第五話
数十分前に来た道をゆっくりとした歩調で歩く。
今度は前を歩く人影はなかった。
ひっそりと静まり返った廊下。
歩く蓮の頭にあるのは、自室に残してきたテレスのことだ。
いきなり現れて「仲間をもとの世界に戻して欲しい」と言い放った。
消したくても記憶から決して消えなかったあの物語の主人公。
大嫌いで憎い曾祖父の代表作の主人公。
「戻って部屋にいなかったら万々歳だな」
生まれてきた感情をかき消すように呟く。
息を吸って数秒。
居なくなっていたほうが良い。
それが自分だ。自分の求めるものだ。
自室の真ん前。目前に迫る扉。
もう一呼吸。吸って吐き出す。
握ったドアノブが体温を奪う。
自分の部屋に帰るだけ。それだけだ。何を緊張する必要がある。
力を込めてドアノブを下へ、扉を押し開けた。
「ようやっと帰ってきたか」
「まだいたのかよ」
扉を開けた瞬間、蓮の空色の瞳に映ったのは漆黒。艶やかな長い髪。
扉が開いたことに気付き振り返ったことによりふわりと豊やかに揺れる黒髪。
悪態をつきながらも視界で確認してどこか安堵している自分がいた。
「んで、何で食事にはついてこねぇくせにまだここにいるわけ? ついてこねぇから帰ったかどっかいったかのどっちかと思ったんだけど」
ぼすんっ。ベッドに身を沈める。
背中に硬い何かが当たった。
ごそごそと自身の背中と布団の間に手を入れて引っ張り出す。
無言のまま答えを返さないテレスに視線を移す。
彼女は不機嫌そうな顔でまっすぐに手を腕を伸ばしていた。
人差し指。ぴんと伸ばして、その先に居るのは蓮。
いや、ちがう。
彼女が指差しているのは蓮の背中にあった『何か』――
「その本がおいてある空間にしか我はおれぬ」
真っ赤な真っ赤なハードカバーの分厚い本だ。
「なるほど」
腑に落ちる。
本が鞄に入っていたのはきっと、多分、恐らく……いや九十九%テレスの仕業だ。
物語の主人公は物語を離れてなお物語に縛られるといったところか。
「よし、それじゃあ俺の家の誰かのところに連れてってやるよ。誰がいい? 父さんか? 爺さんか?」
チクリ。
もやもや。
「何故じゃ?」
「俺がお前に付き合うのは嫌だからだよ」
「じゃからといって何故そのような結論に至る」
ちくり。
もやもや。
いらいら。
感じないふり。
「いいか? 順を追って説明してやるからよく聞けよ」
足で一回二回。反動をつけて上半身をはね起きる。
大きく息を吸って吐き出す。
テレスにではなく、手に持ったままの本に視線を落とした。
「お前はその友人とやらを自分たちの世界に連れ戻したい」
「うむ。そうじゃな」
「けれど俺はそんなめんどくさいことには関わりたくない」
「それが理解できん」
「いいから聞け」
コホンッ。と咳払いを一つ。
不服そうに押し黙るテレスに蓮は左手で拳を作って見せた。
「そこでまぁ、俺は考えたわけだ」
拳を少し緩めて人差し指を立てる。
「一つ。この件は諦めてお前が物語の世界に帰る」
「無理じゃな」
即答。
そりゃそうだ。
だいたいこれで簡単に帰るというくらいならそもそも物語の中から出てくるなんて大それた事をしているはずがない。
「二つ」
人差し指をそのままに中指を立てる。
「先にも言ったけど俺の家族の誰か……父さんや爺さんがこの場合適当だ。の所に連れて行く」
「じゃから、どうしてそうなるのか問うておるのじゃ!」
一本。もう一度指を折り曲げて拳の中に。残った人差し指でテレスの唇に触れた。
――急かすな。
言葉ではなく動作で伝える。
また不服そうに顔をしかめて押し黙ったテレスに蓮は再び口を開いた。
「お前が俺の前に現れた理由」
唇から話した人差し指をテレスに再び向ける。
「物語の世界から抜け出した仲間をもとの世界に戻したい」
誰が抜け出したのか。
誰が物語から欠けたのか。
そんなことは知らない。
彼女にとって、物語にとって大問題なのは物語から登場人物が欠けてしまったことだ。
嫌いになったとは言え、出版業界では名の通った名家の子息だ。
物語の登場人物がその物語にとってどれだけ大切なのかは理解している。
「その仲間を戻さなければ、お前たちの世界が狂い、俺たちの世界も少なくとも何らかの被害を被る可能性がある」
二本。拳の中に仕舞った中指をもう一度ピンと立てる。
『被害を被る』
それが実際どのような被害をもたらすのか。
はっきりしたことは蓮にはわからない。
けれど一つだけはっきり言えることがある。
物語を嫌った蓮。物語から離れた蓮。
そんな彼からしたら、物語の世界が狂おうと正常であろうと蓮の世界ではなんの変化も起きないということだ。
もちろん、周りは多少なりとも変化するかもしれないが。
自分の生きる世界が普遍であれば、周囲の世界に特に執着のない蓮には、これもまた関係のないことだ。
「そして、その目的を成す為には『あの人』の血を継いだ俺の力が必要。これで間違いないな?」
三本。先ほどは立てることのなかった薬指を立てる。
「そうじゃな。お主の言う通りじゃ」
肯定。
頷いたテレスの黒髪がさらりと頬を撫でる。
ようやく本から視線を外した蓮の瞳に映ったのは不服そうに歪んだテレスの顔。
「――それじゃ、俺の言いたいことわかるよな?」
「主は……」
キッ、っと彼女のワインレッドの瞳に怒りの色が滲む。
濃いワインレッドと透き通った空色が対峙する。
互いに互いの色を映して揺れた。まるで、パレットに出した絵の具のようだ。
「そう、あの人の血を継いでいるのは何も俺だけじゃない。爺さんも父さんもあの人の血を継いでいる」
考えれば当たり前のことだ。
祖父は曾祖父の子どもだし、父はそんな祖父の子ども。
蓮がその子どもであるから、血の濃さからすれば、その血が濃い順に、祖父、父、蓮と言った順番になる。
例えば、血を継ぐ者の力が必要というのなら、それは血が濃いほうが良いのではないか。
継承者問題にしろ、能力にしろ、なんにしろ、大抵の場合は血が濃い……言い換えれば初代に近いほど有利になる。
祖父はもちろん自分の父親であるし、父にとっても曾祖父は祖父である。
父、祖父、曾祖父。蓮と、祖父と父を絶対的に生まれる差。
それは、実際その人物にあっているかいないかだ。
時折曾祖父や曾祖母が生きているという人物に会うこともあるが、蓮の場合は一般的な例と同じだ。曾祖父は蓮が生まれるずいぶん前に亡くなっている。
父と祖父は実際に曾祖父に会い、リアルな曾祖父を知っている。
彼が物語を綴るところもきっと知っているのだろう。
彼の空気も、物語の生まれ方も、全て全て彼らが尊敬する曾祖父からリアルタイムで教わったのだろう。
けれど、蓮はどうだ。二人のようにリアルな曾祖父なんてものは知らない。
知りえるわけがないのだ。
父や祖父のようにリアルタイムで物語について教わったわけでもない。
残されたのは曾祖父が書いたという本と、父や祖父から聞かされる昔話。
そして、四分の一の血。
父や祖父にとって曾祖父は実像なのかもしれないが、蓮にとっては『曾祖父』という存在はどうも虚像のように思えて仕方がなかった。
「じゃが――っっ」
「それにっ」
叫ぶように反論の言葉を紡ごうとするテレスの音を怒鳴り声に似た音が遮る。
初めて声を荒げた蓮にビクリとテレスの肩が跳ねた。
心を落ち着かせるように息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
「それに……俺よりあの人達の方が本については詳しい。俺はあの日以降一切本なんて読んでないからな。……だから、あの二人の方が適任だ」
なにしろ、彼らは作家なのだから。
チクリ。
言って何故か胸が痛んだ。
理に適っている。
祖父も父も物語を愛しているし、何より曾祖父を尊敬している。
テレスが目前に現れればきっと泣いて喜ぶだろう。
謹厳実直な性格のわりに、少年の心を残している人達だ。
もっとも、物語に対してだけの話だが。
「――……」
蓮が自嘲するように歪んだ笑みを見せれば、テレスから返ってきたのは無言だけだった。
ふと、揺れるワインレッド色から視線を外し、テレスの腕へと向ける。
袖に隠れた腕の先。
きゅっと握り締められた小さな掌は、彼女の瞳に負けないほど揺れていた。
「悪い話じゃないだろう? お前は協力的な協力者を得て、俺は面倒事に巻き込まれずに済む。二人の望みが叶うんだ」
「我は――っっ」
ガッ。
つい数秒。いや、コンマ零秒前まで視界で認識していたテレスの姿が消える。
彼女がどこに消えたかを蓮が認識する前にぐらりと、強い衝撃と共に視界が大きく揺れた。
ボスンッ。
それほど強くはない衝撃が背中を襲う。
衝撃に備えるために閉じた瞼。
透かしていた光が何かによって遮られた。
瞼を開き、視界に映ったのは先ほど見失ったテレスの姿だ。
さらり、と耳に掛けていた艶やかな黒髪が蓮の頬に落ちた。
ふわり、と視界に広がる漆黒の髪。
周囲を長い髪で覆われた顔から見えたワインレッドの瞳は泣いている様にも見えた。
「我はっっ我はお主が良いのじゃ! 他の誰でもない! お主でなければならんのじゃ!」
「……――っっ」
反論の言葉を口にしようとしたところで、言葉が出ない。
自分が彼女に胸倉を掴まれていると今更になって気付いた。
どうして彼女がそこまで自分にこだわるのか。
そんなに泣きそうな顔になってまで自分を求めるのか。
蓮には理解できなかった。
他人の心理を知る方法など皆無に等しい。
それ故に人は言葉に、文章にしたがるのだろうか。
「……我には、主でなければ駄目なのじゃ。お主の父でも祖父でも……セスクでもない。主の力が必要なのじゃっっ」
「っっ」
息を飲む。
少し緩められたテレスの手が小刻みに震えていた。
父でも、祖父でも……曾祖父でもない。『陵蓮』の力が必要。
その言葉は蓮にとって平凡な日常と同等に望んでいた言葉だった。
生まれた時から今までずっと、必要とされてきたのは『陵蓮』という存在ではなく、曾祖父の血を継いだ者。
それはきっと父にも祖父にも言えることで、彼ら以上に自分が必要とされることなど一度としてなかった。
陵家にとって、テクニス家にとって最重要視されるのは偉大なる曾祖父の血を継いでいること。物語を愛していること。物語を紡ぐことができることである。
父や祖父はもちろんこの三点全てに当てはまる。
では、蓮はどうか。
赤子が生まれる場所を選べないが故に嫌々当てはまってしまう一点を除き、他の二点はこれっぽっちも当てはまらない。
昔、多少なりとも物語を書き、物語を愛したことはあるがそれはいわゆる刷り込みのようなものだ。
そんな蓮にとってテレスの言葉は砂漠に涌くオアシスの冷たい水のように。枯れ果てた大地に降る雨のように。待ち望んでいた言葉だった。
「もう一度言う」
ゆらり。
蓮の胸倉を掴んでいた手が離され、蓮に覆いかぶさるような体制になっていたテレスが身を起こす。
さらり。
雪のように白い。硝子のように澄んだ手が目前に差し伸ばされる。
「……我は、物語に取り戻したい奴がいる。そやつを物語に取り戻すために力を貸してはくれぬか」
もう、テレスの瞳は揺れてはいない。
まっすぐ。強い光を灯したワインレッド色の瞳。
手を差し伸べながらゆっくりと蓮の上から体を離していく。
ベットサイドに立ったテレスを、蓮は見上げるようにして上半身を起こした。
本当に自分でいいのだろうか。
誰にも必要とされなかった。
誰もかれも自分はすべてを持っているというけれども。
本当は何一つ持ち合わせてなんていなかった。
抱えていたのは虚無。
その虚無から目を逸らし、永遠不変の日常を望んだ。
くだらない。くだらない。毎日をそう貶した。
「根拠は?」
「主が我の『運命』じゃからじゃ!」
なんて安い言葉だ。
漫画や映画、小説で使い古されたありきたりな言い回し。
――それでも、まあいいか。
生まれて初めて自分が、自分だけが必要なのだと言ってくれた。
どれだけ突っ撥ねようと、否定しようと、最適な提案を述べようと揺らがなかった。
そんな彼女を信じてみようか。
「くっ」
俗に言うドヤ顔を見せたテレスに蓮の表情が歪む。悪い意味ではない。
物語の主人公がドヤ顔で発した安っぽい言葉。
それがあまりに彼女に似合っていて、たまらず吹き出してしまった、
「なっ何故笑うのじゃっ」
「いーよ」
くくくっ。と納まらない笑いを言葉の始めと終わりに挟みながらテレスに対する答えを返す。
「お前の願いに付き合ってやる」
安っぽい言葉には安っぽい言葉を。
薄っすらと白い歯を唇の隙間から覗かせ、蓮は目を細めた。
差し出されたテレスの手を取るように腕を伸ばす。
「本当か? 本当じゃな? 男に二言はないな?」
「あぁ。その代わり、図書委員の仕事、手伝ってくれよ?」
「もちろんじゃ! その程度のことで主が我に協力してくれると言うのならお安いものじゃっ」
まるで、小さな子どものようだ。
図書室で最初に顔を合わせた時は、なんと大人びた少女だろうと蓮は思った。
しかし、今になってその認識を改める。
無邪気に笑い、握った蓮の手をガッっと両手で包み込みぶんぶんと腕を振り回す姿は、外見年齢相応の……いや、その歳よりももう二、三歳ほど引いた年頃の無邪気な少女そのものだった。
――こっちのが、らしいな。
「……ぇ」
「どうかしたか?」
心の内で呟いた言葉に疑問が浮かぶ。
蓮の表情からその変化を読みっとったテレスが首をかしげた。
そんな彼女に蓮は「いや、なんでもない」とすぐに平然を装う。彼女の視線から逃げるように持っていた本へと視線を移した。
しかし、自分の心は簡単には誤魔化すことができない。
一度生まれた疑問は靄のように胸のうちに広がっていった。
彼女が主人公であった物語のことを蓮はよく覚えている。
小さな頃に受けた衝撃的な出来事は忘れないというが、蓮にとっての衝撃とはこの本に紡がれた物語だったのだ。
小説を、本を嫌いになったあの日以降何度も忘れようとした。
けれど、幼い記憶はそれを許さず、十年近く経った今なお、やけどの傷のように蓮に記憶を残している。
故に疑問が生まれるのだ。
彼女たちのことはよく知っている。
とりわけいま目の前にいる彼女は物語の主人公だったのだ。
物語は嫌でも彼女を中心に綴られる。
彼女のことを読者は人一倍知ることができるのだ。
けれど、どうだ。
蓮は記憶に残る彼女を探ってみる。
先ほど懐かしいと一瞬感じたような彼女の姿など、あっただろうか。
いや、なかったはずだ。だって彼女はいつも……――