第十二話
放課後。
五、六時間目のホームルームで決まった文化祭の出し物――ありきたりなメイド・執事喫茶――の衣装相談がしたいと言う衣装担当の女子生徒の誘いを「ごめん。図書委員の仕事があるから」と断って、蓮は図書室で本を漁っていた。
「おい、蓮。主はさっきから何をしておるのじゃ」
「んー」
ふわふわと、周りを漂うように浮くテレスに生返事を返す。
本棚から抜き出してきた数冊の本を、図書室の最奥、窓際の席に座って机の上に広げていた。
一冊の本をペラペラとめくりながらある言葉を探す。
朝、すれ違いざまに鈴の音と共に耳に届いた言葉。
「おい、これ。聞いておるのか。おい、蓮」
「なぁ、お前」
「なんじゃ。ようやっとそのへんな用事を済ませて、探し人を探す気になったか?」
「……『名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな』の意味。知ってるか?」
テレスの言葉を無視して、逆に問いかける。
もちろん、他の図書室利用者に聞こえないくらいの小さな声で。
また一枚、ページをめくった。
授業関連以外ではもう二度と読むことはないだろうと思っていた活字文字の羅列。
流れるように目を動かして、文字を追っていく。
それでも内容がきちんと頭に入ってくるのだから、小さい頃培われた能力は衰えないという言葉にも頷ける。
「……簡単に言えば、逢いたい。逢ってみたい。の意じゃな」
「だよな」
すぐに読んでいた本に書かれていたものと同じ様な解答が返ってくる。
頷いて、もう一度そこに書かれた言葉をじっくりと読み直した。
『名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな』
百人一首の二十五首目。三条右大臣の藤原定方が詠んだ「あいたい」と言う思いを込めた歌。
今では嫁入り婚が一般化して、婿入り婚は稀だが、この歌が書かれた当時は、基本的に男性が女性のもとに通っていた。
そんな男性たちが女性へと送ったのが和歌だった。五七五七七。三十一音の短い言葉に、伝えたい多くの思いを詰めて。
逢いたい。
傍にいたい。
逢坂山の名前のように。
さねかづらを繰って、人に知られないで会いに行きたい。
「その言葉が、どうかしたのか」
「朝だよ。お前には聞こえなかったのか?」
「いや、朝は主とあの猫目男の声しか聞いておらんぞ」
聞こえていない。
あの鈴の音も、あの言葉も。
あの後、優にも尋ねたが、そんな声は聞かなかったようだった。
普段なら恐らく気にも留めなかった。
自分にしか聞こえなかったのは、周囲の喧騒がうるさかったから。
聞こえた言葉は自分にではなく他人に向けられたもの。
そう理由をつけて考えることを放棄していた。
けれど、『チリン』と響いたあの鈴の音が、
『焦って、焦って、考えを廻らせているうちに、今度はどこからかチリンッと鈴の音が響いた。
懐かしい音だ。聴かなくなってどれ程この物語を繰り返したことか。
やはり我にはあやつがいないと駄目なのじゃ。
どこにおる。どこにおる。
鈴の音がする方へと急いで走った』
そんな彼女の言葉を思い出させた。
もし、あの言葉が自分に向けられていたのなら。
あの鈴の音が探し人の所在を示すヒントになるものだったら。
「……そういえば、あやつは百人一首が好きじゃったな」
“あやつ”
その言葉が指す人物に蓮はすぐに辿り着くことができた。
キーワードは百人一首。
頭の奥底にしまった引き出しを開ける。
桜の木の傍。
格子で囲われた牢屋のような部屋。
歌うように、子守唄のように奏でられる音。
チリンチリンと、動く度に小さく、けれど確かに鳴く鈴。
「なあ、お前が言っていた探し人って……」
「おそらく主が今想像している人物で間違いない」
昨晩。蓮が聞いた探し人を表す言葉は『テレスの友』という言葉だけだった。
だから、探し人についてそれであるという確信は持てなかった。けれど、これで確信が持てた。これは、この言葉は間違いなく……
「あやつからの、言葉か……」
「そう考えてもおかしくはないと思う」
朝の混みあった廊下。
百人一首の話をする人なんてそうそういない。
あの時、すれ違った人物が探し人である可能性は極めて高いだろう。
腕を組み、広げた本を睨みつけるようにして考える。
けれど、まだ一つ。疑問がある。
「なあ、そいつは、お前みたいに誰かにとり憑いているのか?」
「なっ! とり憑いてはおらぬぞ」
「あーはいはい。その辺はどうでもいいから。んで、どうなわけ?」
「そうじゃ」
きっぱりと。
漫画なら背景にドーンと効果音が付きそうな、自信に満ちた顔。
「我はこうやって主を相方にしておる。それならやつが相方を見つけていても不思議ではない」
「なるほど。一理あるな。じゃあ、もう一つ質問――」
チリン。
「あれ? 陵くん?」
最も近い本棚からひょこりと顔が覗く。
黒いおさげ髪。
開いていた口をすぐにつぐんだ。
「今日当番じゃなかったよね? ――あ、調べものか」
自問自答。蓮が答えを返す間もなくおさげ髪の彼女……図書委員長は答えを出す。
ゆっくりと、革靴をコツコツ鳴らして近づいてきた。
どうやら、端から見たら盛大な独り言に見えるテレスとの会話は聞かれてはいないようだ。
「百人一首の勉強?」
「こんにちは。お疲れ様です。……はい。授業で次からやるそうなのでその予習です」
嘘ではない。
実際、今日の授業中に次の時間からは百人一首に入ると蓮のクラスで教師が知らせていた。それは暗に予習しておけと言う意味だろう。
だから、蓮が委員長に言った言葉は全てが嘘ではない。
本当でもないけれど。
開いていた本をパタンと閉じる。
広げていた本たちを一冊一冊を重ねて、机の端に寄せた。
「百人一首は私、大好きなの。もし陵くんがよかったら教えるけれど……」
「本当ですか?」
心底嬉しそうに。
よほど百人一首が好きなのだろうか。
その分厚い眼鏡の下にある瞳をきらきらと光らせている。
もう半分教える気でいるようで、胸に抱えていた本を机の上に置いて、机を挟んで蓮の向かいにある椅子に腰を降ろした。
「えぇ、大好きな百人一首のよさを他の人にわかってもらえると私も嬉しいもの。喜んでお教えするわ」
「ありがとうございます。助かります」
面倒くささ半分。感謝半分といったところ。
テレスに聞いたり、相談しながら話はできないが、正直言うとそろそろ限界だった。文字の羅列を見ているのは。
「この意味なんですが……」
一度とじて横に寄せた本をもう一度手にとってぱらぱらとめくる。
先ほど開いていたページにたどり着いたところで手を止めて向きを変える。
蓮から見たら反対、委員長から見れば正しく見れるように机に本を置いた。
「『名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな』」
蓮が指した言葉を繰り返す。
どこか、今まで話していた調子と違った。
ゆっくりと、はっきりと。
音量はそれほど大きくはなく、消え入りそうなのに、しっかりと耳に届く。
――……この声、どこかで……
聞いたことがあるような、ないような。
耳に覚えがあるような、ないような。
なんだか、最近そんなことばかりだ。
たいした確信もない。
ただ、なんとなく耳に覚えがある。記憶はないのに。
テレスのことにしてもそう。
記憶もなにもないのに、ふと懐かしいと感じてしまう。
物語に見ていた彼女と、いま横で浮遊している彼女はまったく違うように思えるのに。
「まず、この歌を詠んだ人から説明するわね」
先ほどの声の調子ではない。いつも、よく通る声。
はっきりはきはきとしていて聞き取りやすい。
その声にいまは少し高揚感が混ざっている。
「まず、作者はここに書いてある通り、三条右大臣藤原定方。彼は内大臣高藤の子なの。右大臣にまで登って、三条に邸宅があったから三条右大臣の名で呼ばれていたのよ」
当時の人がほとんどこう呼ばれているのは知ってる?
確認を促す言葉が返ってくる。
「はい。知っています」
もちろん、知っている。
清少納言や紫式部の『少納言』や『式部』だって役職の名前だ。
特に女性の場合、名前と言う概念がかなり希薄で、主に父親の役職名などで呼ばれていたはずだ。
その回答に満足したのか、委員長は大きく頷いて話を続ける。
「それで、この藤原定方は和歌や音楽に非常に秀でた才能を持っていたの」
“才能を持っていた”
その言葉を口にした委員長の顔が一瞬だけ、酷く冷たくなったように感じられた。
瞬きを一度。
ブラックアウトした視界がすぐにまた明るくなる。
「その才を認められて紀貫之などの後援者となったのよ」
再び視界に映した委員長の顔は、いつもよりも少し高揚感が混じっているだけで、冷たさなどは一切感じられない。
隠しきれない興奮の色が混じった声色。
分厚いメガネの奥から除く知的な瞳にも同じ色が混じっている。
「簡単にこの歌を現代語訳すると『「逢坂山のさねかずら」という名前のように逢えるのならば、さねかずらを手繰り寄せるようにして、誰にもわからないように、貴方のもとを訪ねてみたい』といった意味になるわ」
現代語訳を暗記しているのか、一切本に目を落とさずにすらすらと述べる。
いや、現代語訳だけじゃない。先ほどの作者の説明も、資料など見てはいなかった。
委員長が蓮の差し出した本に視線を向けたのはたった一度だけ。どの歌の説明を求めているのか蓮が答えたときだけだ。
その後も、委員長はまるで歌うようにすらすらと説明を続けた。
彼女いわく、この歌は技巧的な一首だそうだ。
けれど、それだけではなく、軽快なしらべから明るい恋歌といった印象が与えられる。
当時は歌とともに草花を贈る習慣があったので、この歌はおそらく「さねかずら」とともに意中の女性へと贈られた歌だったのだろう。
「くるよしもがな」と言う言葉は一見すると女性が男性のもとに来るように解釈できそうだが、今日とは違い当時は女性があまり表には出なかった。
つまり、この場合男性が「来る」ではなく、「行く」と解釈するのが正しいことになる。
「もっと簡単にこの歌の意味を言うなら、多分『会いたい』という意味になると思うわ」
女性から会いにくることは叶わない。自分が彼女に会いに行くしかない。
誰にも知られないように、贈ったさねかずらをつたって、会いに行きたい。
そんな想いが込められた恋歌なのだと、委員長はとても愛しそうに蓮に語って聞かせた。
どうやら蓮やテレスが考えていた意味が間違っていることはなさそうだ。
後の問題は、この言葉が誰が誰に向けて言った言葉なのか。もし仮定として、この言葉が蓮に向けられたもので、贈り主が探し人であるなら、どうして「会いたい」なのか。
物語から逃げ出したのなら、戻そうとするテレスと組んでいる蓮は避けたい対象にはいるはず。
そんなの、わざわざ火に飛び込んでいく夏の虫のようなものだ。
なのに、どうして。
「良い歌よね。技巧的にも確かにすばらしいけど、私はこの歌に籠められた意味が本当に好きだわ」
「そうですね」
「でも、やっぱり私の一番大好きな歌はこの歌なの」
ぺらぺらと、机に置かれたままだった本を手に取り捲っていく。
解説書のちょうど真ん中辺りで手を止めた委員長は、蓮が見やすいように本の向きを変えた。
その動作に促されるように視線を落とす。
『君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな』
五十という数字の下に書かれた歌をその細い指先でなぞると同時に小声で詠む。
静かな図書室に響く音。
本当に、大好きな歌なのだろう。小声ながらもしっかりと感情が込められている。
かちゃっと鳴った音に蓮が顔をあげる。窓から差し込む光を瀬に微笑む、眼鏡を外した委員長の姿が蓮の空色の瞳に映った。
長く艶やかな黒が、日に透けて艶やかさを増す。
黒も光を受けて輝くものなのだと、初めて知った。
自分の金の髪が光を受けて輝く時とはまた違う。もっと自然に溶け込んで、まるで夜明けの空のようだ。
「この歌には『もしも貴方に逢うことができるのなら死んでしまってもかまわなかった。けれど、貴方に逢った今では、貴方とともに生きていきたいと思った』という意味が込められて入るの」
外した眼鏡を両手で抱き締めるように胸に抱えて、瞳を閉じる。うっとりした様子で言葉を紡いだ。
今となっては、考えられないような恋文だ。
死んでしまってもかまわない。
たった一度、たった一度だけ、真正面から君をこの瞳に映すことができたなら。
そう思うだけで幸せだった。
そう考えるだけで喜ばしかった。
たった一度、たった一度でいいから、一瞬だけでも君の傍に居ることができたのなら、死んでしまってもかまわない。
僕はそれで満足だ。
――……そう思っていたのに。死にたくないと思った。
願いが叶って君の傍へ、君の瞳に僕が映り、僕の瞳に君が映る。
愛しい愛しい君。
守りたいと思った。ひどく不安定で、強がりな君を、守り続けたいと思った。
――死にたくない。ずっと傍で生きていきたい。そう思うようになってしまった。
「すごく素敵な歌でしょう。己の心にとても素直で、相手のことを本当に心から愛していることが、千年以上経った今を生きている私たちにまで伝わってくるの」
ほぅっと息をつく。
数秒、数分。無言の時が続く。
蓮は自分から口を開くべきなのかと悩んだ。
彼女は恐らく歌に浸っている。それだけ大好きな歌だということだろう。
けれど、その思いを蓮は理解することができない。
目の前で歌に浸る彼女を見ても、どれだけ素敵だと説かれても、何が楽しいのか、何が美しいのか、何が素敵なのか、全く理解することができない。
何がおもしろいというのだろう。
ただの言葉じゃないか。
遠い昔に書かれた、今を生きる自分たちには一切関係のない言葉じゃないか。
現代からしたらとんだ時代錯誤の言葉じゃないか。
どうしてそんな言葉に感情移入することができるんだ。
「あっ」
唐突に小さな声をあげた委員長に、蓮の悶々とした感情が打ち切られる。
上手く顔には出していないと思っていたけれど、彼女を卑下した感情が表に出てしまったのだろうかと心配した。
けれど、どうやらそういうわけではないらしい。
対面に座る彼女の瞳は蓮を見てはいなかった。
委員長の視線は彼女自身のすぐ近くの卓上、その置いた手についた細い茶色の革ベルトの時計に落とされている。
「もうこんな時間だわ。ごめんなさい、少し先生に呼ばれているの」
外していたメガネを手慣れた様子でかけ直し、椅子を引いて立ち上がる。
「鍵は私が戻ってきて締めるから、出て行く時は締めなくていいわ。あ、あと」
何か思い出したようにパンっと胸の前で手を打つ。
「陵くん、今井くんと仲が良かったわよね? よかったらこの本を彼に届けてくれないかしら。今日彼が空いているこの時間に持っていくって言ってたんだけど、急遽先生に用事を頼まれてしまって」
委員長が持ってきた本の山の中から三冊本を抜き取る。薄く文庫本よりも一回りほど大きいだけのその本を、委員長は両手で蓮に差し出した。
それぞれの表紙を見れば「わかりやすい百人一首」「現代語で詠む百人一首」「猿でもわかる百人一首」と、全て百人一首に関する本だ。
「今井君も陵くんと同じですごく勉強熱心なのね。百人一首好きの私にとって、とても嬉しいことだわ」
「そ、そうですね」
曖昧な笑顔を見せる。
委員長は少し不思議そうな顔で首を傾げたが、時間ギリギリで焦っていたことを思い出し「よろしく」と一言だけ言い残して慌ただしく蓮の視界から消えていった。
「……」
ふー。
戻ってきた静寂に深いため息を吐く。
「昨日も今日もやかましい娘じゃの」
「……――っっ! びっくりした」
ひょっこりと肩口から出てきた顔にびくりと体を震わせる。
ガタンっと椅子を鳴らして振り返れば、どことなく不思議そうなテレスの顔がある。
「なんじゃ。幽霊を見たような顔をしおって」
いや、似たようなものだろう。
反射的に口から出そうになった言葉を飲み込む。
彼女が突然視界に入ってきたことでずれてしまった椅子を正し座り直す。
机の端に寄せていた本を引き寄せ椅子の前においた本を重ねあわせて背表紙をきちんと正す。
最後に委員長から預かった優に貸し出す本をさらに重ねた。
再度椅子を立ち、両腕にその重ねた本たちを抱える。
とりあえずいくぞ。とテレスに声をかけてその場を後にした。