4月9日(27) 魔女出現!?の巻
長袖カッターシャツの左腕部分に付着した粘着性が強い糸から逃れるため、左腕の袖部分を右手で強引に引き千切る。
そして、迫り来る炎の鞭を地面に倒れ込む事で辛うじて回避すした。
背後にあった椅子の山と壁が破壊された事により、廃ビルに土煙が充満し始める。
俺は勢い良く立ち上がると、蜘蛛女との距離を縮めるために走り出した。
「神宮っ!!」
四季咲の声がフロア内に響き渡る。
俺は煙の向こう側にいる蜘蛛女の下へ──狙いがつけられないよう縦に横にジグザグ動きながら──距離を縮める。
煙の中を突き抜けた俺に待ち受けていたのは今にも泣きそうな蜘蛛女の姿だった。
彼女は俺を見るや安堵と悲嘆が入り混じった表情を浮かべる。
その顔を見て、俺は思わず呆気に取られてしまった。
とてもじゃないが、喧嘩相手に見せる顔じゃない。
知らず知らずの内に、俺は一瞬だけ戦意を喪失してしまった。
「う、うあああああ!!!!」
彼女は我武者羅に蜘蛛の脚を地面に叩きつける事で俺の行手を阻む。
目前に振り落とされた脚が視界に飛び込んで来た瞬間、俺は即座にバックステップする。
その隙に蜘蛛女は無様な格好で上の階へ逃げ出した。
「お、おい、待てっ!」
どう見ても錯乱したようにしか見えない蜘蛛女を心の底から心配しながら、彼女の跡を追いかけようとする。
「神宮、待ってくれ!」
白い糸により両腕を拘束された四季咲が俺の下に走り寄る。
「私が言える立場ではない事はよく理解している!君が悪意を持って彼女を追い詰めていない事はよく分かっている!けど、……もういいのではないか……!?もう彼女に暴力を振るわなくても……」
四季咲は自分の非力さを嘆きながら、俺に止まれと命じた。
俺はそれを拒むべきか受け入れるべきか一瞬だけ悩んでしまう。
「……四季咲、お前の言う通りだ。確かにこれ以上、蜘蛛女を追い詰める必要はない。さっさと魔女の所に行って、魔女を倒した方が効率的だ」
だが、俺は知っている。
今の蜘蛛女の精神状態が危うい事を。
今まで沢山の奴等と喧嘩して来た俺だから分かる。
今のままだと蜘蛛女は自殺してしまう。
前にも似たような事があったから、経験として俺の頭に残っている。
だから、放って置く事はできないのだ。
もし彼女に死なれたら、四季咲は悲しむだろうし、俺も一生後悔し続ける。
「でも、今のあいつを放って置く事はできない。今、あいつは魔女の思惑と自分の良心の所為で板挟み状態になっている。下手したら、自分で自分を殺してしまうかもしれない」
俺は遠慮がちに推測を述べる。
それを聞いた途端、四季咲は今にも泣きそうな表情を浮かべた。
俺は彼女を安心させるためにVサインを送る。
「大丈夫だ、俺があいつを止めるから。だから、ちょっとだけ待っててくれ」
そう言って、俺は四季咲を置いて上の階へ移動する。
蜘蛛女は3階のフロアにいた。
彼女は頭を抱えながら、ブツブツと独り言を言っていた。
彼女が何故錯乱状態に陥ったのか、ある程度予想できる。
恐らく、魔女が俺を殺せと彼女に命じたのだ。
人間である事に拘り続ける彼女にとって、その命令は酷だったものに違いない。
肉体の人間性と精神の人間性、どちらか片方を選べと言っているようなもんだ。
俺もどちらか片方を選べと言われたら、間違いなく動揺するだろう。
「……助けに来たぞ、蜘蛛女」
どの口でこんな言葉を吐き出しているのだろうか。
俺は彼女を追い詰めている筈の要因なのに。
魔女と同じく、彼女を追い詰めている側なのに。
そう思うと、一瞬だけ自分を嫌いそうになる。
俺の言葉が届いていないのか、彼女は俺を見るや否や呆気に取られたような表情を浮かべた。
そして、俺の顔を認識すると、急速に憎悪を募らせる。
それを見た俺はもう彼女を気絶させる以外、術がない事を悟った。
「あんたが、……降伏しなかった所為で……!あたしは……!あたしは……!!」
「…………今、楽にしてやるからな」
俺が動き出した途端、彼女は今にも泣き出しそうな表情で蜘蛛の脚で俺を牽制する。
「いや、いや、嫌、嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!!!蜘蛛になんかなりたくない!!折角、夢が叶いそうなのに!!あとちょっとであたしは幸せになれたのに!!」
駄々を捏ねる子どもみたいに脚を無造作に振り回す。
それを見た俺は心を痛めてしまった。
「何であんたはあたしを苦しめるのよ!?あんたが大人しくしてれば、あたしはあんたを殺せなんて言われなかったのよ!!あたしはこんなに苦しまなくて済んだのよ!!何であたしがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!!何であたしがあんたを殺さなきゃいけないのよ!!何で世界はあたしを不幸にするのよ!!」
彼女の心からの叫びは出会って1時間も経っていない俺にも痛いくらいに伝わった。
「嫌だよぉ、蜘蛛になんかなりたくない……。何で、どうして、何で……」
運が悪かっただけだ。
大丈夫、すぐ救ってやるから。
そう言った気休めにしかならない言葉が俺の喉から出かかっては、すぐに引っ込める。
こんな言葉じゃ彼女は救われない。
いや、どんな立派な言葉を掛けようとも彼女の耳に届かない。
今の彼女に耳を傾ける余裕なんてないから。
右の拳を握り締め、一撃で彼女を気絶させようとする。
それ以外に方法を知らなかったから。
暴力以外に彼女を楽にする方法を知らないから。
俺はこれまでやって来たように、問題を有耶無耶にするためだけに拳を振おうとする。
俺が彼女との間合いを一足飛びで詰めようとしたその時、下の階から拘束状態の四季咲が現れた。
「柚理!!」
四季咲が蜘蛛女の名前を読んだ途端、蜘蛛女は心ここにあらずといった様子で四季咲に襲いかかる。
「四季咲!!」
拳を緩めた俺は慌てて彼女達の間に割って入った。
蜘蛛女は自分の前脚の先端を四季咲目掛けて突き放つ。
俺は自分の身体を盾にする事で、四季咲を庇う事に成功する。
──だが、その代償はとても重かった。
「が、あ………」
蜘蛛女の前脚が左腹に突き刺さる。
拳1つ余裕で入るくらいの穴が俺の腹に生じていた。
痛みよりも先に熱が俺の脳内を埋め尽くす。
彼女の脚が腹から抜けた途端、熱は痛みに変換されていく。
次々に抜け落ちる赤い液体。
自分の血でできた赤い水溜りの上に落ちながら、俺は腹部から生じる痛みに何とか耐えようとする。
歯を噛み砕く勢いで歯を食い縛った。
そんな程度じゃ我慢できない激痛が脳を揺さぶる。
俺の口から短い悲鳴が漏れ出た。
それを聞いた蜘蛛女は今にも消え入りそうな声で呟き始める。
「……違う、あたしはこんなの望んでなんかいない。あたしは、ただ蜘蛛になりたくなかっただけで……本当は殺す気なんかなくて……」
お前の所為じゃない。
その一言を伝えたいのに、口から出るのは噛み殺した悲鳴のみ。
とてもじゃないが、伝えれる余裕はない。
そして、俺の惨状を見て、絶望しているのは蜘蛛女だけではなかった。
「私が、ここに来たから……神宮は、私に待ってろと言ったのに……」
血の海に沈む俺を見て、四季咲は自分で自分を責め始める。
(…………最悪だ)
これは俺のミスだ。
四季咲に的確な言葉を告げていたら、蜘蛛女が錯乱するよりも早く勝負を決めていたら、この事態を避けられた筈だ。
ふと、今朝の占いを思い出す。
確か、腹に気をつけろと言われていたような気がする。
あの占い、結構当たっているなと呑気な事を考えながら、俺は腹部の出血を止める策を練る。
「やっと、瀕死の状態に追い込めたのか」
突如、俺の惨状を喜ぶ声がフロア内に響き渡った。
声の主を見る余裕なんてない。
左腹部から放たれる熱と痛みの所為で、まともな思考力が削ぎ落とされている。
けど、本能的に不味い事を理解していた。
逃げろと彼女達に告げようとする。
けど、痛みに耐えている所為で口から言葉は漏れなかった。
今、口を開いたら、今苦悶に満ちた声を漏らしたら、余計に彼女達を追い詰める事が分かっていたから。
「本当、無価値な癖によくもここまで俺の手を煩わせてくれたな。お前さえいなければ、スムーズに事を進められたのに」
俺さえいなければ……?
どういう事だ?
無価値な存在という言葉と矛盾しているような気がする。
疑問が頭に過ぎるが、痛みの所為で考えは纏まらない。
頭を何度も殴られるような痛みに耐えながら、俺は跳ね上がるように立ち上がる。
そして、無神経に俺の方へと近寄っていた魔女に回し蹴りを浴びせた。
「にゃっ……!?」
魔女の不意を突いた一撃は、彼女の首の左側に突き刺さる。
だが、痛みの所為で蹴りの入りはとても浅く、魔女を気絶させる事はできなかった。
「くそ……!」
左腹部からの出血を左手で押さえながら、俺は魔女の顔面に殴りかかる。
だが、俺の鈍重な動きよりも魔女の方が速かった。
焦った彼女は俺に蹴られた首を押さえながら、右掌を俺に突き出す。
その瞬間、俺の身体は呆気なく魔法の力で吹き飛ばされてしまった。
「が、あ……!」
背中に強い衝撃が走る。
それと同時に窓ガラスの割れる音が聞こえて来た。
浮遊感に包まれる。
視界には廃ビルと夜空が映り込んだ。
ここでようやく俺はビルの外に放り出された事、そして、現在進行形で落下中である事を理解する。
ビルの中から四季咲の声が聞こえて来た。
それを知覚しながら、俺は地面に激突した。




