プロローグ: 「お前はどんな大人になりたいんだ?」
「神宮、誰かのために頑張れる大人になれ」
窓の外からツクツクボウシの鳴き声が聞こえて来る。
夕方であるにも関わらず、窓から入ってくる風はまだ暑く、俺の火照った身体を更に熱らせた。
そんなサウナ状態と言っても過言ではない木造の教室にて、俺──神宮司はエロ本を堂々と読める大人になりたいがために、担任である教頭先生にこんな問いを投げかけた。
"どうやったら立派な大人になれるのか"と。
教頭先生は困ったような表情を浮かべると、慎重に言葉を選びながら、馬鹿な俺でも分かるように、優しい声色で”誰かのために走れる大人になれ”と言ってくれた。
「この世界にはな、助けを求めたくても求める事ができない人達が沢山いる。助けての一言も言えずに死んでいく人達が山程いるんだ。だから、神宮。その人達を助ける事ができる人になれ。……そして、どれだけ裏切られようとも、どれだけ詰られようとも、どれだけ蔑まれようとも誰かの幸せを心の底から願えるような人になってくれ」
俺はこう思った。"物凄く重い答えが返ってきやがった"と。
煩悩に塗れたクソガキだった俺は、“誰かのために頑張らなければ、紙媒体のおっぱいさえ拝めないのか”みたいな事を思って、軽く絶望感に浸った。
エロ本を手に入れるハードルが高過ぎる事に。そんな事を考えている俺に構う事なく、先生は懺悔するかのような面持ちで、言葉を紡いだ。
先生のシリアスモードに感化された俺は、マジ雰囲気に困惑しながら、先生の言葉に耳を傾ける。
「自分を犠牲にしてまで他人に尽くせとまでは言わない。けど、誰かのために走れる事は……誰かの笑顔のために頑張れる事は……立派な事だと思わないか?……先生は、……先生は、今でも、そんな大人になりたいと思っている」
俺にとって先生は"立派な大人"だった。
だから、先生の口から出た"大人になりたい"という発言はかなり衝撃的なものだった。
何故、先生は立派な大人なのに立派な大人になりたいと言ったのだろうか。
俺は質問する。
"先生は立派な大人じゃないのか"と。
「…………ああ、私は立派な大人ではない」
先生は今にも息絶えそうな面持ちで、俺の質問に答えた。
だから、俺は眉を顰めてこう言った。
"俺にとって、先生は立派な大人だよ"と。
「……いや、私は立派な大人ではない」
先生は俺の言葉を否定する。
"どうして"と尋ねた。
先生の言っている事がよく分からなかったから。
「……君が大きくなったら否応なしに理解できるだろう。私が■■で■■な■■である■■を……」
先生の言っている事が本当に分からなかった。
首を傾げる。
俺が首を傾げると、先生は困ったように微笑んだ。
昭和の時代から使われている木造校舎が、茜色の光に照らされる。
体重をかける度に不気味な声色で鳴く木の板も、何十年も使われている所為で傷だらけになった黒板も、いつ崩れてもおかしくない教卓も、年季の入った教室と相反するようにピカピカ輝いている若造の机と椅子も、目に入るもの全て西の窓から入ってきた夕陽に照らされてしまう。
茜色に染まった先生は、西日に染まった俺と教室を見ると、今にも泣きそうなくらい儚げな笑みを浮かべながら、俺に質問してきた。
「……神宮、お前はどんな大人になりたいんだ?」
俺はこう言った。"■■みたいな大人になりたい"と。俺の言葉を聞いた途端、先生は■■■■。
もう随分昔の話だ。
多分、10年以上の時が経っていると思う。
あれから時が流れて、俺は高校生になった。
先生は一昨年の夏、腎臓の癌が原因で亡くなってしまった。
あの時、先生は何を感じていたのだろう。
あの時、先生は何を思っていたのだろう。
何故、2回も"自分は立派な大人ではない"と否定したのだろう。
俺のなりたい将来像を聞いて、先生はどんな表情を浮かべたのだろう。
たとえ俺があの時の事を思い出したとしても、思い出した記憶が正解かどうか確かめる事はできない。
だって、あの時、同じ時を共有した先生はもうこの世にいないのだから。
時が経つにつれ、俺の思い出の中にいる先生は薄れていく。
あの晩夏の教室で交わした会話も、あの夕暮れの教室で先生が語った価値のある言葉も、時間が経つにつれ、あやふやなものになってしまう。
現にあの時、俺が言った"なりたい大人"も忘れてしまった。
いつかあの思い出も完全に風化してしまうだろう。
あの時の先生の思いも、あの時俺が言っていた"なりたい大人"も、全部、あの時吹いた晩夏の風が持っていったんだと思う。
真実を知っているのは、10年以上前に置いてきたあの夕暮れの教室だけ。
俺と意思疎通する気のない彼らだけが真実を知っている。
徐々に朽ちていく花束のような思い出を眺めながら、花が枯れるのを惜しみながら、今日も俺は走り続ける。
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