記憶を失った青年
どこかから話し声がする――低い、声。聞き馴染みのない声。
それに気づいた瞬間、ゆるやかに思考が浮上していくのが感じる。
今、何時だろう。何月何日だっけ。ああ、でも、そんなことより眠いな……心地よく微睡みながらも、確かめようと、薄く目を開け――。
一瞬で、眠気が吹っ飛んだ。
むしろ、驚きで声をあげながったことを褒めてほしいぐらいだった。僕は一瞬で狸根入りを決め込み――もう一度、覚醒した思考で、細く、ほそく目を開ける。
決して、それにバレないように。それを、じっくりと再確認して。
それが夢でも何でもないことが分かって――全力で、泣きたくなった。
なんで――僕の周りで、筋骨隆々の鬼がじっと見つめているのかなあ……。
ちらり、ともう一度バレないように伺う。
寝ている僕を取り囲む男は、二人。何故か全員が隆起する筋肉を見せつけるように上半身を晒している。色黒で、顔の彫りが深い。
それだけ見れば、むさくるしい黒人マッチョが取り囲んでいるようにも見える。それだけでも、十分恐怖だが。
だが、頭の縮れた剛毛の合間に覗かせる、二本の円錐上のそれを見る限り――間違いなく、それは角で。コスプレとかでなければ、彼らはまさしく鬼そのものなのだ。獰猛な顔つきで、牙を剥くように、彼らは僕を見下ろしている――。
――そう、鬼、だ。
軽く目を瞑り直し、内心で心を落ち着ける。それでも、ざわめく胸の鼓動が収まらない。
じっとりと汗ばんでくる背中。落ち着け、と繰り返し心の中で言い聞かせる。そうでないと、胸の鼓動が、身体の震えになってしまいそうだから。
それでも、怖いものは怖い――食われる、のかな。
それを考えただけで、胃の底が凍てつきそうになる――瞬間、不意に低い声が響く。
「どうだ? ハイム。血は、馴染むと思うか」
「悪くない血だ。レクト――確かめてみても、悪くはなかろう」
血? 血を吸う? 吸血鬼?
具体的な単語が、想像力を掻き立て、背筋が凍る。今にも泣き叫びたい気持ちを、必死に堪える。ただ、ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように、息を潜め――。
「どうかな? 彼は、目を覚ました?」
不意に、よく通る明るい声が響き渡った。
まるで、場の空気を和らげるような、そんな透き通る声に僕は思わず微かに目を開く。
そこに立っていたのは、小さな少女だった。
艶やかな黒髪を二本に結った少女。丸みを帯びた顔は、幼げで可愛らしいがすっと吊り上った目元からはどこか大人びた雰囲気を感じる。
着物の上にエプロンを装着した彼女は、ちらりと二人の鬼を見やり、小さくため息をつく。
「レクトさん、ハイムさん、暇だからってずっと彼が起きるのを待ち受けなくてもいいと思うのだけど。しっかり手当てしましたし、薬も塗った。直に目が覚める。うん、きっと」
「とはいえ――なあ? 投薬が適切か分からないし」
「うむ、然り。拒絶反応など起こったら、適切に手当てせねばなるまい」
「うん、二人が心配性なのは分かったけど、絵面的に――ん?」
不意に少女の視線が動き――僕と、目が合う。
あ、しまった。いつの間にか目を開いてしまっていた。思わず固まってしまう僕に、ぱたぱたと足音を立てながら彼女は僕に歩み寄ってくる。
「起きたんですね! よかったぁ、ほら二人とも退いて」
鬼二人を押しのけ、近くにその少女は近寄ると、にっこりと笑みを浮かべる。八重歯がちらりとのぞいた愛らしい笑顔に、思わずどきっとしてしまう。
「身体は起こせそうですか? めまいとかは? あ、ゆっくり起きて下さいね」
「あ、はい……」
とりあえず為すがままに、身体を起こす。僕はそのまま、ちらりと二人の鬼の方を見やると、それを察したのか少女は振り返って頬を膨らませた。
「もう、二人は一旦出て行って! 威圧感半端ないでしょ!」
「お、おう……すまねえ」
「で、では失礼仕る」
でかい図体をした二人が縮こまるように部屋から出て行く。なんだか、拍子抜けした気分になりながら、僕は寝台に腰かけた状態で少女を見つめ返す。
彼女も真っ直ぐに僕を見て微笑む。その目は、紅いことに初めて気づく。そして、その額に小さな角が生えていることも。
だけど、どうしてか怖くない。僕は、自然と問いかけを投げかけていた。
「キミたちは――鬼、なのか?」
その問いに、彼女の瞳がわずかに伏せられる。一瞬だけ瞳が揺れ――だが、すぐに顔を上げてそっと微笑む。
「うん、そう、だね……私たちは、鬼、と呼ばれています。それも事実かな」
その言葉は、どこか寂しそうに響いた。だが、すぐに彼女は爛漫な笑みを浮かべて言う。
「私はクレハと言います。よろしくね。貴方の、お名前を聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ、よろしく。えっと、僕の名前は――」
わずかに、口ごもる。靄がかかったかのように、思い出せない。その様子に、微かに少女が眉を寄せ、心配そうに見つめてくる。
しばらく悩んだ末、不意に頭に浮かんだ名前をつぶやく。
「ユウマ……うん、そうだ。僕の名前は、ユウマだ」
名乗ると、しっくり来る。繰り返しそうつぶやくと、少女、クレハはユウマ、と舌先で転がすようにつぶやいて笑う。
「うん、いい名前だね。ユウマ。それで、貴方はどこからやってきたの?」
「どこ、から……?」
漠然と、問い返し――気づいた。気づいて、しまった。
「どこから……いや、そもそも、僕は一体……」
小さくつぶやきながら、昨日の出来事を振り返る。昔の出来事を、考える。
だけど――思い出せない。何一つ……いや、何かあったことは分かる。でも、靄がかかったように思い出せなく、ひどくもどかしい。
僕は思わず額を押さえ、そこにある何かを求めようとし――その手が、そっと包み込まれた。小さな声が、耳に響く。
「ユウマ、落ち着いて。大丈夫だから」
抑揚を押さえた、語りかけるような言葉。僕はそれに顔を上げると、クレハはじっと僕の目を見つめていた。真摯な顔で、真っ直ぐに瞳を見つめて言う。
「大丈夫――無理に思い出さなくても良い。多分……貴方の記憶はない。あるいは、はっきりしていないのかな?」
「あ、ああ……そう、なる」
「うん、貴方を拾ったときに、何となく最悪の場合として想定していた。ううん、最悪の場合は、貴方が死んじゃうことだったけど」
彼女はどこまでも真面目な口調で言う。その瞳は、包み込むような優しさが溢れていて。
どうしてだろう、初対面なのに……ひどく優しく、感じてしまう。
それに縋りつきたくなるような、切ない衝動に襲われ――気づく。
「え、僕は、拾われた?」
「うん。川から流れてきたのを、あの二人が拾ってきた、感じかな」
「え、川から?」
「はい、川から。桃型のボートに入っていた貴方を。本当、驚いたんだよ」
苦笑いをするクレハ。正直、笑い事ではないんだけど……。
僕が言葉に困っていると、彼女は笑みを引っ込め、手を握ってくれながら真面目に言う。
「でも――仮に、貴方が予言通りの方なら、私たちは貴方を放っておけないのかな」
「予言、通り? ごめん、どういうこと……?」
「予言――この、鬼の隠れ里に伝わる、予言なの」
彼女は一息吸い込むと、極めて真面目な表情で告げる。
「川から流れてきた青年が、この鬼の里の宝物を、取り返す、と――」