夢でであう、少年少女
「じゃあ、また明日」
いつもの学校の帰り、この曲がり角で二人はいつものように別れを告げる。
また明日と言った少女は手を振り、彼女とともに歩いていた少年ははにかみながら手を振り返す。
「うん。じゃあまた明日」
そのまま二人はいつものように別れ、互いに家へと足を運ぶ。長い三つ編みを揺らす少女の名は南条 北亜。少年の名は小野寺 和希、二人ともが幼馴染として育ち、同じ小学校を卒業し、今は同じ中学校へと通っている少年少女。
中学生とは青春時代の始まりとも呼べる時期である、初めて恋をし、大好きになった人のことを夢見るように考える。時には喧嘩し、少ないお小遣いのもと精一杯のデートをするのだ。
北亜と和希は幼稚園の時からともに遊び、進級のときには「次こそいっしょのクラスになれるといいね」と言い合う仲でもあり、それは次第に恋へと感情を変えていった。恋というにはいささか大袈裟であり、友情と言うには言葉が足りないような感情。二人はまさに青春時代を始めたばかりだった。
「和希」
北亜は自分以外誰もいない部屋でつぶやいた。
それは一人ぼっちのさびしい部屋という意味ではない、思春期に入った少年少女がほしがるような一人部屋の中でということだ。リビングに行けば父と母が談笑しているだろう、だけども少女はひとりになって好きなアーティストの音楽を部屋に流したり、心をみたすために慣れないワーズワースをよもうと心を躍らせる部屋のほうを好む。その部屋は誰にだって入ることを許さない、絶対的な彼女だけの空間だった。
「今頃何してるのかな…」
もしかしたら和希も今、私のことを今の私のように考えてくれているのかもしれない。もしそうだったらどうしよう。それって運命じゃないんだろうか。そんな考えすら頭に浮かぶ。
それは運命だと北亜の中で勝手に結論が出るのはそう遅いものではなく、むしろ一瞬でそういった唐突な結論を出してしまう。すべては運命、だから運命という言葉はすばらしい。なんだって運命と言ってしまえば解決できるから。和希と自分のことはすべて運命なのだ。
このひとりっきりでいる自分の領域、何を考えていても邪魔されることがない、ずっと好きなことを考えていられる大切な空間。北亜はベッドの上で自分ぐらいの大きさはある抱き枕を抱きしめる。甘いアロマの香りでも漂えばもっとすてきな部屋になるのに、火は危険だと両親の許可がでないためアロマを炊くことはできないでいる。
「…和希」
まるでその名が大切な宝物かのように、今は届かぬ人に言葉を向けた。
この部屋でいくら彼の名前を呼んだところで意味がないし、両親に聞かれると恥ずかしいし、どうしようもないことだとわかっている。だけども言いたくなるものは彼女自身にだってどうしようもなかった。
北亜はベッドの上で眠りに誘われるように目を閉じた。その暗闇となる瞼に映ったものは和希の姿でもなく、ただの真っ暗闇だけだったけれど、それは北亜の心を安心させた。眠るときは闇が一番心地よいから。
明日になればまた学校が始まる、小説などでは代り映えのしない、つまらない学校に行くのがつらく、正義のヒーローに憧れる主人公の物語などがあったけれど、代り映えのしないことが何がつまらないのだろうと北亜は思う。代り映えのしない学校ではいつも当たり前のように和希と会うことができるし、友達とだって会える。嫌いな先生には会いたくないけど、大好きな先生には会いたい。
北亜はそんな明日を思って、ウトウトとした波を受け入れるようにして眠りに入ろうとしていた。眠たい、今日はいつもよりも眠たくなる時間が早い気がする、きっとこのまま無理をして起きていたって得することはないだろうからこのまま寝てしまおう。
どうでもいいことであるが眠る直前の起きているとき、最後に考えていたことは今日の国語の時間で読んだ古典の物語のことであり、そこでは思い人を待ち焦がれる女性の夢に想い人が現れたとき、それは想い人もその女性のことを想っているときだという話。昔の人だってロマンチストだったのだ。どうして今こんなことを考えたのだろう。
目前には白く輝く霧が漂い、前がよく見えないような場所にいた。
不思議とその霧に触れた途端に自らの体が消えてしまう予感を持っており、体にまとわる霧にどうしようもなく動くこともすらできなかった。
どうしようと北亜は考えた。
霧に触れると自らの体が消えてしまう、だからといってこのまま立ち竦んでいてもこの霧は漂い続けるだけで何ら変化を見せそうにはない。これでは八方ふさがりだ。
「北亜」
聞き覚えのあるその声を聞き、北亜は振り返る。そこに立っていたのは和希だった。彼もまた霧に包まれているようだった。
「和希。そこにいたの?ねえどうしよう。霧があって私動けない」
和希がいたことに安心し、北亜は助けを求めるように言ったが、和希はその場を動こうとも手を伸ばそうともしない。最後に曲がり角で別れた時のような表情でただ微笑んでいるだけだった。和希の笑った顔を見て、北亜はなぜか同じように笑おうとした。だけどもまたしても霧が邪魔をするかのように北亜の動きを鈍らせた。だから北亜は笑うことをあきらめた。
「まさかここでも会えるなんて思わなかったな。でも会えてよかったよ、最後に会うなら絶対北亜がいいって昔っから思ってたからね」
「ごめんなさい。何を言ってるのかよくわからない。でも、それよりここはどこ?知ってるのなら教えてほしいの」
「まさか知らないで来た…というより気付かないでここに来たの!?」
和希は驚いたようだった。
「本当にここがどこだかわからないの?」
「そうよ、だから聞いてるの。ここは学校じゃないよね、もちろん家でもない」
以外に中学生の知っている範囲などせまいものだ、もちろん小学生になるともっとせまくなる。北亜は中学生だ、霧が漂うからと言って具体的な地名を上げることなんてできなかった。彼女の世界は中学校と家が大半を占めている。
「そりゃ学校でも北亜の家でもないよ。でも本当に心当たりがないっていうの?」
「質問に質問を返すのはだめなことよ。とにかく私は本当に知らないんだってば」
「…それじゃ、やっぱり…」
「やっぱり何?」
「―――やっぱり北亜はすごいよ!」
「へ?」
「北亜は昔っから勉強だってできたし、体育だって上手だった。僕いつもみてたんだ、バスケのときだってダンクを決めた時は北亜だった。絵だってうまい、ただ歌は音痴だけど、それだって音程の維持ができてないだけで、練習したらもっとうまくなる」
褒めたいのか貶したいのかわからない言葉だ。もちろん北亜はそれを前者だと当たり前のように受け取っていたものの、なぜそんなことを急に言い出したのか、学校ではダンクを決めたときだっていつも小さな声で「おめでとう」とかそんなそっけない返事しか言ってくれなかったのに。どうしてそんなに大きな声で嬉しそうにいってくれるのだろう。
「…なにか、あったの?」
そうとしか考えられなくて思わずそう聞いたとき、和希の肩がふるえるのを確かにみた。それと同時に周囲の霧の輝きが一層大きくなってもいた。和希から眼をそらすとたちまち光で瞼が焼け、誰の姿もうつさなくなってしまうのではないかと思った。今は霧よりも和希を見なくてはいけない。
「そうでしょ?何があったの?私に最後に会いたい理由って何?最後って何?明日じゃなくて今聞くから言ってみて」
自分自身で言っているうちに、おそらくそれは確信に近いものであると感じた。和希が何に悩んでいるのかわからない、それがわからない自分がひどく恥かしかったし、それに気づかなかった自分がとても恥ずかしく感じた。例えるならば夏休み、31日目までに宿題を終えることができずに未完成なまま学校へと行かなくてはいかないような雰囲気に似ている。
「お願い、言ってみて」
この輝く霧のある場所には二人しかいなかった。ここなら誰にも聞かれる心配はない、北亜は和希がたとえどんなおかしな悩みをぶつけてきても笑わずに真摯に受け止める覚悟があった。和希だって言いやすいと思った。
和希はもう一度漂う霧を眺めた。北亜は漂う霧が今や自分よりも和希にまとわりついていることに気付いた。その霧が彼を連れて行きそうだったので怖くなる。
「―――この先だってずっと今日が続く。そんなことを考えてるとなんだかすべてに疲れた」和希は地面を見た後再び色のない空を見たが、何を見たのかわからなかった。彼の瞳が怖いぐらいに静かに感じた「なんでこうなったんだろう、考えたんだろう。でも、これしか今の僕には思えないんだ。死にたいんだ、死ねばいいと思っている」
和希が何を言っているのかわからずに、北亜は何回も何回もその言葉を反復する。和希が生きることをつらいと思っているのだと理解したのは何回反復した時だったのかは忘れてしまった。
死にたいという言葉を聞いて、北亜の中では恋人が不治の病にかかりながらもお互いに愛を確かめ合うような、陳腐だと笑われそうな物語が動き回っていた。あの物語の主人公は愛する人に対してどのような言葉をかけていただろうか、「愛してる」、その短い言葉で私の言いたいことがすべて含まれるだろうか。そこで北亜は気付いた、今自分自身が思い出した物語のすべては助かるすべがないまま愛という美しさのベールを着せて死んでいった。誰も助かってはいないのだ。
間抜けな自分に気づいてもっと間抜けな言葉が口から出る。
「死ぬって…なに?」
主語が抜けた。これではまるで死という単語がわからない馬鹿な小娘のようだ、そうではなくて、北亜が言いたいことはどうしてそんなことを言うのということのはず。この役立たずな言いたいことも言えない口、ののしるだけの言葉をぶちまけたい。
この恥ずかしさを消すためになら過去へ戻って数秒前の自分を殴り飛ばしてやる。そんな決意はともかく、和希はいつもの視線を北亜へと送っていた。
「死ぬっていうのは北亜と、会えなくなるってことだよ」
「それじゃ、私会えなくなるなんて嫌。だっていっしょに中学を卒業して、高校に進学して、そして…」
「大学に行きたかった」
「行ける。だから過去形で言わないで。それじゃまるで本当に死んじゃう見たいよ。何があったの?」
「何があったかと言うと…北亜は知らなかったかもしれないけど、あの学校で僕友達いなかったんだよ。北亜以外にね」
「うそ、つかないで。だって東西くんは?松林くんとだって、遊んでいたじゃない」
「―――あいつらは友達なんかじゃないよ、人を利用するだけ利用する。そんな奴ら。北亜にはその名前すら言ってほしくない!」
和希の瞳に嘘はなく、まぎれもない和希の中での本当の気持であることが北亜にはわかった。もう嘘と言えなかった。いつも和希と一緒にいた自分にもわからない、知らなかった何かが彼にはあったのだと理解することしかできなかった。
「でも、私は和希と会えなくなるなんて嫌。和希が生きるのが嫌になったって。だってあの時言ったもの。また明日って」
「北亜」
「私、和希が何を考えているのかわからないしわからなかった。でもお願い、これだけはわかって。私は和希と一緒に明日を迎えたいの。あの曲がり道でおはようって挨拶したい。なにがあったのか本当に今だってわからないけど、私、和希と明日会いたい!おはようって」
無我夢中で蹴散らすように言い終わると、自分自身でも気がつかないうちに和希の肩を強くつかんでいたことに気づく。霧で体が動けなかったはずなのにいつのまにか、改めて周りを見渡すと輝く霧が消え去っている。そして今まで色のなかったはずの地面は草が生え、天井を見るとそこは天井のない空が広がっていた。
それをみてようやく北亜は気付いた気がした。そうだ、これが真実だったのだ。
「これは―――夢?」
その言葉を言った後、周りの風景が一変する。ルービックキューブの中に入ったような変な感覚だ。変化したその光景は霧の世界に戻ったわけではなく、例えるならば海の中におひさまが潜り込んだもの。驚いてその光景に目を取られていると、肩をたたかれそれが和希のものであるとわかり、これは和希が見せる夢ではなく、自分自身が見ている夢であると理解した。
「おはよう、北亜」
さっきの死にたいと言った和希と同一人物なのだろうか、さっきはさびしい表情をもっていたが、今はいい夢を見た後のような落ち着いた表情をしている。表情が違うだけで人はこんなにもかわるものなのだ。
「―――私、よくわからない。きっとまだ夢をみているのね。でもどうして」
「これは夢ではあっても僕自身の一部は夢の存在ではない」
「でしょうね。私の寝る前に考えていた和希とは全然ちがうもの」
「それは美化しすぎだよ」
「美化じゃないわ。私が見ている本当の和希よ。でもどういうこと?あなたは夢の和希の一部なの?それともまた明日と言った和希?」
「君が知っている和希の、だよ。北亜はもうすぐ目が覚める。朝日が出て鶏が産声に近い鳴き声をあげるからね」
「そしたらまた和希に会えるのね」
「いつも通りのね。でも―――」
そこから先は言わなくてももはや理解していた。だから北亜は和希の言葉を取り思ったことを言う。
「私はいつもとちがうことを言わなくちゃ。そうしないと何か取り返しのつかないことが起こりそうだから」
北亜の言葉を聞いた和希は満足そうに頷くと、その瞬間に再び霧が爆発するように夢に溢れ、二人の姿を飲み込んだ。私は夢から覚めるのだ、さよなら和希、おはよう和希。
この輝きが収まるころにはすっきりとした目覚めが待っているのだろう。
いつもの曲がり角、ここで日課となっているのが北亜と和希の待ち合わせ。何か特別に決めたわけでもなく、小さいころから当たり前となったまま二人で登校する。
クラスメイトに出くわすとからかわれることもあったが、それでも待ち合わせをやめることはない。
今日も同じように、というわけではなくたまたま北亜は目覚めがよく、天気もよかったのでいつもよりも早く待ち合わせの場所へとやってきた。今日はおそらく夢をみたんだろう、だけどももちろん夢の内容は忘れている。忘れるということは大した内容ではなかったのかもしれないが、ただ何か言わなければならないことがあったことだけは忘れていなかった。
「北亜?今日はなんだか早くない?」
いつもの彼の声、昨日聞いたのになぜだか懐かしい気がする。北亜は小さく深呼吸をすると、決意をしたように振り向いた。言う言葉はわかっているはずだ、知っているはずだ。
「おはよう和希―――――」