第十八話
しかし、いつまでたっても紙を空中で弾く音も衝撃もやってこない。
かわりに蓮の鼓膜を揺らしたのは、涙に濡れた彼女の音だった。
「諦められると、思ったの」
恐る恐るまぶたを上げれば、じっと委員長の漆黒の瞳が蓮を見つめている。
「物語を壊すつもりなんてなかった。でも、チェストさんを手伝えば貴方と勝負ができると思って、だから手伝うことを決めたの」
「どうして、そんなに俺と勝負を……」
「ずっと、見ていたから」
創者を失い戦うことをやめたテレスとチェストがそれぞれの創者のもとへ寄る。
委員長を気遣うように、チェストがそっと彼女の肩に触れた。
「私の家は先祖代々続く茶道の家元で、私もいつかは家を継がなければならないわ。でも茶道よりも私の心を惹くものがあるの」
「それが、小説か」
独りごちたテレスの言葉に委員長が頷く。
「えぇ。けれど私に陵くんのような文才はなかった。家族を納得させることができなかった。だから、諦めようと思ったわ。私にはできないと、諦めようとしたの」
けれど、簡単には諦められない。
そこで委員長は蓮に直接会って目の前で物語を綴ってもらおう思った。
幸い彼がこの図書委員会に入ってくることは彼の父親から聞いていたし、親同士の交流もある。だから、直接会って、圧倒的な差を見せてもらおう。
同世代の人間に圧倒的な差を見せ付けられたら、きっと心から諦めることができると思った。
あぁ、自分はこの人には敵わないんだ。だから作家にはれないのだと。自分がどれだけおろかなのか知ることができると思った。
けれど、蓮は物語を描くことをやめてしまっていた。
親の期待も、周囲の賛同も、才能も、自分には得られなかったものを全て持っているのに、彼はその全てを捨ててしまっていた。
その瞬間、彼へ向けていた憧れは怒りと嫉妬に変わった。
全てを持っているのに。
自分が手に入れることができなかったものを全て持っているのに。
どうして捨ててしまうのだ。
捨てるくらいなら自分にくれればいいのに。
どうして自分じゃないのか。
どうして捨ててしまう人に与えてしまったのか。
求めているのは自分なのに。
どうして自分には与えてくれないのか。
不公平だ。不平等だ。
いらないなら、最初から持たなければよかった。
持たされなければよかった。
そうしたら自分に与えられていたかもしれない。
ずるい。ずるいずるいずるい。
醜く歪んだ心。
このままでは駄目だと思っていたときに、チェストに出会った。
蓮とテレスが出会う数日前の、蓮と同じ書架整理中に二人は出会った。
懐かしい、憧れの本を開けて現れたのがチェストだった。
手を組んで蓮と戦うという話に、はじめは戸惑いを隠せなかったが、チャンスだと思った。
彼女から蓮の戦い方のスタイルを聞き、目の前で物語を紡いでもらえる。
そうすれば、ようやく自分は諦めることができるのだと。
圧倒的な差を見せつけられ、自分の愚かさに気づくことができるのだと。
だからチェストの手をとった。
彼女と自らの望みを叶える為に。
「そう、全ては……私が私を諦めるためだったのよ」
自嘲気味に笑う。
「けれど、やっぱり駄目ね。……私、どうしても小説を書くことを、物語を諦められないわ」
圧倒的な才だった。
言葉選びも、展開も、なにもかも敵わないと思った。
それでも、生まれた感情は諦めなんかじゃない。羨望だった。
「だから、『君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな』なんですね」
「えぇ」
藤原義孝が歌った。
出逢うためなら惜しくもないと思っていた命が、出逢った今では長く生きたいと思うようになったという思いを込められた歌。
蓮に、蓮の物語に出逢えば諦めても殺してもいいと思っていた物語への想いが、蓮の綴る物語に出逢ってからはもっと物語を書きたいという思いにかわっていった委員長の想いと同じだ。
「俺は、逃げることをやめました」
今までずっと逃げてきた。
本当は物語を描くことが大好きな自分の心から。
けれど、それも今日で終わりにすると決めた。
大好きだから。大好きな気持ちに嘘はつけないから。
向き合うことに決めた。
「だから、委員長も逃げないでください」
膝を折り、床に座り込む委員長の手に自身の手を重ねる。
先刻テレスが蓮にしたように大丈夫だという思いを込めてその手を包み込んだ。
「そうね。強く、なる。わ……」
ぐらり。委員長の体が揺れる。
「委員長っ」
慌てて蓮が腕を伸ばし、頭を床に打ち付ける前に彼女の体を支えた。
間に合ったと安堵しながら彼女に視線を落とす。
瞳を瞑ってはいるが、呼吸も安定していて、ただ眠っているように見えた。
「力を使ったから疲れたのね」
ふわり。とどこから取り出したのかチェストが打掛を委員長に掛けてやる。
腕をゆっくりと外して、委員長を床に寝かせた。
「それでは、今度は主の話をきこうかの」
「お嬢ならそういうと思ったわ」
チェストがくすくすと楽しそうに笑う反面、テレスは呆れにも似た息を吐き出す。
「して、主はなぜこんなことをした」
「……お嬢と、外に出たかったのよ」
その言葉は彼女がいままで発したどんな言葉より小さく、頼りのない音だった。けれど、不思議としっかりと耳に響く。
まっすぐテレスと蓮を見つめるチェストの瞳はどこか寂しそうだ。
「アタシたちの世界が創られたものだと知った日、同時に知ってしまったのよ。これからの展開を全て。あの物語にアタシが外にでるなんてことはありえなかった。あの世界にいる限り、アタシはお嬢と外の世界を歩くことは叶わない」
物語の中に生きる人にとって、描かれた物語は絶対だ。
描かれていない先の物語など存在はしない。
作者がここまでと区切りをつけたらその物語はそこで終わりだ。
テレスの物語の結末は、チェストと出会った世界は彼女の夢の中で夢から覚めた彼女は夢の中での出来事を心の支えとして自分を変えていく。そう、チェストとテレスは本当の意味では外の世界を歩くことは絶対に叶わなかった。
テレスにとっての世界で、チェストは別の世界に存在する存在であったから。
誰かが頭の中で描こうと、誰かが別の紙に物語の続きを書き綴ろうと彼女たちの物語に変化はない。
創られた世界が絶対で、物語の世界を創り上げた創造主が絶対。
全てを悟ったチェストはあの格子の外のさらに外を目指した。
物語に縛られない世界を目指した。
「お嬢なら、迎えにきてくれると思ったの。アタシがいなくなったら、きっと探しにきてくれる。約束したから。どこにいても見つけてくれるって。だから、抜け出した。自由になって、お嬢と外の世界を歩きたかった」
委員長は諦めたくないことを諦めるために。
チェストは諦めるしかなかったことを諦めないために。
一見正反対のように見える願いは、本心では諦めたくないという点で同じだった。
そして、自分ではどうしようもない檻に閉じ込められていることも。
それゆえ二人は惹かれあったのだろう。
「けどもういいわ」
「満足したのか? それとも諦めたのか?」
「満足したのよ。お嬢とあの人の血をひく人とこうやって全力で遊べて。しかもアタシと似た女の子を救うことができた。大満足だわ。それに、お嬢との思い出がたっぷりつまった。お嬢と出会えた世界が壊れてしまうのはとても悲しいわ」
言い切ってチェストはすがすがしい笑顔を見せた。
それは心のそこから満足していると体言しているようだ。
「そうか……なら、帰ろう」
「えぇ」
「ちょっと待て二人とも」
いい雰囲気で手を取り合った二人の間に入る。
今にも本の中に帰ってしまいそうな二人を言葉と体の両方で蓮は引き止めた。
なんだ。さっさと帰らせろと言わんばかりにテレスが顔を歪める。
「帰るんならお前が俺に秘密にしてきたことを教えてからにしろよ」
それまでは帰らせてたまるかと、机の上においていた彼女たちの物語をひったくり胸のうちに抱えた。
テレスとチェストが顔を合わせる。チェストが無言のままこくん一度頷きテレスがしかたないといった風に苦笑した。
「そうじゃな。主も確信しているように、我がこの世界に出てきたのは今回が初めてではない。……はじめてこの世界に来たのは主が赤ん坊のころじゃったよ」
まだ目も見えていないだろう。生まれて間もないころ。
ようやく生まれた待望の子供に父親が祖父から受け継いだ本を渡した。
蓮の曾祖父から祖父へ、祖父から父へ、そして父から蓮へと受け継がれた本。
それが、曾祖父の代表作だったテレスの物語だった。
「そうして、今回のときと同じように主がこの本に触れて、我はこの世界にやってきた」