第三話
図書室を後にした二人が徒歩数十分で辿り着いたのは、大方日本ではあまり見られない大豪邸だった。
庭は狭く見ても東京ドーム二個分程であり、青々と茂った芝や草木、花々は端から端まできちんと手入れされている。
そんな庭の中央を切り開くように敷かれた茶色いタイルで出来た道を歩いていく。さらに十数分程歩けば普通の一軒家十数個分程ある、中世ヨーロッパの貴族が住んでいた屋敷を模したような造りの立派な屋敷が聳え立っていた。
辿り着いた先の扉を開ければ玄関と言うよりはホールと言った方が良い其処に、ずらりと黒を基調としたエプロンドレスとタキシードに身を包んだ――いわゆるメイドや執事などと呼ばれる――使用人が扉のサイドに分かれ並んでいる。
無論、頭を垂れて間を進んでいく蓮に向かって「お帰りなさいませ、坊ちゃん」と口を揃えている。
その一人一人に蓮はわざわざ貼り付けたような綺麗な笑みを見せ、ただいま。と言葉を返していく。
メイド達がその微笑みに顔を朱に染めて卒倒しそうになったのは言うまでもない。
この仕事に就いて良かった。坊ちゃんの天使の微笑が。これから先も頑張れるわ。などとうわごとのように呟く使用人―主にメイド―を蓮は慣れたものを見るように横目で見て、蓮は自室へと歩みを進めた。
広い屋敷の中。三階建てのその建物の部屋の数は悠に五十を超えている。
その中の一室。薄いクリーム色に染められた廊下の三階の南端の日当たりの良い部屋が蓮の部屋だ。
「さぁ、説明してもらおうか?」
一般家庭のリビングの三倍ほどある部屋の窓側に置かれたベッドに腰を下ろす。
じっと前を見据える蓮の瞳には、使用人達のそれには映らなかった黒い艶やかな長髪を持った。巫女のような格好をした少女が映っている。
凛とした表情の彼女。テレスは、ゆっくりとした歩調で歩みを進める。蓮の座るベッドから1m程離れた場所に置かれているアンティーク調の細かい細工のほどこされた、いかにも高級そうな一本足のテーブルの横に立ち並んだ。
「そう急かすでない。焦らずとも全て説明する。我には主の力が必要じゃからな」
「協力するとは一言も言ってないけどな」
「主は一言ひとこと五月蝿い奴じゃな。あの頃のかわいい主は何処へ行ってしまったのやら……」
一言ひとこと五月蝿いのはどっちだ。そうは思っても口には出さない。
学校の図書室からここまで一緒に居て分かった。
いま蓮の前で腕を組んでいる彼女は、彼が何より苦手とするタイプの存在だ。強引で、小言が多い。
睨みあうような状態で静寂が続く。
一秒、二秒……どれ程の時が流れただろう。
思っているより長かったかもしれないし、思っているより短かったかもしれない。
沈黙を破ったのは彼女からだった。
「まぁ良い。とにかく話を聞いてもらおうか」
ため息とともに吐き出された言葉に、蓮も同じように肺に溜め込んでいた息を吐き出した。
ごろりとベッドに身を任せ、体を伸ばす。
テレスに背を向け、投げ出された鞄の中を探ればいつの間に入れたのか。入れた記憶が一切ない本が入っていた。
懐かしい。これは恐らくもとは蓮の家にあったものだろう。見覚えがある。昔よく忍び込んだ書架にあったはずだ。
昔はもう少し大きく感じたが、それは蓮が小さかったからそう感じたのだろう。確かに今も手に持てばずっしりと重みは感じるが、両手で抱えるほどではない。
「……先も話したが、『強い想いを注がれた物語が意思を持つ話』は覚えておるな」
「あぁ、覚えてるよ」
振り返りはしない。耳で聞いてただ素っ気なく答える。ギシリと後ろで音が鳴った。
おそらくテレスが椅子に腰かけたのだろう。
他人には見えないとはいえ確かにそこに存在している彼女は、幽霊とは違いしっかりと物質に触れることができるらしい。
おかしな話だ。他人には見えない。見えているのは自分一人だというのに、ここにあるものはしっかりと彼女の存在を認めている。
「物語の中の話。でも実際問題お前はここにいる。俺がいくら否定しようとお前がここに存在して、その事実を証明している」
そう、彼女の存在が全てを肯定している。
物語の中だけだと思っていた話はこうして現実に現れた。
その事実が示すのは一つ。
「奴には力があった。己が思いを込めた作品の人物を現実世界に具現化させる力が」
曾祖父が物語の中に書かれたような力を持っていたことだ。
彼が自分にその力があることを知っていたのか知りはしないが、こうして彼女が現実世界に現れていることから考えるに彼はよほど彼女たちの作品に情を込めていたのだろう。なるほど、代表作といわれるわけだ。
彼女の口から紡ぎだされた言葉は先ほど図書室で聞かされた言葉と何一つ変わらない。そう、ここまでは彼女から既に聞かされた話だ。
ここに帰ってくるまで蓮は蓮なりに頭を整理してきた。理解は大体できている。
問題は次からだ。本題となる、彼女がこの世界に出てきた理由。それを聞きたいがために蓮は彼女をここまで連れてきた。
一種の好奇心なのかもしれない。ただ純粋に気になった。
いくら曾祖父が情を込めた作品だからといってこの本が出版されてからかなりの年月が経っている。
それなのに今更になって彼女がこの現実世界に現れた理由がただ気になった。
これまで一度として姿を表したことなんて――……
『レン』
「え?」
名を呼ばれた気がして跳ね起きる。
振り返って辺りを見渡せば、そこにいるのは先ほどから変わらずテレスだけだ。突然起き上がった所為かそのワインレッド色の瞳には僅かに驚きの色が滲んでいる。
「いきなりどうした」
「い、いやなんでもない。話の続きを聞かせてくれ」
気のせいだろうか。あんなにダイレクトに耳に響いたのに空耳だったのだろうか。
どこか懐かしい声だった。
記憶のどこにもそんな音は残っていないのに、耳に届いた声は体が耳が心が覚えているようだった。
一体いつあの声を聞いたのだろう。
あんなに愛しそうに自分を呼んでくれる人なんて今までいなかった。
向けられるのは優しい猫なで声で、ただ機嫌をとるだけの声。
あんなただ純粋に自分を大切にしてくれているような声なんて、今まで聞いたことがない。
それなのにどうしてあんな声が聞こえてきたのか、答えは出てこない。でないまま「続けろ」と蓮が言ったようにテレスが再び言葉を紡ぎはじめた。
声に関してのことは頭の片隅に置いて蓮は彼女の言葉に耳を澄ませる。
「主は我が何故この世界に現れたのか問うたな。その理由はいたって単純じゃ」
「単純?」
彼女の紡いだ最後の言葉を繰り返し問いかける。それはただの問いかけではなく、どちらかと言えば早く話せと催促していると言った方が近いだろう。
そんな蓮の意図を読み取ったのか。それとも彼女自身早く話してしまいたかったのか。今度は先ほどのように焦らすことはしなかった。
「我と同じように物語から抜け出した奴がおる。そやつを捕まえて、物語に戻してほしいのじゃ」
「は――?」
間抜けな声が漏れる。
ある程度は予想していたし、もちろん『こいつと同じように抜け出した奴がいる』という予想もその中にはあった。
けれど、こうも現実離れしたことがそう何度も起こるのだろうか。という疑念も捨てきれず、蓮は戸惑いの色を混ぜた瞳を揺らした。
そんな蓮の姿をワインレッドの瞳にくっきりと映し、テレスは言葉を続ける。
「奴は我の友人で、物語に欠かせない人物じゃ。奴が物語に戻らなければ、我の世界が狂ってしまう」
普通、物語の中の登場人物たちにとって彼らの生きている物語の世界が全てだ。それ以外の世界はあり得ない。
今、蓮達が生きている世界の人間が創り出した想像の世界でしか生きられない。
ただ、決められた道を、決められた道順で進んでいく。
それが全てで、彼女たちの生の意味だ。
物語を動かすために彼女は生まれた。
物語の中で生きるために彼女達は創られた。
言うなれば、物語を創っているのは彼女達で、彼女達を創り出しているのは物語だ。
物語がなければ彼女達は存在しない。
彼女達が居なければ物語は成立しない。
彼女が言っているのはこう言うことだろう。
確かに物語は登場人物が居なければ進まないし成り立たない。
つまり今の状況は蓮が思っている以上に大変な状態だった。
例えば、彼女達が抜け出してきた物語があまり人気のない本なら、ここまで問題にはならなかっただろう。
しかし、現実は甘くない。彼女達が抜け出してきた物語は、世界的にも有名な作品だ。
百年近く前に書かれた物語だというのに、未だにその人気は衰えることを知らず、読書家の人間だけでなく多くの人に読まれていると言っても過言ではない。そんな本だ。
「物語を正すには、奴の血を引く主の力が必要なのじゃ」
流れるように伸ばされた手。人差し指だけを伸ばしたその手は、まっすぐと蓮を指していた。彼女の瞳は揺らがない。「必ず仲間を救い出す」その思いが目に滲んで見えた。
もし彼女達の世界が狂ってしまえば、この世界も少なからずパニックになるだろう。
これは本の中だけの話じゃない。
彼女たちがこうやって現実に現れてしまった以上、現実にも関わる問題だ。
だが、それがなんだ。
「話は聞いた。けど協力はしない」
彼女たちの世界がどうなろうと、この世界にある彼女たちの物語がどうなろうと、自分が知ったことじゃない。
困るのは何だかんだ言って本が好きな人が中心だ。
本が嫌いな人間には関係ない。まして、大嫌いな人物が書いた本だ。
「あの人が書いた話がどうなろうと俺には関係ない」
本心だった。
確かに昔は好きだったかもしれない。
毎日毎日繰り返すほどこの物語が好きだったのかもしれない。
けれど、それはもう今となっては過去の想いだ。今の想いとは関係ない。
図書委員をしているからといって、そう本は読まない。読む必要はない。
自分の理に背かないように決められた仕事をこなしているだけ。
両親が蓮に物語を与える意味を知った日から、蓮は本を手に取らなくなった。
あれほど夢を与えてくれた物語は、ただ残酷に現実を突きつけるだけのもになった。
「俺はどんな本よりあの人が書いた本が一番嫌いなんだよ」
きっと、この世界で一番嫌いな人物。
後悔はしていないと言っても自分をこんな性格にしたのは間違いなくあの人だ。
そんな人物が書いた物語がどうなろうと関係ない。これは本心だ。
実際のところ、もし仮にこのままテレス達の物語が狂ったとして、この世界にも多少なりとも被害があるとする。けれど、蓮に実害があるかと問われれば、答えは否だ。
全くといっていいほど本を読まなくなった蓮には物語の世界がどうなろうと関係ない。
むしろ、大好きな物語が勝手に狂ってくれるのだ。万々歳ではないか。
飛び起きた拍子に手の下敷きになった本を再び手に取る。ずっしりと、重量を感じた。
赤塗りに、金の箔押しがされた表面を撫でれば、その表面は滑らかではなく凹凸がある。
色こそ地の色と同じだが、凹凸によって描かれた薔薇の花が影を作り、その存在を主張している。
表紙の中央付近には大輪の薔薇に縁取られ、唯一赤塗りされていない正方形の空間がある。
そこに描かれているのは青い空の下、一人で空を見上げる艶やかな黒髪の少女の後ろ姿。
写真のようにも見えるが、クリアなそれは人の手によって描かれた絵なのだろう。
広大な空に佇む少女は背を向けているため、その顔を見ることはできないが間違いなく少女はこの物語の主人公であるテレスだ。
蓮の目前にいる彼女と寸分かわらない姿をしている。
晴れやかに澄み切った空の下にいるというのに、その背中はどこか寂しそうに見えた。
「だから、俺はアンタに協力するつもりはない」
撫でていた本をベッドの上に投げ捨てる。吐き捨てるように言葉を紡いだ。
子どもじみた反抗だ。
本を嫌いなったのは自分の意思。
物語には関わらない。小説なんてものは必要ない。
「な――っお主っ」
「蓮様」
机から離れ、ベッドの上に腰掛けている蓮の胸倉にテレスが掴みかかる。
その時、申し訳程度の強さでノック音が響いた。
人の手が木製のとびらを叩く音。
続いた声にナイスタイミングだと感謝した。
「ご夕食の準備が整いました」
「わかりました。すぐに行きます」
声を一段高くして丁寧に言葉を返せば、足音が遠ざかっていく。
テレスが胸倉を掴んでいる手に自身の手を重ねて解く。
突き放すように押しのけ、ベッドから立ち上がった。
「話してくれたおかげで一つ疑問が解けたよ。それだけは感謝しておく」
先ほど使用人に言葉を返した調子で紡ぐ。
彼女に対しては初めて見せる上辺だけの自分。
彼女に出会った時からずっと不思議だった。
どうして物語から出てきたのか。
どうして自分の前に現れたのか。
どうして自分にしか彼女を認識できなかったのか。
どうして自分だったのか。
どうして選ばれたのか。
求めていた答えは想像通りで、ありふれた回答。
求められているのはいつだって『陵蓮』ではなく『セスク・リスト』の血縁者。『レン・ライオネア・テクニス』と言う存在。
曾祖父の血を継ぐ者。物語を紡ぐ者。
「ふっざけるな! 主は、どうなってもよいのかっ」
叫ぶテレスに振り向きもせずに歩みを進める。
「奴のっ愛した世界がっ――主の愛した世界がっ壊れてもよいと言うのかっ」
ドアノブを掴む手前でピクリと指がハネた。
奴のセスク・リストの愛した世界。
彼女たちの生きる世界。そして……――
「――俺は、一度してあんたらの世界を愛したことはないよ」
振り返らず言い放つ。
扉に反響して音は彼女に届くだろう。
小さくとも振動を持ったそれは必ず彼女の鼓膜をも振るわせる。
止めていた手をドアノブに乗せ、重力に任せて押す。
枷が外された扉をゆっくりとした動作で引く。
言葉を失った彼女が息を飲む音を聞きながら歩みを外へと進めた。
「蓮……」
紡がれた小さな呟きは、ドアが閉まる音にかき消され、蓮の鼓膜を震わせることはなかった。