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盆の感傷、夏の夢

作者: 鳥焼火炭

原題は「どんぐり勇者」でした。

植物って素敵ですよね。

「ん?」

 自分宛に届いた封筒の口を破いていると、風も吹いていないのにどんぐりが窓から入り込んできた。

 手に取ってみる。家の裏には立派などんぐりの木が生えているので、そこから風に吹かれて落ちてしまったのだろう、まだ青い実だった。僕が昔ポケットに入れて運んできたどんぐりの木。まだ樹齢は若いが、ここ二年程は立派に実をつけているようだ。

 なんとなく机の上に置き直して、また封筒に向き直る。ちまちまと少しずつ破っていたが耐え切れずにびりっと乱暴に引き裂き、中から紙を取り出した。

「あーあ」

 部屋の中で一人、畳の目へとため息を溢す。萎びてしまってもうほとんどイ草の匂いもしなくなったそれは、ところどころ解れていた。客室ならいざ知らず、僕の個室となれば修理なんてされないだろう。僕が独り立ちするまでこのボロボロの畳と付き合っていくしかない。

「また佳作か」

 入賞には程遠い。佳作、努力賞、奨励賞。いくつ重ねても意味のない名ばかりの賞たちだ。同じ封筒に入っている賞金の入金先口座を記入する紙にも見飽きた。どうせもらったってキャンバスや絵の具などの画材に消える。時間だけを浪費する抜け出せないサイクル。

 ぽたり、と汗がその紙へと落ちる。八月も半ばになって、暑さはどんどんと増していく。蝉は太陽の光に負けないようにと声を張り上げ、窓にかけた風鈴は時々思い出したように吹く風でちりんと鳴る。どうせ鳴ったところで騒音と変わりないが。

 そうやって窓の外を見て、このまま絵を描かなくなっていくのだろうなという感想を抱いた。抱き続けているという方が正しいだろうか。夢にもならないこれを、惰性で続けていたってしょうがない。

 何とも言えない脱力感に襲われて、焦ったように外へ出た。


 何故暑いと言っているのに更に日差しの強い外に出るのかというと、家から歩いて五分ほどの距離にある駄菓子屋に売っているアイスを食べて気分転換をしようと思ったからである。暑さや蝉のうるささは紛れるだろうが虚無感や憂鬱な感情は消えないだろう、とは頭でわかっていてもあのままキャンバスの前に座る気分にはならなかった。

 昨日は雨だったというのに、道には水の気配がない。アスファルトの舗装の上では日陰の水たまりさえも死に絶えてしまうようだ。顎から滴る汗も拭う必要がないだろう。どうせそんな小さな染みなど、数秒で消えてしまうのだから。

 蝉噪が大きくなってきたことで目的地に近づいてきたことを感じる。この駄菓子屋は周りが雑木林になっており、蝉(と蚊や細々とした羽虫)が非常に多い。夜には絶対に近づきたくないポイントである。

 店の入り口では見覚えのある男子が二人駄弁っていた。確か中学校が同じだったと思う。名前は全然思い出せない。二人ともこっちに気が付いて顔を向けたが、別に声をかけるような間柄でもないのでそのまま脇を通って店内に入る。

「八十円だよ」

 アイスボックスの中から二つに割って食べるチューブに入ったアイスを買ってカウンターに持って行くと、御年九十の婆さんがか細い声で値段を告げた。僕はポケットから大きさや穴の有無などが違う硬貨を五枚取り出してトレーに置く。五円玉が二枚あったのだ。

 そのまま店内で袋を開けてポケットにしまい、アイスが溶けるように手で揉みながら外へ向かう。

「なぁ」

 このクソ暑い中でまだ残っていたらしい二人組に話しかけられる。なんて答えたらいいんだ…。名前なんだっけ。そんなだるい感じを隠して返答する。

「ああ、久しぶり」

 当たり障りのない返事だ、自分にしては上々の返しでは?

「いや…なんていうか、あんまり怒らずに聞いてほしいんだけどさ…」

 言葉を選ぶように言い淀む。メガネをかけた短髪の方、水泳部に所属していたはずだ。目にゴーグルの跡がないので、高校に入ってからは続けていないのだろう。はらはらしている様子でこっちを見ている隣の天然パーマは陸上部だったと思う。僕は黙って続きを待つ。ゆっくりでいいし、そんなに人を怒らせるような話題を切り出すようには見えない。

「さっき薄ら川の方でさ、オレンジの髪の女の子がいたんだよね」

 薄ら川、と言うのは町の北を流れるやや広い川である。正式名称もあるし何が薄いのかは全くわからないが、僕らはみんなそう呼んでいる。夏場になると浅瀬の部分にロープが張られ、遊泳用に開放される小学生の遊び場だ。

 しかし注目するのはそこではなく、「オレンジの髪の女の子」という点である。その件の女の子が僕の思った通りの人物なら、そんなところにいるはずがない。

「…」

「からかってるとかじゃなくてさ、見間違いか別人かもしれないけど…」

 黙っている僕を見て焦ったのか、そう続けた。天パーもうんうんと頷いている。その目は嘘をついているようには見えなかった。

「見間違いじゃないかな」

 再びアイスを揉む作業に戻って僕は言う。

「そうかもしれないけど…」

「見間違いだよ」

 自分でも驚くほどに冷たい声音になってしまった。やすりが金属を磨く音を耳音で聞くかされたように、神経が逆立っている。僕はまだ振り切れていなかったようだ、当たり前か。

「でも」

「…いや、ごめん」

 食い下がろうとした眼鏡の彼をもう一人が止める。必死な様子に少しだけ罪悪感が芽生えたが、ささくれた心は二人を無視するという選択肢をとった。そのまま背を向けてアイスをしゃぶりながら帰路を歩く。だけど、十字路で立ち止まってしまった。

 正面に向かえば家。右に曲がれば薄ら川。目を閉じて、今日はもう何度目かわからないため息を吐く。

「絵の題材にするだけだ」

 そう言い訳した。「オレンジの髪の女の子」が人違いだったとしても、青い川と緑が広がる岸辺には相当に映えるだろう。というか、十中八九人違いなのだけれど。そうでなければ蜃気楼だ。

 だってもう、彼女はこの世にいない。


 アイスはすっかり食べきってしまった。またうだるような熱気が体に立ち込める。最悪だ、家に帰れば扇風機があるのだからまだこの暑さもマシだっただろう。何も収穫がなかったら今度はスイカを買って帰ろう、そうしよう。夕日が出るまで川で涼んでから写真を撮ってもいい。どうせ同じオレンジだ。

 堤防に出る。堤防と言ってもそんなに高くはなく、川辺のなだらかな土地は舗装されてサッカー場や野球場、運動場やテニスコートなどになっている。昔はよく氾濫していたらしいが、ダムの建設や人工分流によって川幅が減り水量が減り、今は川辺も併せて子供たちの遊び場となっている。

 そんな小高い丘に立ってぐるりと周りを見渡したが、サッカーで遊んでいる子や川遊びをしている家族連れしか見当たらない。

「まぁ、そんなもんだよな…」

 堤防から川へと繋がる階段を降りる。ここまで来たんだし、ちょっとでも浸かっていこう。サッカー場の横を通り、岸辺の林まで来た。懐かしい光景だ。高校は全寮制のところへ行ってしまったので、何年もここには来ていない。もっと言えば、中学に上がってからは全然だった。

 昔はよく笹舟を流して遊んでいた。近くの林で笹の枝を折って二人でよく流していた。僕は手先が器用だったのでいつも彼女よりも速く、長く進む舟を造ることができて、それが面白くない彼女は膨れ面をしていた。枝の笹がなくなれば水切りをして遊んだ。僕は運動が苦手だったからか水切りはめっぽう苦手で、パワーバランスが逆転する。そんな風に日が暮れるまで遊んで、二人で一緒にアイスを買って帰った。そんな日々だった。

 思い出に浸りながら林を抜けると、周りには似つかわしくない派手な色が遠くの視界に映った。

 鮮やかな橙色。赤でも黄色でもなく、その中間。一度目に焼き付いたら離れないであろうオレンジ。腰まである長い髪は夏の日差しで一層煌めいて見える。風がないのが惜しい。もし風で靡いたなら、波打つ輝きが見られたのに…。

 これを間違える筈がないと思った。声をかけようと速足で川岸へと近づく。砂利を踏み抜く足音に気が付いたのか、彼女が振り向きかけた。

 その時、急に強い風が吹いて、額に何かがぶつかった。

「いった!」

 実際はあまり痛みを感じなかったのだが、突然の飛来物に驚いて声が出てしまった。足元に転がっているそれを見ると、小さなどんぐりだった。いや違う。それよりも、

「ナツハ!」

 だけど、そこには誰もおらず。

 キツネにつままれたような気持ちのまま、どんぐりを握りしめる少年がいるばかりだった。


「何だったんだろうな」

 あれから何度も川辺を行ったり来たりして、薄ら川で顔を洗ったりもしたけれど、結局彼女を見つけることはできなかった。幻覚?ストレスか何かだろうか。それとも暑さで頭がおかしくなっているのか。あの二人も同じ光景を見たというのなら、幽霊か何かなのだろうか。それにしてもどうして今なんだ。

 彼女が亡くなってから、既に五年が経っていると言うのに。

 何をやっているんだろう、と思う。非常にそう思う。少しズボンの裾が濡れたし、不必要に疲れた気がする。写真も撮っていないしスイカも買っていない。何もできずじまいで帰路についている。

 そういえば川の方へも行っていないから、当然ここらの道も久しぶりで、懐かしさを感じる。ほとんど何も変わっていない。自動販売機があったり、看板が少し違っていたりとその程度だ。

「この空き地、まだあったのか」

 ふと足を止めた住宅街の隙間に『売地』と青地に白で書かれた看板が鎮座してある空間に出くわす。隅には雑草が背高く茂っているが、子供たちが遊び場として走り回っているので中央は裸の地面がむき出しになっている。昼間は日差しが強いからか今は誰もおらず、例によって蝉の声だけが響いていた。日が沈みだすまでは誰も来ないだろう。

 看板の隣に生えている大きなどんぐりの木の前まで行く。大体はこの木の前でだるまさんが転んだをするか、周辺の住宅街を巻き込んだ鬼ごっこや缶蹴りで遊んでいた。

 木の脇には相変わらず名前のわからない薄紅色の花が咲いていて、その傍に側面が何か所か凹んだアルミ缶が落ちていた。いや、置いてあるのか。どうやら遊び方もその遊び道具の隠し場所も変わっていないらしい。元気だなぁ、最近の子はゲームばかりしていると思っていたけれど。

 木を背にもたれかかって、空き地の全体を見回す。田舎にしては悪くない土地なんだけどな、十年以上も売れないのは何か理由があるのだろうか。

「案外お前が邪魔なんじゃないのか」

 後ろのどんぐりにそう話しかけてみるが、帰ってくる声はある筈がない。家の裏に生えているアレも、いつかは背もたれにしても動じないほどに立派な幹を蓄えるのだろうか。

 思えばこいつは既に親で、僕の家にあるあの木が撒いた種が芽吹けば孫ができる。世代の移ろい。絵画の題材になりそうだなと考え、自嘲めいた笑みを溢しかけてやめる。

「この綺麗な形のどんぐり、持って帰って植えようよ!」

 そう切り出したのは誰だったか。川にいた君の幻影。皆が見る君の霊。夏の暑さに頭がイカれてしまったか。灼熱の日差しは変わらず照って、汗を流せと責め立てる。馬鹿だなぁ。毎日こんなに明るいくせに、夏には後悔がよく似合う。


 どれくらいそうしていたのだろうか。キィ、と音を立てて止まる自転車の音で現実に引き戻された。汗だくの金髪がこっちを見つめている。日の光をこれでもかというほどに反射していて、まるで太陽がもう一つ増えたみたいだ。

 …勘弁してもらいたい。

「こんなところにいたのか」

「いや、誰…」

 そう言いかけてからハッとする。見覚えがある気がする。髪を黒に戻して、眉をはやして…。中学の頃毎日先生に怒られていたヤンキーか…?

「今日はやけに中学の奴らに話しかけられるなぁ」

 おまけに相手のことはよく知らない。

「そりゃそうだろ。聞いただろ?町の奴らみんながあちこちで見たって噂してるぜ、だからお前の事探してたんだ」

「噂って…」

 おいおい、イカれているのは町全体だってのか。確かに日光は世界を満遍なく照らしているけれど、それにしたってやり過ぎだろう。ゴシップや怪談の見過ぎだ。盆の幽霊にしてはたちが悪い。

「お前も見たか?」

「…」

 答えなかった。答えられなかったのではなく、薄ら川で見た影をナツハだと認めたくなかったから答えなかった。化けて出てくるなんて考えたくなかった。

「おばさんに「ふらっと出てった」って聞いたからさ、その辺にいるんじゃないかと思って」

 家まで行ったのかよ…。どんな行動力してんだこの第二太陽は。僕のことなんてどうでもいいだろうに。どうでもよくないのは、きっとナツハのことだからか。

「何か心当たりとかないのか」

「ナツハをみんなが見ていることに?あるわけないよ。僕が珍しく長く帰って来てるもんだから、思い出してるだけじゃないか」

 口を尖らせてそう答える。みんなナツハが大好きだったから。そうやって偲ぶもの無理はない。だからそれに意味も理由もない。

「なんで、長く帰って来てるんだ?」

 やけに鋭いその質問に、僕は目を逸らしてしまった。

 

 家に帰って、パレットに被せておいたラップを剥がす。筆洗に水を汲んで筆を湿らせた。真夏の縁側が描かれた絵を見る。完成仕掛けの風景画。テーマは『夏』で、締め切りは一週間後。

 帰省中に仕上げて向こうに戻ってから提出するつもりだ。なんてことはない。順調に進行している。あとは大雑把につけた陰影をはっきりとさせていくだけ。風鈴や小石の影は面倒くさいが、微調整が効くのが水彩画の良いところでもある。精一杯に薄めたほとんど水のような色を少しずつ乗せていく。

 わかっている。この絵には足りないものがある。僕の夏には、どうしても足りないものがある。どうしても、どうしても。

 薄ら川も住宅街空き地も行きつけの駄菓子屋も、小学校の裏庭も遊具のある公園も。少し遠い噴水のある公園の方も、秋には落ち葉の散る遊歩道も、ザリガニを釣って遊んだ池も、必死に登った後にハンドルから手を放して駆け降りた長い直線の坂道も。どこへ行ってももう君には会えなかった。ずっと、言葉を交わせていない。

 なんでもなく、当たり前のように君は亡くなった。病のことは、ナツハの家族と僕の家族、そして担任の先生しか知らなかったらしい。小五の秋に、君は複雑な機械と曲がりくねった管に繋がれたまま、真っ白な地獄の中で冷たくなった。

 ナツハと仲が良かった女の子が、ご両親が、僕の親や妹が、同じ部活だった後輩の子が、ナツハに恋をしていた何人かが、学校で顔を合わせるだけだったようなクラスメイトが、みんな泣いていた。死を受け止めるには若過ぎるくらいであったろうに、みんながみんな涙を流して悲しんでいた。

 遺影の中の笑顔がもう動くことがないことを知って、誰も彼もが泣いていた。声を上げている人もいた。嫌だと叫んで、さよならと手を振って、別れを告げていた。好きだったのだ。その感情の度合いや色は違えど、彼女と触れ合った心は全てその愛に泣いていた。

 その中で僕だけがじっと前を向いていた。


 僕は。

 どうして泣かなかった?


 最後まで僕は涙を流さなかった。四十九日を終えて一周忌が過ぎて、そのまま小学校を卒業して、墓参りは欠かさずに行って、三周忌を迎えて、中学を出て推薦をもらって逃げるように地元を出た。ずっと絵を描き続けていたから、全寮制の美術学校へ通った。成績はすこぶる良くて、毎回学校の枠を使ってコンクールに絵を出させてもらっている。

「感情の動く絵を描けないか」

 何度目かの佳作の後、そう言われた。感情?涙を流せない僕に何を動かせと。自分の感情すら満足に動かせないのに、何を。

 あの日泣けなかったこの筆に、何を描けと。変えなければならないと思って帰って来て、何も変わらない僕が相変わらずここにいる。煮え切らない振り切れないままの情けない僕が、ここにまだ。

 蝉の声は静かになって、ちりんちりんと甲高い音だけが周期的に鳴るのみだった。窓から一際強い風が吹いて、揺れた風鈴が横向きになる。椅子に掛けてあったタオルがバサバサと揺れて、筆洗の水が波打って、机の上に置いたままだった木の実がころりと足元に転がり落ちた。それを拾い上げて、今まで黙々と作業していた絵を見つめる。

 影をほとんど挿し終えて、もう少し気になるところを水とティッシュで滲ませて完成だ。ぐっと背中を伸ばして、窓を閉めようと立ち上がる。風に吹かれてティッシュが揺れたりしては集中できない。

 そして、窓の桟に腰かけている少女に気が付いた。

 何も言わず、二人で見つめ合う。オレンジの溌溂とした色が夕日に負けずに輝きかける。風にたなびいてどんな錦よりも美しい。そんな少女が、そこに座っていた。顔の造形もほとんど変わっていない。ふっくらとした頬、すっきりとした眉に光の灯った瞳。赤い唇はキュッと結ばれている。そんな懐かしい顔と見つめ合っていた。

 なんで、

「なんで今なんだ?」

「どうして描くの、やめちゃうの?」

 僕の問いには答えず、そちらから問い掛けてくる。

「次も入賞じゃなかったら、恐らくもう学校の枠は使えない。一般の公募からになってしまう。そしたら僕の絵なんて歯牙にもかからないよ」

 ちらりとキャンバスに彼女は目を向けた。

「どうして?」

「…」

 僕は、答えない。問いの意味が分かっても、彼女が聞きたいことがわかっていても、自分からは答えない。決して認めない。続きの言葉を待っていた。その柔らかい唇が続きを紡ぐのを見守っていた。

 僕の夏に何が必要なのか。そこに、誰が居ないのか。

「どうして私がいないの?」

 僕の夏には、どうしても君が足りない。僕の感情には、どうしようもなく君が足りなかった。悲しみも怒りも喜びも情熱も何もかも全部、他人事のように感じていた。あの日君が逝って、その冷たい掌に触れて、どうしたらいいかわからなくなった。泣きたくなかった。冷たい人間だと言われても絶対に。

 周りに合わせて涙を流すなんて、そんなの僕が許さなかった。

「夏を描けなんて、酷すぎるよ」

「でも、あれから一度も私を描いてくれてないでしょ。夏の絵も、一度も」

 描ける筈がない。君がいる夏なんて、君がいた夏なんて。置き去りにした僕の感情が。あの日の夕日の輝きが。

「描いたらそこで終わってしまう気がするんだ」

 ナツハがいなくなってしまう気がするんだ。零れた感情はどうしようもないものだった。何にもならないただの未練だった。心に残った君の残滓を終わらせたくない。過去に残した思いなら、僕の方が幽霊なんかよりずっと強くて大きい。

「あのね」

 そう切り出して、一拍の間。

「終わらせてもいいよ。次を始めてもいいんだよ。私がいない絵なら、それから描いたらいいんだよ。涙が出ないなら、代わりに絵の具で。君の綺麗な赤色で」

 綺麗だと褒められた絵があった。夏休みの宿題で描いたなんでもない一枚。薄ら川に浮かぶ夕日と笹舟を描いた。

 変にませた僕は『恋』なんて題名をつけた。恥ずかしげもなく、馬鹿みたいに君に自慢した。病室で恥ずかしがる頬を見て、髪と同じ色に染まるんだ、なんて思っていた。

「忘れてなんて言わないよ」

 逆光で、その表情はよく見えない、笑っているのだろうか。泣いているのだろうか。もしかして、怒っているのだろうか。君を忘れることは決してないと断言できるのに。

 キラキラと光の粒が散らばった。風で広がる君の髪だと気が付くのに長く時間がかかった。そうだと分かった時には、ただ揺られて、蝉の代わりに鳴く小さな鈴があるばかりだった。


 筆を手に取って、パレットに赤と黄色の絵の具を絞り出した。絵の具を練りながら考える。服は何にしよう。さっきの君の姿はもう思い出せないけれど、ナツハはワンピースが好きだった。夏らしい白にしようか。水彩画は、修正が効くのがいいところだ。

 縁側で風鈴を聞く君を。奥の部屋で暑さにだれる君を。庭で花を眺める君を。スイカを食べる君を。ただ笑う君を。

 君を。キャンバスいっぱいに。

 絵の具に足したのは水なのか涙なのかわからなくなった。滲んだのは影なのか視界なのか不明だった。不明瞭なまま嗚咽を溢して描き上げた。何度も何度も目元を拭った。君を想いながらオレンジ色を挿し続けた。

 これが僕の夏だった。不思議で楽しい、鮮やかな恋をした、忘れられない満ち足りた僕の夢だった。ああ、忘れていた。

 ──最後に一粒、どんぐりを描き足して。





「この綺麗な形のどんぐり、持って帰って植えようよ!」

「いいけど、実がなるまで何年もかかると思うよ」

「裏庭とかに植えたらさ!すぐに成長すると思うの!野菜とかも植わってるでしょ?」

「うわぁ。そしたらいつでも遊べるのか」

「大きくなったら、いっぱいコマが作れるね!」


「あのね、ちょっとだけお願いがあるんだけど」

 まだ若木のどんぐりの前で、ワンピースの少女がじょうろを片手にしゃがんでいる。内緒話をするように小さな手を口元に添えて。

「あいつが夢を諦めそうになってたらね、背中を押して欲しいの」

 ───私はきっと見守れないから。

「よろしくね?」

 聞いたかどうかはわからないが、少しだけ風に枝が揺れていた。

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