第十三話
「主は寂しくはないのか」
出逢ってどれほどした頃か、少女は彼女に尋ねた。
いつも通り、見慣れてきた身慣れない町並みに囲まれて。木でできた格子の向こうにいる彼女へ。
「寂しくはないよ。君が毎日ココに来てくれるからね」
崩した足の上に座る猫をなでる。真っ白で、尻尾の先だけが彼女の髪のようにほんのり桃色に染まった猫。なーごとのどを鳴らして、猫は彼女の腕に擦り寄るように頬を寄せた。
今日もまた街路樹の桃色の花が風が吹くたびに舞い散って部屋に散らばっている。
「主は、ここからは出られないのか」
「出られないんじゃなくて出ないのよ」
「どうして」
出られないから出ないのではない。
出たいという意志があれば出ることは叶うのに、彼女はそれを願わない。
「まだ、その時じゃないから」
りりん。りりん。と、猫につけた鈴の音が鳴く。
ひゅうぅとまた一陣の風が吹いて、桃色の花を散らした。
「……いまいちわからぬが、その時がくれば主は外に出られるのじゃな」
「ええ、その時がくれば」
「なら、その時がきたのなら共に歩こう。主は我のはじめてのひとじゃからな。主のはじめてもはじめて共にしたい」
「……約束ね」
「あぁ、約束じゃ」
なーごとまた猫が鳴いて、するりと彼女の腕を抜け出す。
一枚いちまい。影踏み鬼のように舞い散り落ちた桃色の花弁の上をなぞり歩く。
その姿はまさに……――
◇◆◇
カツコツと皮の上履きを鳴らして廊下を歩く。
「不服そうな顔じゃな。そんなに面倒ごとを押し付けられたのが不満か」
「……いや、違う」
カツコツ。コツカツ。
足音は一人分。聴こえた声に首を振る。
「だというのなら何が不満なのじゃ」
「本が……」
歩みを止めないまま視線を手元に移す。片手で三冊束ねてもった本を視界に映して眉間にしわを寄せた。
「本に何か問題があるのか?」
「百人一首だよ」
「主がついた言い訳と同じじゃろう」
「違う」
歩みを止める。コツカツと鳴っていた音も止み、蓮が立ち止まったことにより少し先を歩くことになったテレスが音も立てずに振り返った。
掃除時間に開けたまま忘れられたのだろう。開け放たれた窓から風が吹き込む。
風が初夏の匂いを纏って彼女のあでやかな黒髪を揺らした。日差しに照らされた砂に水をかけた匂い。
舞い踊る髪が顔にかからないように左手で押さえ、彼女は不審そうな瞳を蓮へと向ける。
「どういうことじゃ」
この学園に通う生徒たちは、基本真面目だ。
将来親の事業を継ぐためだったり、親や会社のメンツだったり、その根底には様々な理由がある。様々な理由のためにここに通う生徒たちには学ぶことに関して真面目にならざるをえない。
けれどそれぞれに勉強の仕方というものがある。
予習するもの、復習するもの。授業中だけに集中するもの。それぞれのやり方があって、蓮は予習する派の人間だ。前回の授業の進度から次回に学ぶ範囲を考えて予習する。
しかし、優は蓮のような勉強形態をとってはいない。
「あいつは、予習はしない性質なんだよ」
言い終えてきゅっと本を持つ手に力を込める。
優がこの本を借りる理由がわからない。
優とは一年生のときからの付き合いだが、いまだかつて彼が予習しているところを蓮は見たことも、聞いたことさえない。それどころかいつも授業の前にやれ今日はどこをするのだとか聞いてくるレベルだ。この学園では割と少数派に部類するだろう。
「なるほど、ではなぜそやつはそれらを借りるのじゃ」
「それがわかんねぇから悩んでんだろ」
普段ならなんともない。気にしない小さなことだ。
けれど、「百人一首」という単語が頭の中で引っかかる。もやっとした塊が胸に落ちて落ち着かない。
百人一首。
朝、蓮の耳に届いた言葉。
男性とも女性ともとれる抽象的な声。
テレスの探し人。
物語の人物。
テレスの友人。
リン。
ふと耳に届いたその音に、じっと睨むようにして手元の本に落としていた視線を上げる。
今度は目前にいるテレスにも聴こえたのだろう。これは……とひとりごちてあたりを見回している。
リン。
二度、鈴の音が響く。
音の響きやすい細長い廊下で、はっきりと。その音は蓮とテレスの鼓膜を振るわせた。
周囲を見回していた視界の端、中央階段へと続く左折地点に細く長い尻尾が揺れている。
真っ白で、先だけがほんのり桜色に染まった尻尾。
ゆらゆらとゆれるそれは、春に咲く花が散るさまを彷彿させる。
「――待てっ」
まるで誘うように角に消えていくその桃色を追いかけた。
カッカッカッと革靴を鳴らして廊下を駆ける。
尾が消えた角を曲がるが、そこにはもうその持ち主の姿はない。
「くそっどこにいった」
消えた桃色がどこか近くに潜んでいないか目を凝らす。
ニャーゴ。
「――――」
先ほどまで聞こえていた鈴の音とは違う。先の尻尾の持ち主をはっきりと想像させる鳴き声。まるでその鳴き声が歌を紡いだかのようだ。同時に2つ音が蓮の耳に届く。
見覚えのあるその内容と聞き覚えのあるその声に、蓮は階段を見上げた。
「こっちかっっ」
階段裏へと向かおうとしていた踵を返して手すりを掴む。その手を軸にしてぐるりと回り込み反動のまま階段を駆け上がった。
待たぬか。と後ろからテレスが叫ぶ。その声に蓮は答えることなくひたすら階段を上がっていく。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」
「田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
まだ古典の意味も分からなかった小学生の頃。教科書に載っていた百人一首の中の歌。
奏でる音は低くも高くもない。女性とも男性ともとれるような中性的な音。
どこかで聞いたことのある、聞き覚えのある音。
階段を上って左に曲がって、その音の主がいるだろう二番目の教室。階段に近い後ろのドアに手をかけて勢いよく開け放つ。
春を思わせるような爽やかな風が吹く。
ドアに背を向けて窓辺にたたずむ、テレスより少し明るい黒髪の人物。
長い長いその髪の下からは薄紅色の打掛が覗いている。
そよそよと、風を受けて揺れる窓の外の葉が、桃色ではないのに桜を思わせた。
まるでその教室の一部だけが、絵画のように完成された空間だ。あまりの美しさに息を飲む。
いつか見た。テレスの物語に出てきたワンシーンにそっくりだ。
桜と、窓。そして、紡がれる百人一首の歌。
もしかして、こいつは……――
「あれ? 蓮、どったの?」
探し人かもしれない。
蓮が教室の中へ一歩踏み出したと同時にその人物が振り返る。
その顔に蓮は見覚えがあった。
「は、優?」