イデアの肖像 The Portrait of Idea : 日曜日 / 礼拝
目を覚ますと、イディは胎児のような格好でこちらを見ていた。アレスがイディより遅く眠ることはなかったし、イディがアレスより遅く起きることはなかったので、アレスにしてみればイディが寝ているところは十年以上の付き合いの中で数回しか目撃したことがなかった。イディは右手でアレスの左手を包んだまま、ただただこちらを見て呼吸していた。毎朝の風景だった。
「おはよう、アレス」
アレスが眠い目をこすろうと手を離すと、イディは嬉しそうに言った。アレスはうん、とかすん、とかよくわからない声を出して、仰向けに寝転がる。寝転がったアレスの上に影が落ちて、イディが覆いかぶさったのが分かった。
「おはよう、アレス」
イディは食い下がるように言って、アレスは観念しておはよう、と返した。イディはようやく満足したようにそこを退くと、ベッドから降りてコーヒーを入れるために立ち上がった。アレスは寝転がったままだった。
日曜日の朝だ。
アレスはぼうっとした頭のまま枕を叩いて膨らませると、その上に後頭部を沈めてイディの動向を追った。料理はろくにできない奴だったが、コーヒーだけはなんとか教えることができた。イディは本来ならば軍服の下に着込むはずのシャツだけを着ていた。堅苦しいのは動きにくいから嫌だ、とスリーサイズくらい上のシャツを着ている。そこから伸びる真っ白な足は細かったが、アレスよりよっぽど持久力がありそうだった。
「イディ、新聞」
アレスが唸ると、イディはコーヒーを淹れる手を止めて戸口に向かい、新聞を拾って帰ってきた。ろくに礼も言わずに新聞を受け取り、広げる。大見出しは北部戦線での帝国軍の勝利について。そのほかも大体が戦争の話で、アレスなどがいちいち読まずとも知っていることばかりだった。ただ、そんな中で誰かが小さなスペースに小説を連載していて、それを読むのがアレスの細やかな楽しみだった。イディがコーヒーを入れ終わり、こぼすまいと真剣な顔で戻ってくる。アレスのコーヒーはベッドサイドテーブルに置かれ、イディは自分のマグを持って窓際のテーブルへと移動した。
「今日、礼拝のあと、なにしようか」
イディは嬉々としてアレスに声をかけたが、アレスはやはりむぅ、とかふぅんとかいう音を出しただけで、ろくすっぽイディを気に留めていない。イディはマグをテーブルに置いて、アレスと新聞の間から顔を突っ込むと、聞いてる? と嫌味のない声で言った。イディの精神年齢がおそらく十歳くらいで止まっているのではないか、と思っているのはアレスだけではないはずで、むしろアレスはそれより低いのではないかと見積もっていた。
「聞いてるけど、どけよ」
アレスは新聞を持ったまま、イディを腕で押しのける。イディはあっさりと引き下がると、ベッドの端に置物のように体育座りになった。アレスは小説の残りを読もうとしたが、気が散ってならなかったので、がばりと起き上がってイディの頭を新聞で思い切り叩いた。
「なんだって君は朝からそんなにうるさいんだい」
「だって、久しぶりじゃないか、お休みなんて」
「君、休暇という言葉の意味を知らないんじゃないのか。僕はその名の通り休みたいんだよ。それを君は次から次へとぶち壊しにしてしまって」
「ごめんよ、アレス。そういうつもりじゃなかったんだ」
アレスがまくし立てると、イディはすっかり意気消沈して俯いた。その姿を見てアレスはさらに苛立って、それから急に虚しくなって、仕方なく新聞を折りたたんでベッドの上に投げると、イディのほうにもそもそと移動してその上体を抱きしめた。
「まったく君ときたら仕方のない奴だな」
つぶやくように言う。イディはといえば、怒られたという事実は一瞬で忘れたようで、くすぐったそうにアレスの腕の中で笑った。アレスはその反応に即座に不機嫌になって、イディを突き放す。今度こそイディが悲しそうな顔になって、アレスはイディの顔を見るや否やその頰をひっぱたくと、そのままイディのシャツの胸ぐらを掴んだ。
「黙ってるかちゃんとするか、どっちかにしろよ」
そうがなると、イディは一瞬きょとんとして、それから笑ってそっとアレスの手を胸から離すと、そそくさとテーブルに戻り、冷めそうになっていたコーヒーのマグを大事そうに両手で抱えた。その姿を見つめながら、またやってしまった、と思う。
「イディ」
黙っておけと言いながらアレスが呼びつけると、窓枠に顎を置いて外を観察しようとしていたイディが無言で振り返った。
「…悪かったよ」
口を尖らせてそう言うと、イディはくしゃりと破顔する。笑うと外見までが幼くなって、孤児院にいた頃のイディが思い起こされた。
「…ミサの後だったね。日曜日だけど、フランクのところで直していた靴を取りに行かなきゃいけない。家の方の戸を叩けば出てきてくれると言っていたから。そのあとは、そうだね、散歩でもするかい。久しぶりにオストのほうの森にでも行くかい?」
「良いプランだね」
イディは聞き終わるとすっかり気を良くして、コーヒーの残りを流し込んだ。
「服を用意してくれ。君も何かまともなものを着ろよ。日曜日ぐらい軍服は見たくないんだよ」
アレスが続けると、イディはばたばたとクローゼットに向かっていった。アレスはため息をついて再び仰向けになり、枕に頭を沈める。新聞に連載されている小説は悲劇もので、ちょうどクライマックスだったので、主人公の想い人が、主人公が留守にしている間に別の男とどうのこうの、という主旨だった。その点、僕らは安心だ、と思う。
「イディ」
天井の木目を見つめたまま、アレスは通る声でイディを読んだ。
「君は僕のことを置いて行ったりしないだろうね」
思わずそう聞くと、イディの不思議そうな顔が視界に入り、アレスはようやくそちらを見た。目が真っ黒で不健康そうな肌色に、いくつも古傷がついていたが(跡が残るからやめろと何度言っても、かさぶたを剥がす癖が直らないからだ、とアレスは思った)、悪い顔ではなかった。イディは「なんの話だい?」と訳がわかっていない様子で聞く。なんでもないさ、とアレスは答えて勢いで上半身を起こすと、イディが持っていたシャツとタイを受け取った。
「…ぼくはきみのものだよ。きみのペンとか、靴とか、そういう持ち物が、きみを捨てて逃げることなんかあるのかい?」
イディは目をきょろきょろさせながら言う。アレスは思わず声を出して笑って、イディを引き寄せ、もう一度だけ抱きしめた。
「いや、いいんだ」
なおも合点のいかないイディを残して、アレスは着替え始める。着替えが終わったら、シャツのボタンを掛け違えていたイディの身だしなみを直して、二人で外へ出る。まだ二人の間に収容所のような柵がそびえていた頃を思い出す、暑い夏の日だった。