4月2日 (4) 『花の冠/みすぼらしい花束』の巻
上手に人混みを掻き分けながら、美鈴は俺から逃げようとする。
俺は通行人をぶつからないように不器用に避けながら、彼女の跡を全力で追いかけた。
万全な状態ならすぐに捕まえられるが、今の俺はただの怪我人。
走る度に全身に激痛が走ってしまうため、運動能力が俺よりも遥かに劣っている筈の美鈴に追いつく事は中々できなかった。
彼女は人混みから離れると人気のない方へ向かい始める。
「馬鹿、そっち行ったら追手に捕まるだろうが……!!」
自分が何から逃げていたのかを忘れた美鈴は、どんどん自然豊かな方へ逃げ込む。
(早く美鈴を捕まえないと……!)
痛みで上手く動かない身体に鞭を打ち、全力疾走で追いつこうとする。
が、俺は自分で自分の足を蹴ってしまい、勢いよく転倒してしまう。
「うげぇ……!!」
新調したシャツを泥だらけにしながら、俺は土の地面の上を思いっきり転がってしまった。
急いで立ち上がろうとする。
が、ある作戦が頭を過った。
(……気絶した振りしたら、俺の元へ駆け寄ってくれるかもしれない)
美鈴の優しさが真であるなら、この作戦は100%上手く行く。
もし彼女が気絶した俺に気づかず、走り去ってしまうなら、その時はその時だ。
まあ、なんとかなるだろう。
俺、運が良い方だし。
倒れたままの状態で美鈴が近寄るのを待つ。
すると、俺の転倒に気づいた美鈴が足音を出すのを止めた。
「……お兄ちゃん……?」
中々起き上がらない俺を見て不安そうな声を出す美鈴。
彼女の優しさにつけ込んだ俺はそのまま意識のない振りをした。
「お兄ちゃん!」
優しい美鈴は俺の演技に気づく事なく、来た道を逆走する。
そして、警戒する事なく、俺の身体を揺さぶり始めた。
「お兄ちゃん!しっかりして、お兄ちゃん!!」
俺は躊躇う事なく、返事を返す事なく、間合いに入ってきた美鈴に寝技を掛ける。
「ぎゃあああああ!!!!」
「ハッハー!まんまとかかりおったな!この馬鹿め!!」
小学生と思わしき少女に寝技をかけるという、側から見なくても間違いなく通報ものの行動を取る自分にドン引きしてしまう。
……何やっているんだろ、俺。
早々に美鈴を解放した俺は、痛みに悶える彼女に話しかけた。
「ったく、わざわざこんな人気のない所に逃げやがって。お前、自分がどんな状況下に置かれているのか、忘れているよな?」
美鈴はさっきかけられた寝技の余韻でまだ苦しんでおり、まともな返答ができない状況に陥っていた。
空気を和ませるために冗談を飛ばす。
「大丈夫だ、俺も忘れていたから」
が、俺のセンスも欠片もない冗談では、美鈴はクスリも笑わなかった。
「別に俺を思い通りに動かしているからって自分を責める必要はないぞ。……って言っても、逆効果か」
恐らく美鈴は俺を思い通りに動かしている罪悪感に耐えきれず逃げ出したのだろう。
この推測が正しければ、幾ら優しい言葉をかけても彼女の心に響かない。
それは彼女の力で生み出された偽物だから。
(さて、どうしたらいいのだろうか……)
俺はない頭を振り絞って考える。
どうやったら俺は彼女の思い通りに動いていない事を証明できるのだろう。
俺自身も自分の意思で動いているのか定かではないのに。
ふと、彼女の手にあるミドリガメが目に入った。俺はそれを見て、あるアイデアを思いつく。
「美鈴、お前は今、俺を思い通りに動かしているって思っているよな?」
美鈴は目線を下に向けると、唇を震わせる。
「俺自身、本当に自分の意思で動いているのか分からない。もしかしたら、俺はお前に操られているかもしれない」
俺はミドリガメを指差しながら、こう言った。
「けど、お前がその亀やあの金魚達を救いたいって思ったのは本物だろ?なら、お前はそいつらを養うために俺を利用しなきゃいけないんだ」
「利用……する?」
「そうだ、俺はペット飼育禁止の所で生活しているからな。お前が金郷教の奴等に捕まって場合、その亀は間違いなく路頭に迷った挙句、死ぬ事になる」
美鈴は袋の中に入った亀をじっと見つめる。
「その亀はお前にしか救えないんだ。だから、お前はどんな手段を使ってでも、そいつらを守らなきゃいけない。それが命を預かるって事だ」
罪悪感のベクトルを俺から亀へ変換させる。
そうする事で俺を操っても仕方ない状況を作り出す。
自分の意思で動いている事を証明できない以上、今はこの言い方で言いくるめるべきだろう。
「……で、でも、私の所為でお兄ちゃんが死んだらどうするの!?お兄ちゃんは私と亀のために命を賭けるって言うの!?」
「大丈夫だって、俺は死なないから」
美鈴にVサインを送りながら、強がりを吐く。
俺はもう2度とあの時の過ち──昆虫ゼリーだけで甲虫を世話しようとした事──を繰り返したくないのだ。
それに、幾ら相手が魔法を使えるからって暴走族とヤクザと比べたら楽な方だ。
今回は俺も魔法の力が扱える訳だし。
「けど、それはお兄ちゃん自身の言葉じゃない!!それは私の無意識が生み出した言葉なんだよ!!お兄ちゃんの意思なんかじゃない!!」
「そこら辺は全部終わってから考えよう。お前の持つ神器とやらの力をどうにかしたら、俺が操られているかどうかも分かるんだろうし。今、そんな事考えても答えは出ないから」
俺は美鈴が悪ではない事を信じて、金郷教の奴等と喧嘩する。
美鈴は掬った亀のために金郷教の奴等から逃げ切る。
今まで不明瞭だった目的が、ちょっとだけ明確になった。
小難しい事は啓太郎やバイトリーダーに任せよう。
悔しいが俺の頭じゃ、これが限界だ。
「だから、美鈴は嘘吐いた事で罪の意識を感じたり、洗脳しているかどうかで悩んだりしなくて良いんだぞ。俺は俺のためにここにいるんだから」
“俺は俺のためにここにいる”、そんな言葉が無意識の内に口から零れ落ちてしまう。
俺は一体何を考えているのだろう。
自分の事なのに自分の事が分からなくなった。
いつの間にか目からポロポロ涙を零している美鈴を横目で見る。
なんで泣いているのか、俺には幾ら考えても分からなかった。
聞いても教えてくれないだろう。
俺と彼女の間にまだ壁がある事を理解する。
俺は彼女が泣き止むまで春空を仰ぐ事にした。しかし、幾ら待っても彼女は泣き止まない。
あまり湿っぽい雰囲気が好きじゃない俺は、深く考える事なく、足元を見下ろす。
足元に小さな花──黄色い花弁をしたタンポポが咲いている事に気づいた。
小学生時代、近所に住む幼馴染──14歳で一児の母になって、今は子育てに励んでいる──から、“タンポポの王冠”を作って貰った事を思い出す。
俺はうろ覚えの知識で、“タンポポの王冠”を作る事にした。
まだ肌寒い春風を浴びながら、俺は王冠を作り続ける。
遠くからウグイスの鳴き声が聞こえてきた。
慣れない作業に疲れた俺は、遠くの風景を眺める事で、ちょっとだけ一休みする。
遠くに視線をやった途端、豆粒サイズの桜並木が視界に映り込んだ。
春の陽気が俺を夢の世界に誘おうとする。
俺は欠伸を噛み殺すと、再び王冠を作り始めた。
どれだけ時間が経過したのだろうか。
王冠を作り終えた頃には、正午を過ぎていた。
美鈴の方を見る。
彼女はまだ泣いていた。
俺はそっと彼女の頭に“タンポポの王冠”を被せる。
王冠を身に着けた美鈴は潤んだ瞳のまま、俺の方を見た。
照れ臭くなった俺は、明後日の方を見る。
彼女はどんな顔をしているのだろうか。
そっぽを向いているから、彼女の表情を知る事はできなかった。
再び長い沈黙が訪れる。
こんなうろ覚えの知識で作った花束程度では、美鈴の悲しみは晴れないのだろう。
そりゃそうだ。
もし俺が貰う側だったら、花束よりも団子をくれと思うだろうし。
もし花束を贈るだけで人を幸せにできるんだったら、悲しみなんてもんは、とっくの昔に消えていただろう。
花束を貰うだけで欲が満たされるのなら、とっくの昔に世界から苦しみという概念も消え去っていただろう。
もし花束程度で人の心を救えるのなら、美鈴はとっくの昔に救われていただろうし、俺はここにいなかっただろう。
自分の無力さを改めて痛感する。
すると、唐突に何の脈絡もなく、美鈴は俺に感謝の言葉を述べた。
とても嬉しそうな声だった。
美鈴の横顔を一瞥する。彼女の涙は止まっていた。
想定外の展開に戸惑った俺は、つい言葉を詰まらせてしまう。
どうやら俺が思っていた以上に、この世界には悲しみも苦しみもあるけど、嫌なことだけではないらしい。
少しだけ幸せそうな雰囲気を醸し出す美鈴に釣られて、ちょっとだけ照れ臭くなった俺は人差し指で頬を掻いてしまった。




