第十六話
「委員長……あ、いやこれはそのクラスの文化祭の出し物の練習で……」
「隠さなくていいよ」
慌てて蓮が言い訳をするが、委員長は落ち着いた様子で言葉を続けた。
「……きちんと目を合わせるのははじめてですね。はじめまして。テレス・セクリアさん。有名作の主人公である貴方に会えて読書家として光栄です」
ぺこりと委員長が頭を下げる。蓮にではなく、その対向にいるテレスに。しっかりと目を合わせて、しっかりとテレスの存在をその分厚い眼鏡の先にある目に宿して。
「み、見えるんですか?」
「えぇ」
ゆうるりとした動作で頭を上げる。その流れのまま腕を上げて、顔の横、肩の上の何もない空間に添えた。まるで肩に乗った猫をなでているような仕草だ。
「私にもいるもの」
ふわりと花の香りが香る。
窓も開いていないのに、花の香りが風に乗って運ばれてくる。
香りだけじゃない。
ひらひらと蓮とテレスの頬を撫でるのは、季節はずれの薄紅色の花弁。
「さ、さくら?」
「まさか――っっ」
頬を撫でる花弁を一枚摘み二人で眺めているとはっとテレスが顔を上げる。
つられて蓮も顔を上げれば、先までいなかった存在がそこに在った。
薄紅色の、桃色の美しい髪。軽くウェーブした毛先。
開いた瞳はテレスの濃いワインレッドの赤とは違い、日の加減によっては橙にも見えそうな紅色。
テレスの白い肌よりさらに白い。雪のような日に透ける肌。
薄紫の着物を着た。精巧な人形のような存在。
あまりの美しさに、蓮はごくりと喉を鳴らした。
絵に描いたようだと、絵に描いたように美しい人だと。
彼女は、絵画から抜け出してきたかのように美しい。
「はじめまして。セスク・リストの血を継ぐ者。それに、ひさしいね。お嬢」
口角を上げて微笑む姿も絵になっている。
首に回された手に委員長も手を重ねて対面にいる二人を見た。
「お前……」
「チェスト……」
同時に呟く。
誰だと蓮が問いかける前に、横にいるテレスからその答えが返された。
横目でテレスの顔を覗えば、隠し切れない動揺の色が滲んでいる。
チェスト。
チェスト・アルカイック。
テレスと同じ、『Story in the dream』の登場人物。
桃色の髪と淡い紅色の瞳を持つ美女。
「そいつが、お前の探し人……物語から逃げ出したやつなのか……」
「そうじゃ」
これが、探していた人物。
テレスが物語を抜け出してまで取り戻したかったもの。
「……ちょっとまて。優はどうした。優があんたのとり憑いた相手じゃなかったのか」
チェストの傍にはいつも純白の、尻尾の先だけほんのり桃色に染まった猫がいた。
忘れたくて忘れられなかった物語の中。その存在は確かにあって、だから蓮はその猫を追いかけた先にいた優が探し人なのだと思った。
嘘の言葉。
百人一首。
隠されたもの。
何もかも話してはいなかったけど、嘘もつかなかった二人の間にはじめて生まれた嘘。
だから蓮は思った。思わざるを得なかった。
きっと優はテレスの探し人のとり憑き相手で、自分たちから身を隠すために嘘をついたのだと。
「そういうことか……」
テレスが息を吐く音が聞こえる。
「我らの目があの少年に向くようにそなたたちが仕向けたのじゃな。けれど理解できぬな。われらに逢いたいというたのはそちらじゃろう」
今ならはっきりとわかる。
あの日の朝に聞いた声は、チェストの声だ。
低くもなく高くもない。男とも女ともとれる中性的な声。
「どうして我らにあの少年を疑わせた。なぜ、いまさら顔を出したのじゃ」
「……お嬢。ゲームをしましょう」
テレスの問いへの答えではない言葉を口にする。
帯に挟んでいた扇子を手に取り口元を隠すようにばっと広げた。
「前回は役者がそろっていなかったようだけれど、今回は違う。誰よりも百人一首を知るアタシと、誰よりも百人一首を愛する彼女。セスク・リストの最高傑作であるお嬢と、彼の人の血を最も濃く受け継ぐ存在。舞台はあの人が誰よりも愛した本が集まる場所。ゲームの舞台も役者も申し分ないでしょう」
委員長の肩口から前に出たチェスト両の手を広げる。左手には扇子を持ち、右手は掌を空へ向けた。
「私たちが負けたら、チェストさんは物語の中にお返しします」
両手で眼鏡のつるを摘んで眼鏡を外す。
分厚い障害物をなくして見えた彼女の瞳は、蓮が焦がれる漆黒の闇。
「でも、アタシ達が勝ったらお嬢。……一緒にこの世界で暮らそう」
空っぽの右手と扇子を持つ左手を伸ばしたまま体の前で合わせた。
パチンと音を立てて扇子が閉じられる。
それが、開戦の合図だった。
チェストが閉じていた扇子の端を持ってばっと下へ振り下ろす。重力と勢いで再び扇子が開かれた。
まるで打ち出の小槌のように、振り下ろした扇子の先からはらはらと札が生まれ落ちる。
それらは重力に身を任せて床に落ちていった。のではなく、ふわりとまるで風に乗る落ち葉のように舞い上がって、委員長の目前に列を成した。ぐるりと委員長の周りを一周する。
「百人一首?」
若草色の背面、白い地に旧字体で文字の書かれた表面。
くるくると回るそれらが生み出した風に委員長の三つ編みが解ける。
いつも三つ編みをしているためか、少しウェーブのかかった髪が風に揺れた。
「蓮! 我らも応じるぞ」
パンっと両の掌を合わせる。ゆっくりと離せば、合わせていた掌の合間から光が生まれる。
生まれた光は広がり、輪をなして陣を描く。
数秒と経たないうちに、空中に魔法人のようなものが描かれた。そこに手をいれる。
「受け取れ」
言いながら引き出した手と、蓮へと向けてその手から放たれた二つの物体。
ふわりと重力を無視して、蓮の前に浮かんだ。
深い赤色をした長方形の物体と細長い羽のついた物体。
その二つに蓮は見覚えがあった。
「……本と、ペン?」
ふわふわと誰の助けもなく宙に浮くそれらは、幼い頃蓮が愛用していたものによく似ていた。
広辞苑ほどの分厚さに、ハードカバーの本よりも一回り大きい朱塗りの本と鷹の左羽からとられた羽で作られた羽ペン。
「手に取るのじゃ! そうして紡げ!」
だんっと床につけた足を叩く。びくりと蓮の肩が合わせて跳ねた。
大きくかぶりを振る。
手にとって、どうしろという。
ゲームとは何だ。
頭がついていかない。
委員長の武器があの百人一首たちで、自分の武器がこの本とペンだって言うのか。
たかが本とペンで何ができる。
「主が描いた物語を我が体現する。それが主と我の能力じゃ」
「のう、りょく……?」
「そうじゃ。我ら物語の住人は現実世界に身を宿したとき現実世界の住人と共に力を合わせることによって能力を発動させることができる。あやつらの能力は百人一首の世界を現実世界に反映させることじゃ」
からんからんと下駄を鳴らしてテレスが蓮の前に出る。
きっと蓮が本をとればすぐにでもこのゲームがはじまるのだろう。
「さぁ紡げ蓮!」
「い、やだ……いやだ」
促す言葉に蓮は大きくかぶりを振った。
いやだ。いやだと。まるで赤子が駄々をこねるように拒否する。
「……誰でもいいんだろう! 前は父さんで何とかなったんだろう! だったら父さんを呼んでやればいいじゃないか! 俺にはもう物語は紡ぎたくないんだ!」
紡ぎたくない。紡げない。
役立たずと捨てられるなら、自分から捨ててやる。
委員長とチェスト。それにテレスに背を向けて駆け出す。
本棚が両脇に並ぶ中央通路をだっと駆け抜けた。
「逃がさないよ」
「はいっ『ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは』」
紙を手で叩く音が響く。百人一首を叩く音。
耳に届いた言葉に反射的に振り返れば、もみじをまとった水流がうずを巻いて蓮の目前に染まっている。
やばい。思いながら顔の前で両腕をクロスさせる。
「蓮っっ」
衝撃と同時に、テレスの声が聞こえた。
「――ってぇ……」
腹と背に与えられた衝撃に呻きを上げる。
「無事か」
「テレス……」
蓮の背には図書室の貸出台があり、そこに覆いかぶさるようにしてテレスが手をついている。
ぽたぽたと、彼女の頬を伝った雫が蓮の頬に落ちた。
「なんで……」
俺なんかをかばうんだ。
そう言いたげな瞳をテレスへ向ける。
「言ったじゃろう。主は我の運命じゃ」
口角を上げる。勝ち気な幼い子供のようなその笑みがひどく彼女らしいと感じさせられた。
「我には主だけなのじゃよ」
「でも、この前は父さんができたんだろう」
「馬鹿め。話をきちんと聞いておらんかったのか。あやつも言うておったじゃろう。前回は我らの能力を使うことができなかった。役者がそろっていなかったのじゃ。……主の父でも祖父でもない。主じゃなければ、我の能力は使えんのじゃ」
まっすぐに見つめてくるテレスの瞳から逃げるように目をそらす。
逃げても無駄だと言うようにゆっくりと、けれどしっかりと近づいてくる委員長の足音が二人の鼓膜を揺らした。
「なんで……なんでっ」
ぎゅっと板張りの床の上でこぶしを握る。
「なんでいまさらそんなこと言うんだっ! 捨てたんだよっ! なにもかも!」
ペンもノートも物語を描くものをなにもかも袋に詰め込んで捨てた。
もう二度と手に取ることはないと。もう二度と手に取りはしないと。
「もう音は、言葉は俺に降ってこない。俺には物語を紡ぐことなんてできない」
いつだって空想の中の世界は、音になって蓮に降り注いできた。
それは、蓮にとって自然で当たり前のことだった。
頭の中で物語を描けば、音となり降り注いだ音を蓮が言葉にする。
けれど、その音はもう蓮には届かなかった。
物語を描くことを止め、もう二度と書きたくないのだと降り注ぐ音に耳を塞いだ。聴こえないふりをした。
そうするうちに、音は降り注ぐことを止め、今度は本当に聴こえなくなってしまった。
「いい加減にするのじゃ」
バシン。
乾いた音が響く。音と共に蓮の視界が揺らいだ。
「いい加減逃げようとするのはやめるのじゃ! 自分でもわかっておるのじゃろう。主には才能がある。やつから受け継がれた物語を紡ぐ才能がっ」
泣きそうな声。そこで蓮は自分がテレスに頬を叩かれたことに気づいた。
叩かれた頬に右手をそえ、恐る恐る視線をテレスへ向ける。
しっとりと濡れた彼女の髪と頬。瞳からは涙はこぼれていないのに、滴り落ちる雫が彼女の涙を表しているようだ。
「けど、俺は……」
「まだ言い訳を続けるのか。逃げるのか。そうして逃げて何になった。何が生まれた。何も生まれなかったじゃろう。やつから受け継いだ才能がどうした。そんなにやつと比べられることが恐ろしいか。そんなにやつから受け継いだ血が憎いか。じゃがな、蓮。覚えておれ。才能を生かすも殺すもおのれ次第。遠の昔に死んだやつには何もできぬ。恐ろしいのならその才能を飼いならせ。憎いのなら見返すぐらいに才を育てろ。逃げているだけでは主は一生やつの呪縛からは逃れられん」
まっすぐワインレッドの瞳が蓮を見つめる。
もう逸らすことはできなかった。
発せられた言葉は鐘の打つように蓮の心を響かせる。
怖かった。
自分が必要とされていないことが。自分じゃなくてもいいことが。
わかってしまうことが怖かった。
あの人の血縁でさえあれば、誰でもいいのだと考えることが怖かった。
一度でいい。一度でいいから自分を見てほしかった。両親に、祖父母に。
あの人の才能を受け継いだ自分じゃなく、子供である自分を、孫である自分を、自分自身を見てほしかった。
本がなければ、物語を描かなければどうなるだろう。
ちゃんと自分を見てくれるだろうか。ちゃんと、本ではなく自分を見てくれるだろうか。
それは、幼い出来心。
物語も、描くものも、なにもかも捨てた。きっと自分自身を見てくれるだろうと。
けれど、そんな希望は、期待は簡単に打ち壊された。
必要とされていたのは、物語を描く自分。描かない自分は誰にも必要とされなかった。
だから、嫌いになろうとした。行き場のない怒りを悲しみを全て物語へ向けた。見たことのない曾祖父へ向けた。
全部全部物語の所為だ。物語を愛する家系を創り上げた曾祖父の所為だ。
自分が必要とされないのも全て全て。
本を捨てて、ペンもノートも捨てて、全てなかったことにした。
嫌いになればきっと何も感じない。悲しいなんて思わない。
無かったことにすれば、必要とされないという事実にさえ気づかないふりができる。
そうして、ずっと背を向けて生きてきた。
「主がもし自分を信じることができぬのなら我を信じろ。さすれば我が主を信じ、それは自信と同義になる」
「お、れは……」
喉が渇く。張り付きそうな喉から音を搾り出した。
ぎゅっと、けれど優しく握られた右手。
「お、れは……書き、たい。逃げたくない。負けたくない」
その手に勇気をもらうように言葉を紡ぐ。
テレスの瞳にまっすぐ映された蓮の瞳はもう揺らいではいなかった。
よし。とテレスが満足そうな笑顔を見せる。
蓮の前で袖を一振り揺らせば、先ほど見たペンと本が現れた。
「さぁ、詠え。それにあわせて我は舞う」
立ち上がるテレスにつられて腰を上げる。
宙に浮いたペンと本を手に取った。