていると、校門の中から美緒を呼ぶ声がした。
「みおーっ」
振り向くと、校舎から息を弾ませて由美子が走ってきていた。
歩幅の広い美しいストライド走法だ。制服のスカートが翻り、健康的な太腿のラインを覗かせている。それは見えそうで見えない、計算しつくされた様なギリギリのラインを保ちつつ、周りの男子生徒の視線を余すところ無く集めていた。
「由美子。スカート!」
あわてて由美子の元へ走る。が、当の由美子はまったく気にした様子もなかった。
「美緒、ごめん。早く着きすぎちゃって、ゆっこに捕まっちゃって、ごめん、ごめん」
話を要約すると、校門で美緒を待っていると、中学時代の知り合いである優子に捕まり、先に校内に入っていたということらしかった。
「美緒、それよりいいこと聞いちゃったんだ」
由美子の声が弾んでいるのは、走ってきたからだけではないようだった。
「いいこと?」
「すごく『綺麗』な人がいるんだって、見にいこうよ」
ちょ、ちょっと、まって。と言う美緒のブレザーの上着の裾を、由美子はむんずと掴む。
そのまま有無をいわさず。由美子に引かれて連れていかれた先は、体育館だった。入学初日の集合場所である。
「体育館の入り口に張り出されたクラス分けに従って、所定の場所に並んでください」
という教師の説明もすり抜け、一気に体育館内に引きずり込まれた。
「もう、私、クラス分け見てないんだから、ちょっとまってよ」
と言い終わる前に、由美子の力が服の裾から消失した。
もう、と由美子の方を見ると、体育館の隅を見つめたまま、口を大きく広げていた。いったいどうしたのかと由美子の顔を覗きこむと「あれ見なさいよ」と前方を指差された。
由美子の指先を追うと、その原因となったものは一目で分かった。
視線の先にいた少年。
切れ長の綺麗な目、少しだけ細身の身体に中性的な端正な顔立ち、女性的とはいっても弱々しさはなく、凛々しいといっていい。それでいて何か斜に構えたような表情をしている。周りに立っている男子生徒達の中で、まるでそこだけ異世界といってもいい美少年だ。
「周りの男子どもと、同じ生き物だとは思えないわね。鬼のようにきれいじゃん」
残酷な由美子の言葉にも答えず、しばらく美緒はその少年に眼を奪われていた。
ふと気づくと回りの女生徒、男子生徒に限らずその視線は彼に集中している。あこがれ、愛情、あるいは嫉妬、敵意、あらゆる感情が彼を包んでいるように見える。こんな視線を一身に受ける彼はどんな気持ちなんだろうと、ぼんやりと美緒は思った。
「クラス分けに従って二列に並びなさい」
教師達の声に我に返った美緒は、あわてて、クラス分けの張り紙を見に戻ろうとする。しかし、再び腕を強い力で引っ張られ、その場に引き止められた。
由美子である。
「美緒も、3組だって、見といてあげたから。また一年間よろしくね、クラスメイト」
「一緒なんだ。よかったあ」
「ほんと、また一緒でよかったわあ」
親友と同じクラスになった安心感で、ほっとするのもつかの間「早く並びなさい」という教師の言葉に、またしても由美子に引っ張られるように、あわてて三組の列に走る。
私はいつも由美子に引っ張られてばかりだ、と美緒は思う。
どちらかと言えば引っ込み思案な美緒は、中学二年で由美子と同じクラスになるまで、影の薄いタイプだった。
由美子が言うには、それでも男子生徒に人気はあったらしい。美緒はその話を信じてはいなかったが、確かに、口数の少ない色白の繊細な少女、といった風情は一部の男子に人気があった。
それが由美子に出会うことにより、裏方から表舞台へと引きずり出される形になった。
極めて社交的な由美子は、あらゆる行事に美緒を連れ出した。
体育祭、学園祭、クリスマスパーティー、三年に進級するころには、ふたりは中学でも有名なコンビとなっていた。当然、美緒は中学校でも一、二を争う人気となった。
もっともそれを自覚してないからなあ。と由美子は笑う。まあ、それが美緒の良いとこなのよ。と、まるで年上のお姉さんのようなことを言われていた。
実際この高校に受かったのも、成績優秀な由美子に付いていこうと、必死に頑張ったからだと美緒は思っている。
三組の列の後ろに、由美子が飛び込んだ。あわてて美緒も滑り込む。
間に合った、と美緒は安堵して視線を列の前に向けた。
その先に彼がいた。
―同じクラスなんだ。
入学祝いを長々と喋る校長の声も耳に入らず。美緒は彼のことを後ろからずっと見ていた。耳に緩やかにかかる黒髪、周りの男子生徒とほぼ同じ身長であるのに、明らかに腰の位置が高い。
その時、ふと彼が横を向いた。耳にかかる髪がふわりと動き、綺麗な顎のラインが姿を現す。
―ほんとに綺麗だ。うらやましい。
不意に彼の視線が動き、美緒と重なった。
顔が紅く染まるのが自分でも分かった。あわてて視線を下げる。心臓がとくとくと脈打つのが耳元まで感じられた。
美緒はそのまま恥ずかしさで入学式が終わるまで、前を向くことが出来なかった。
三組のクラスに入ると、担任となる女教師に、出席順に席に付いて待つように告げられた。
出席番号の若い順から、名前を呼ばれて座っていく。
「はい、次は倉科美緒さん、その隣が瀬名一樹くん」
美緒の席は一番後ろだった。
いそいそと自分の席に着き、鞄を机の横に下ろす。一番後ろの席というのが嬉しかった。昔から端っことか後ろの席には、何か安心感がある。
机にも椅子にも傷などはなく、真新しい。中学の時の机は卒業生のいたずらでいくつか傷や文字が残っていた。
綺麗な机で高校生活をスタート出来ることが美緒には嬉しかった。
カタリ、と椅子を引く音がして、席の隣に男子生徒が座った。
ちら、とその男子生徒を見た。
彼だった。
心臓が止まるかと思った。美緒の止まりかけた心臓は、次の瞬間、早鐘を打ち出す。頬が紅く染まるのが自分でも分かった。
瀬名の視線が動き、またしても美緒と重なる。
あわてて視線をはずす美緒に、瀬名が話しかけた。緊張のせいか少し硬い声だった。
「あの」
「は、はい」
なんでもない風に答えようとはするが、声が上擦ってしまう。
「よろしくな」
「はい」
ただ、はいとしか言えない自分が情けなかった。また元の内気な自分に戻ってしまったようだ。
顔を上げて由美子を探すと、四列隣の席でこちらをじっと見つめていた。
その眼が「うらやましいっ、席かわってよ」と告げていた。
入学式初日が終わった。
「気を付けて下校してください」
女教師の言葉と同時に、周りは一斉に帰り支度を始めている。
美緒も由美子と一緒に返ろうと、渡された真新しい教科書を鞄に詰め込み始めた。
由美子は、早くも自分の席の周りの女生徒達と話し込んでいる。人見知りのしない由美子をうらやましく思いながら鞄を閉じる。
自己紹介の時、一人で十分間も話し続けていた神田平助という男子も、由美子となにやら話をしている。それは自画自賛のような自己紹介で、クラスの笑いと共に、失笑もかっていた。
「よう、瀬名」
不意に響いた、瀬名を呼ぶ太く男臭い声に、美緒はつい眼を向ける。
声同様、いかにも運動部所属な、真っ黒に日焼けした男子が立っていた。がっしりとした体付きの上に乗った、細い眼と柔和な笑顔、肩まで伸びた長髪が印象的だった。
「ああ、凛。そっちも終わったのか」
瀬名が嬉しそうに微笑む。
「ああ、帰ろうぜ」
そう言って凛と呼ばれた男は、ちらりと美緒に眼を落とした。
「おい瀬名。若い女教師だけじゃなく、こんな可愛い娘と隣なのかよ。俺なんて、担任は中年男教師だ。しかも女より男の方が人数が多いらしくて、隣りの席は男だぞ」
可愛い娘と言われ、美緒は頬を紅らめた。否定すべきなのだろうが、どうにも声が出ない。
今日は一体何回紅くなるのだろう。
凛は紹介しろよと瀬名を肘でこずいた。
「え、ええと、倉科美緒さんだっけ」
綺麗な顔に、わずかながら緊張を浮かべつつ瀬名が紹介した。
「そうか、俺は凛耕太郎。この白いのは瀬名一樹。同じ中学の出身だ。よろしくな」
と言いながらその手を差し出した。
握手を求めているらしい。
後から思えば、知り合って握手するなんてことは生まれて始めてのことだった。
しかし、凛の子供っぽい笑顔と、瀬名の美貌に呆然としていた美緒は、なんの違和感もなく凛の手を握っていた。
「私は、倉科美緒です。よろしくお願いします」
そう言葉にするのが精一杯だった。
「おいこら、男子生徒、私の美緒ちゃんに気軽に話しかけてはいかんよぅ」
瀬名と凛の背後から女の声がした。
ふたりは驚いて振り返る。
そこには由美子が立っていた。顔中にやけている。女の子にあるまじき破顔といってもいい。
「ども、私は弓由美子、よろしく」
「あ、ああ、俺は凛、こいつは瀬名だ。よろしく」
「いきなり美緒に眼をつけるとは、なかなかお眼が高いわね、凛君」
凛の背中を軽くパンパン叩きながら、由美子が言った。
「眼なんてつけてないぞ、瀬名と帰ろう思って来ただけだ」
「ふーん、そのわりに、いきなり手なんかつないじゃって」
「な、初対面の挨拶だ、挨拶っ」
「いまどき高校生が、挨拶で握手なんてしませんって」
由美子は楽しくてしかたがないというふうに笑っている。凛も困ったような顔をしていたが、しばらくするとむきになった自分に照れたように笑い出した。
由美子は初対面の相手とでも、まるで旧知の仲のようにしゃべることが出来る。相手の懐にいきなり飛び込むことが出来るのだ。それでいて相手に不快感はあたえない。そんな由美子を美緒はうらやましく思うのだった。
高校生活。その新しい環境に感じていた不安は、いつのまにか溶けて消えていた。由美子は同じクラス、美少年は隣の席、その友達は良い人そう。
ああ、きっと楽しい高校生活になる。美緒は確信めいたものを感じていた。