第十話
「ん……」
開けた窓から吹き込んだ風がそよりと蓮の髪を顔を体を撫でる。
ふわりとカーテンが風を含んで舞う。
差し込んだ光に、蓮は抗議にも似た小さな声を上げた。
ごろりごろりと二、三度掛け布団を巻き込んで寝返りをうつ。
うったところで、日光の眩しさから目を逸らすように掛け布団の中に顔を埋める。
そのまま数秒したところで、何か思い出したかのように一気に跳ね起きた。
「――っっ」
「ようやっと起きたか」
ふわり。カーテンと同じ様に風を含んでなびく髪を優しい手つきで押さえた彼女が言う。
一体いつまで寝るつもりだ。と呆れを含んだ言葉とは反対に、その表情は穏やかだ。
まるで母親が眠っている幼子をみているような、そんな表情。
なびくカーテン。
舞う艶やかな漆黒の髪。
日に透けた肌。
絵画から抜けだしたかのように美しいその光景に、身を起こしたままの体勢で蓮は見惚れてしまう。
「おい、蓮。何を惚けて、おる」
いいながら、テレスは床から数センチ体を浮かせて窓辺から蓮が腰掛けるベッドへと近づく。
『惚けて』と『おる』の間に一秒ほど間を開け、その間に作った拳を蓮へと振り下ろした。
ごんっと鈍い音が二人の鼓膜を震わせる。
「――ってぇぇっ! なにしやがんだ!」
「ふん。惚けておる主が悪い。さっさと支度しろ」
若干涙目で訴える蓮に対し、テレスはわざとらしく盛大に溜息をつく。
言われて、蓮は今まで惚けていた時間が勿体無いとでも言うように布団を投げ捨て、ベッドから立ち上がった。
そのまままっすぐ部屋の中を進み、ベッドとは反対に置いている机へと向かう。
机に備え付けられている本棚には様々な教科の教科書や、ノートがきちんと整理されて並べられていた。
その中から数冊抜き取り、とんとんっと数回机の上で叩いて揃える。
それを備え付けの椅子においていたスクールバックに詰め込んだ。
「何をしておるのじゃ?」
「なにをって、学校に行く準備だよ。急いでんだから話しかけるな。あとあっち向いとけ、着替える」
言いながらパジャマにしていたジャージを脱いでテレスに投げつける。
「何を言っておる! 主は昨日手伝ってくれるというたじゃろ……うぷっ」
投げつけられた服を叩きつけるように地面へ払って、怒鳴る。
その怒鳴り声も、続いて飛んできたズボンによって遮られた。
同じ様に床に投げ捨てて怒鳴るが、蓮はその声を無視して黙々と準備を進める。
壁に掛けてあるハンガーからポロシャツを抜き取り羽織る。
腕を通してボタンを留めて、隣に吊るしていたズボンを手に取り足を通した。
もう一度机に戻り中身を再度確認する。忘れ物がないことをチェックして、ポロシャツと一緒に掛けてあったベストを手に取り、扉へと向かう。と……
「ばっかもん! 我を置いていく気か!」
「は?」
視界に映っていた扉は消え、代わりに視界を占領したのは赤。
手に触れてぐぐっと前へ通せば抵抗を感じながらもゆっくりとその全貌が見えてくる。
例の本だ。その本を差し出しているのは他でもない。テレスだ。
「んでだよっ重い! お前はここで大人しくしてろ!」
「学校とは昨日居たところじゃろ! この本があったところであるのなら奴がそこに居る可能性も大じゃ! それに図書委員とやらの仕事を手伝えといったのも主じゃ!」
「それは……」
まぁ、確かに一理ある。
この本からあいつが出てきたって言うんなら、昨日のこいつみたいに本のすぐ傍に居るだろうし。
いや、でももう学校からは居なくなってるんじゃ?
うちの図書室がいかに厳重で、出入りの時に学生証カードを改札のように専用の機械にかざさなければならない仕組みでも他人に見えないこいつ等には関係ない。
出入りは自由だし、姿を見られることもない。
でももし、あいつもこいつと同じ様に人間の誰かをパートナーにしていたら?
そのパートナーとなる人間は学園の生徒か教師、それと掃除や警備のためにパスを持っている掃除員や警備員しかありえない。
つまり、その人物たちは日中は否が応でも学校に拘束される。
金持ちばかりが通う学校だ。
家の体面やら、親の目やらでサボる生徒なんていない。
皆がみんな家督を継ぐために必死なのだ。
家に相応しい人間になろうと。家から、家の者から必要とされようと。
毎日毎日学校に通って、真面目に授業を受けて。
定期的に行われるテスト。帰ってくる通知表に一喜一憂する。
優秀じゃない人間は必要とされないから。
昔のように必ずしも長男が継ぐわけじゃない。最も優秀なたった一人が、一人だけが家を継ぐ権利を得るのだ。
何も男子だけじゃない。女流の家系なら女が継ぐ。
良妻賢母。ただ世継ぎを生み、育て旦那を支えるだけじゃいけない。
時に旦那の意見に口を出し、正しい道へと導く。
旦那とともに家を支える力が求められる。
そのための判断力。知識、能力。様々なものを身につけなければならないのだ。
そのためのカリキュラムがこの学園では組まれている。
だから男子も女子も皆がみんな必死になる。
家が全てだから。
長男は長男たる誇りから弟たちに負けないように。
次男や三男は家という存在意義を失くさないように。
女子も同じだ。
全ては家のため。強いては自分のため。
必要とされるように。
存在意義を失くしてしまわないように。
そんな一般の人からしたら馬鹿みたいな時代錯誤な考え方が、この学園では当たり前のことだ。
そういう世界で生きてきたから。
そういう世界でしか生きられないから。
そういう世界しか用意されていないから。
ふっと押し返す力を弱めた隙を狙ってテレスは蓮が持つバックに本を押し込む。
「ほら、何をしておる。さっさと行くぞ」
本を手放し自由になった両手で蓮の右手を包み込む。
そのままぎゅっと握って出入口である扉に向かって手を引いた。
さっさと行く?
どこに?
どうして自分は焦ってた?
テレスの言葉に色々らしくないようなことを考えてしまった。
けれど、俺はどこに行こうとしていた?
着替えて……ん? 着替えて?
何に? ――制服に。だ。
「――っ行くぞ」
グイグイと手を引っ張るテレスの手を払って駆け出す。
横目に入った置き時計はもうすぐ八時を指していた。