4月9日(26) 「殺すつもりでかかってこいよ」の巻
「都市ガスやプロパンガスに玉ネギや卵の腐ったようなニオイが付いているのは、嗅覚でガスの漏洩を感知できるようにするためよ。本来、燃料に使用される多くのガスは無色・無臭らしくてね。人間が本能的にガス漏れを察知できるよう、敢えて業者の人がガスに臭いを付けているらしいわ」
フロア内に漂う異臭が何の匂いなのか気づいてしまう。
この腐臭は恐らくガスの匂いだ。
「ここまで言えば理解できるかしら?もう貴方は私に従う以外、生き残る術がない事を」
一目散にこの場から逃げ出そうとする。
「動くな。じゃないと、このフロア毎爆発させる」
だが、俺の行動は蜘蛛女のたった一言で止められてしまった。
俺は大人しく彼女の言う通り、ガスが充満した部屋の中に居続ける。
「そうそう。そうやってお人形さんみたいに大人しくしてなさい。そうしたら、この場においてのみ命の保証はしてあげるわ」
「……あんたはずっと化物の姿でいたいのか?」
この状況を切り抜けるための方法を考えるため、時間稼ぎを行う。
「魔女とやらを倒さない限り、あんたはずっと人間性に拘り続ける事になるぞ。それでも良いのか?」
彼女の目的は、このガスが充満しているビルの中に俺を誘き寄せる事だった。
屋上に用意していた鉄骨も駐車場に用意していた車も、そして、蜘蛛と魔法を組み合わせた炎の鞭も全て俺をここに誘き寄せるための布石。
ならば、このフロアに張り巡らされた蜘蛛の糸にも何かしらの意味がある筈だ。
今までの攻撃がそうであったように。
「良いに決まってるでしょ。あたしはあたしが助かるためなら何だってする。それで誰が犠牲になろうが知ったこっちゃない。あんたが助けようとしている会長はね、誰かを助けようと本気で思ったから、あんな惨めな姿になっちゃったのよ。あたしにはそんなの耐え切れない。今だって、こんな人とは言い難い姿に嫌悪感抱いているのに」
俺が抵抗するのを見越して罠を仕掛けているのだろうか。
いや、その割には糸が目立ち過ぎている。
彼女が車や鉄骨をぐるぐる巻きにした時の糸と比べると、このフロアに張られている糸は細く、粘り気があるように見えた。
糸の種類が違うのだろう。
車を投げたり、炎の鞭と化した糸は耐熱性と強度に優れたものだったに違いない。
一方、建物内に張り巡らされた糸は粘着性が優れているように見えるが、耐熱性に優れた糸と比べるとかなり細い。
多分、この細さでは車みたいな重いものを振り回す事はできないだろう。
もしかしたら、熱にも強くないかもしれない。
(何故、粘着性に優れた糸をこのフロアに張っているんだ……?)
バラエティ番組みたいに糸を踏んだら、上からタライが落ちてくるような安易な罠が仕掛けられているように思えない。
ただ、俺が入り込めそうな隙間に、俺が行きそうな場所に粘着性のある糸を張っているだけだ。
これにも何かしらの意味があるのだろうか。
「なら、魔女を倒せば良いだろ。何であんたは元凶である魔女に従ってんだ?」
彼女と話す事で時間を更に稼ぐ。
あと少し、もう少しで突破口が見える──ような気がする。
「そんなの勝ち目がないからに決まってるじゃない。勝機のない勝負に乗るなんて馬鹿がやる事よ。その場凌ぎでも何でも良い。あたしがあたしでいられるなら、殺人だろうが何だろうがやってやる。それがあたしの覚悟よ」
「んなもん、ただの諦めじゃねえか。あんたは魔女の気分次第で右往左往する人生を送るつもりなのか?」
「ええ、それで私の美が保たれるなら」
もしも彼女が本当に俺の事を殺す気なら、このビルに入った途端、魔法とガスで俺を焼き殺す事ができた筈だ。
それをしないという事は俺を是が非でも殺したい訳じゃない──のかもしれない。
「私はね、子供の頃からずっと女優になりたかったの。最近になって、ようやくその夢が叶いそうなの。こんな訳分からない事で、その夢を摘まれたくない。私にとって女優になる道はね、何よりも優先すべき事なのよ。だから、──」
「だったら、俺を殺せよ。自分の夢を叶えるためなら、俺を殺すくらいどうって事はないだろ?」
俺の一言で彼女は戸惑いの表情を見せる。
それを見て、ようやく彼女の意図を理解できた。
「幾らあんたが脅しをかけようが、何しようが、俺は止まらないし、止まる気はない。本気で止めたかったら、殺すつもりでかかって来い」
そう言って、俺は地面に足跡が残る勢いで地面を蹴り上げる。
蜘蛛女は驚愕すると、反射的に炎の鞭を両腕に装備した。
彼女は鞭をしならせると、物凄い勢いで鞭を振り回す。
遮蔽物を呆気なく裂く鞭の一撃を躱すため、俺はすぐ近くにあったツードア式の冷蔵庫の上に飛び乗ると、すぐさま冷蔵庫を思いっきり蹴り上げる。
冷蔵庫を踏み台にする事で飛距離を稼いだ俺は、前宙しながら、蜘蛛女の頭上を取った。
「……なっ!?」
右足を頭上まで上げると、蜘蛛女の左肩目掛けて踵落としを披露する。
全体重を右足に乗せると同時に彼女の口から苦悶を訴える声が漏れ出た。
「ぐ、っぎい……!」
蜘蛛女の左肩から嫌な音が鳴り響く。
左足で彼女の胴体を蹴った俺は、そのままバク宙しながら地面に着地した。
「どうやら、ガス云々は嘘だったようだな」
焼き切れた遮蔽物を眺めながら呟く。
「おかしいと思ったんだよ。もしガス爆発させる気なら、ここに粘着性のある糸を張る必要がない。罠なんか張らなくても、ここを爆破するだけで良いからな。この罠は脅しが利かなかった際の保険だろ。俺を確実に捕らえるためのな」
多分、このフロア内を満たす悪臭はガスではなく腐った食物だろう。
彼女が現実味を持たすために用意したのか、それとも元々あったものなのか分からないが、彼女がこの臭いを利用したのは確かだ。
もし俺を殺すつもりなら、本物のガスを使用していただろう。
脅しでもガスを使わなかったという事は、そういう事だ。
彼女は俺を殺すつもりが最初からない。
殺すつもりがないから、脅しが利かなかった時のために粘着性のある糸を張り巡らせたのだ。
「どんだけ悪ぶっても、あんたも四季咲と同じタイプの善人なんだよ」
「……黙れ」
折れた左肩を押さえるのを止めた蜘蛛女は血走った目で俺を睨む。
「ちょっと話しただけで私を分かったつもり?虫唾が走るわ」
「虫だけにか」
「黙れ」
突如、蜘蛛女は自分の頭を押さえる。
彼女は徐々に顔を青くしていくと、血走った目で俺を睨み始めた。
「だ、……大丈夫か?」
俺の声が聞こえていないのか、彼女は目を潤ませながら、縋るような目で俺に睨みを利かせる。
「あ、あ、あああああああ!!!!」
蜘蛛女は叫びながら、我武者羅に炎の鞭を振るい始めた。
鞭が俺の周囲の空間を削り取る。
俺はその場から1歩も動けなかった。
理由は至って明瞭。
何処に飛んでくるのか予測できないから。
考えなしに鞭を振るっている以上、迂闊に動く事ができないのだ。
意図も目論見もない攻撃に俺は翻弄されてしまう。
先程と違って、感情任せに鞭を振り回しているので、何処に飛んでくるか全く分からない。
「くそ……!」
何処に動けば正解なのか考えている内に、俺の前頭部目掛けて炎の鞭が飛んで来た。
躱そうとした瞬間、俺が着ていたカッターシャツの左袖に粘着性が強い糸が付着してしまう。
慌てて糸から左腕を引き剥がそうとするが、粘着性が強過ぎて剥がれなかった。
「しまっ………」
身動きが取れなくなった事で危機感が急速に募っていく。
危機感がピークに達した途端、炎の鞭が俺の視界を埋め尽くした。
「やば……!」
それを認識したと同時に廃ビルの中は轟音で満たされた。




