第十九話
はじめてこの現実世界にやってきて、テレスは混乱した。
当然のことだろう。自分が今まで住んでいた世界とはまったく別の世界にいきなりでてきてしまったのだから。
けれど、自分が何をすべきなのかだけはなぜか決められているように知っていた。
自分と同じように物語から抜け出してしまった物語の世界に生きるものを連れ戻すこと。
その方法も、しっかりと頭に刻まれていた。
けれどその方法をなすには、自分の相棒となる蓮はあまりにも幼すぎる。
物語をもちいたスペルバトル。いくら才能があろうと言葉もまともに話せず、文章すら作れない赤ん坊にはとうてい不可能なことだ。
途方にくれるテレスの前に現れたのが蓮の父親だった。
テレスを見ることに必要な条件がセスクの血をひいていることなのか、彼はしっかりとその瞳にテレスを映し、彼女の名を呼んだ。
最初こそ混乱していたけれど、蓮の父親はすぐに状況を飲み込みテレスに協力すると言った。それがセスクの血を継ぐものの役目だからと。
その声が、あの破れたページの漂う世界で聞いた声と似ていたことから、テレスは、あの時聞こえた声は創造主であるセスクの声だったのかもしれないと考えた。
いつの日かこんなことが起こると予感していたセスクが、愛する物語に残した言葉だったのだろう。愛する物語を守るために。
彼はテレスにいろいろなことを教えた。
この世界の常識。テレスたちの世界と違っていることや同じこと。彼らの世界からみたテレスたちの世界のこと。セスクのこと。さまざまなことを蓮の父親はテレスに語って聞かせた。
そうして、実際二人で協力して物語から抜け出した存在をみつけることができた。
まっしろでその尻尾の先端だけほんのり桃色に染まった猫。
テレスにとってのはじめての友人である彼女の傍にいつもいた猫だ。
当然いつも彼女に会いに行くテレスの傍にもいてくれた。
いつも見守るように二人の話を彼女の膝上で聞いてくれる。テレスにとってもチェストにとっても大切な存在だった。
猫は、今回のチェストとは違い、ただ本当に迷い込んでしまっただけのようだ。
だからチェストのように勝負をもちかけられることもなく、難なく共に物語の中に帰ることができた。
結果、彼と能力を使うことはなかった。いや、できなかったというほうが正しい。
実際試しに能力を使ってみようとはしたのだ。
けれど結果は本とペンすら出すことができなかった。
蓮の父親が言うには本の持ち主だけが能力を使うことができるのではないかということだった。
しかし今ならわかる。この肌で耳で実際に蓮の紡ぐ物語を聞いて、蓮には父をしのぐ才能があるということを実感した。
それはおそらく、テレスたちを生み出したセスクに相当する才能だろう。
そうして、テレスは物語の中に帰った。猫と蓮の父親から教えてもらった知識を手にして。
◇◆◇
「それから、我は主が本に触れるたび、本を読むたびに物語の世界の中から主たちのいる現実世界をみることができるようになった。何度かは実際に外に飛び出して主と顔を合わせたこともあるぞ。あの頃の主の遊び相手は我らじゃったな。主が本を読むことを止め、この本は書斎にしまいこまれた。それを主の父の手でこの図書室に移し、あの日主が手に取ったというわけじゃ」
長い長い話を終えて、テレスは大きく息を吐き出す。
「……どうして黙ってたんだよ」
「主が気にしていたからじゃ」
自分が、自分自身が必要とされることを望んでいた蓮。
そんな蓮に以前彼の父親と組んだことを伝えてしまえば、血縁だけを必要とされていると思われると思った。
「それは、まぁ……」
その通りだ。
案の定感づいた蓮は先刻テレスに怒鳴ったし、やはり自分でなくてもよかったのではないかと自暴自棄になった。
「さて、もう話すことはないかの」
ピリオドをうつようにテレスガ手を鳴らす。
満足したように笑うテレスの表情に蓮の心が揺れた。
「帰りましょうか。お嬢」
「そうじゃな」
あと数分もしないうちに別れはやってくるのだろう。
それなのに、彼女はその別れを惜しむでもなく、ただ満足そうに笑うのだ。
なんだ。寂しいのは俺だけなのか。
心の中で独りごちた言葉に自分自身で驚く。
そうか、自分は寂しいのか。彼女たちと、彼女と別れることが。
素直にその感情を飲み込めば不思議と心の中にたまったもやが晴れた気がする。
「テレス」
胸のうちに抱えていた本を彼女へ差し出す。
「……ありがとう。とは、言ってやらないからな」
「なんじゃ、最後まで可愛げがないの」
テレスの手が本に触れてしっかりと掴む。
「当たり前だ。あってたまるか」
いきなり出てきて、勝手に何でもかんでも決めて。
もう書かない、関わらないと決めていた物語の世界に触れることになった。
なにもかも蓮にとっては想定外のことで、これから先の未来、予測していなかったこと。
散々引っ掻き回して、今までと違う未来を見せておいて、簡単に置いて帰るんだ。
しかたがない物語の中の人物なのだから。
本来は交わることのない存在だったのだから。
一方的に現実世界に生きる人間が知っているだけで、物語の中の人物が現実世界に生きる人間を知ることなんてありえないことなのだから。
ありえないこと。あってはならないこと。
このまま二人がこの世界にとどまれば、物語は壊れ現実世界の秩序も崩壊する。
だから、この別れは必然で当然のことなのだ。
「お前が俺を巻き込んだんだ。俺は巻き込まれただけ。礼を言われることがあっても言うことはないよ」
「まったく、主と言うやつは……」
「でも」
しかたない。そう動いた彼女の唇から奏でられる音をさえぎって蓮が音を重ねる。
「たすかったよ」
そう言って蓮は口角を上げた。
貼り付けたような作り物の、完璧な笑みじゃない。
少し不恰好で、泣きそうで、けれど心の底からの笑み。
「またいつか、物語を書くよ。本になったらまた会いにきてくれ。そのときは俺の産み出した子達を紹介するからさ」
最後にもう一度ぎゅっと本を握り締めて手を離す。
ゆっくりと離れていく重みに、蓮はもう一度笑顔を向けた。
「あぁ、約束じゃ」
そういって、雷のように突然やってきた物語の世界を生きる少女は、やってきたときと同じように強い光の中に消えていった。




