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一日の授業が終わり、放課後、クラスメイトがめいめい部活なり用事なりに三々五々散っていく。
こちらもご多分に漏れず、家に帰る支度を済ませて席から腰を浮かせかけた瞬間。
「ねえ吉橋、ちょっと」
そんな風に女子に話しかけられたら、こっちとしてはどう思うか。
……緊張する。そんなのは当たり前の話なのに、容姿からして活発な……事実クラスの中心人物の一人である彼女は、こちらの気持ちなど慮ることもなく、平気で言葉を繋いでくる。
いいや、緊張するのもおかしな話だ。事実、少し前までは笑顔で『おう』とでも答えてやれていた。
彼女が変わったわけではない。変わったのは、自分だ。
自分自身というよりは、自分の環境の変化が、自分の行動をこんな風に変質させてしまった。
「カラオケ行こうかなって、暇そうな奴誘ってんだけどさ。アンタはどうする?」
「俺は」
……そこまで言って、口が止まる。
行くのは、無理だ。難しい。行きたくないわけではないが、行けない事情がある。
折角誘ってくれたのに申し訳ないが、断らなければならない。
だからと言って、行かない、とぶっきらぼうに言ってしまえばどうだろう。
こんな奴に声なんかかけなければ良かった、つまらないことをした、そんな風に思われてしまう。いや、それは自分の所為だから仕方ないが、彼女が僅かにでも不快に思う事があれば気の毒だ。
どうしよう。
どうしよう、と、こんな風に考え込んでいるうちに、『じゃあもういいよ』と見限ってくれはしないか。そんな甘えが脳みその奥から浮かんできた。
……だけど、やはりできれば人の気持ちは傷つけたくない。
目の前のクラスメイト、出席番号八番、川北。
彼女は口の悪い所こそあれど、心根の優しい少女であることは知っている。
結局、結論は決まっているのだ。どうしようもない事情で行けない。だから、そのとおり正直に言うしかない。
少なくとも、あまり頭が良くない自分ではそれ以外の選択肢を取るべきではないだろう、そう思った。
「悪いな川北。用事があってさ。ごめんな」
「…………」
自分に出来る限りの対応をしたつもりだが、しかしやはり面白くはないのだろう。
川北は眉根を顰めてこっちを睨んでくる。背が小さいこの女、こんな顔をしても怖くないどころか愛嬌すらあるが、それでも怒っている様子の相手にそんな内心を見せるのは下策であるだろう。
ここは素直に頭を下げるのが正解だ。
ぺこりと下げた頭のつむじに視線の熱を感じて、顔を上げる。未だに椅子に座ったままの自分と、腰に手を当てて見下ろしてくる川北。
季節は秋。急に落ちるのが早くなった日が、斜めに赤く差し込んで、彼女の横頬を照らしている。
どことなく居心地が悪くなって、机の上に両肘を立て、手の甲に顎を乗せてみる。この姿勢は行儀こそ悪いが、落ち着くから好きだった。
「アンタさ、付き合い悪くなったよね。最近」
「……そうかな」
「そうともさ」
……確かにそうだ。
彼女とは、一年生の時はよく一緒に遊んでいた。勿論二人きりで行くなど色気のある話ではないが、誘われればクラスの皆とカラオケに行ったりはしていた。
とぼけたこちらの返事が尚更癇に障ったのだろう、しかし気を遣う性質の彼女は、本心不愉快を感じているであっても、怒ったポーズでしかないよ、とでもいいたげに分かりやすくほっぺたを膨らませる。
……こちらに、精神的な逃げ道を残しておいてくれる。川北は、優しい女だった。
出来た女だ、その上可愛らしいと、俺はこのクラスメイトの事を素直にそう思っていた。
嫌われてはいないのだろう。嫌いな奴なら、自分の事をこんな風に誘ってくることもあるまい。誘われるのも、今回が初めてではない。かといって、男として見られているとも思わなかったが。
恋愛の感覚など知りはしないが、こいつと一緒に喋っているのは楽しかったし、もし彼女になってくれるなどと言ってもらえれば、それこそ年頃の男子らしく飛び上がって喜んだことだろう。
……半年前までの自分ならば。
「忙しいんだよ、これでも。暇そうな顔に見えてもやる事はあるもんさ」
「二年になってからいっつもそうじゃん。何、彼女でもできたの?」
「なんだそれ。そんな色気のある話はねえよ」
「じゃあ、なんでよ」
難しいことを聞くものだ。
こちらだって、出来れば一緒に遊びたいもんなのだ。川北の事を待っているらしいクラスメイトの何人かが、ちらちらこちらを見てきている。彼ら彼女らとも、何度か遊んだ仲である。
行けるものなら、行きたいのだ。本当に。大声で歌って騒いで、ここ最近の鬱憤を晴らしてしまいたい。
だけど、行けない事情があって、そしてその事情がとても言えないものであるなら。
……やはり川北の期待を裏切ることに変わりはない。そして、姉御肌である彼女は、相談すらされないことに傷ついてもいるのだろう。その程度には……それ位には、自分と彼女は付き合いがあった。同じグループで一緒に実験もやったし、宿題を写しあったりもした。
仲のいい、友達なのだ。コイツに限らず、俺はクラスメイトを大切な友人だと思っている。
だからこそ、こっちの事情……自分ですら全く把握できていない程に理不尽な事情に付き合わせるのは憚られた。
「ごめん」
「……もういい!」
何故、付き合いが悪くなったのか。その点について詳しく話せない以上、ただ川北の好意を裏切ってしまうことについて謝るだけのマシーンとなってしまった自分。
ついに見限られてしまった。当然である。当然であるが、それは酷く寂しいものだった。
彼女の艶のあるショートカットが怒りを伴いながらピョンピョン跳ねつつ遠ざかっていくのを見て、自分はひっそりとため息をついた。
……ただ、一つだけ言っておかなければならないことがある。これから遊びに出かけるというのならば、尚更これだけは伝えておかねばならない。
「川北」
ぴたり、と立ち止まった彼女は、先ほどまでの怒りはどこに行ったものか、くるりとにこやかにこちらに振り向いた。
寂しくなって、やっぱり俺も行く、と言うとでも思っているのだろう。言えるものなら言いたい。言えない。
「知ってるだろうけどさ。最近、このあたりでまた行方不明者が出たからな。あまり遅くならないようにしろよ」
結局、川北の期待を二重に裏切ることになってしまった故に、彼女の不機嫌は自乗された。
もう一度ため息をつく。なんでこんなことになってしまったんだろうか。
俺はただ、今までの高校生活がずっと続けばいいと、そう思っていただけなのに。
――――――――――
「ただいま」
世間一般においての話だが、一人暮らしのアパートに帰って来た際に最初にやるべきこととはなんだろうか。
独り言の挨拶をするかしないかは人それぞれだが、それを除けば靴を脱ぐ、ドアのポストを見る、部屋の電気を付けることなどではないだろうか。
半年前まではそうだったのだ。自分は帰ってきたらまずポストを覗いて、靴を脱ぎながら手探りで電気を付けて、催していたならば慌ててトイレに駆け込んでいた。
今は違う。
電気をつける前、ドアを開ける、更にその前。
ドアノブの鍵穴に詰め込んだロウが傷ついていないかを確認する。……大丈夫だった。
足元も見る。大家の無精と自分の無精による砂に紛れて、ほんの僅かに散らした食紅が踏まれていないか確認する。……大丈夫だった。
ドアに耳を当てる。特に変な音はしない。気配もしない。いつもの事だ。この行為は役に立たないが、それでもしないと落ち着かない。
左右を確認する。この階は三部屋しかなく、自分の部屋は真ん中で、両隣の部屋は空き部屋だ。それどころか下の階にも誰もいない。
だけど気になるから確認する。
……特に気になることはなかった。いつもどおりだ。
ドアの下の方に目立たない様に取り付けた南京錠(こちらが鍵代わりだ。ドアノブの鍵は壊れている)を外し、無理矢理開けようとしたときに鳴るように仕込んだ防犯ブザー(気安めでしかないが)をどける。
ここでようやく、我が家に入ることが出来る。随分面倒くさいことだと我ながら呆れるが、必要な事だったから仕方がない。
なんで必要かって? 理由なんかないよ。ただ安心が欲しいだけだよ。
誰もここに来ていないっていう担保があったら、安心だろ? 新聞勧誘も、宗教屋も、大家の性質の悪さを知っているからこのアパートには寄ってこない。
それでも来る奴がいたら、そいつはあんまり素性の良い奴じゃなさそうだろ?
ああ、そうさ。
ここには誰も来ない。大家も、必要なとき以外は顔を出さない。ここは俺以外誰もいない、誰も来ない俺の城だ。たとえ借りものであっても変わりはしない。そんなことは重要ではない。
男には孤独な時間が必要なのさ。それ以外に理由なんかないよ。ココには誰も来ていない。それがいいんだ。
電気をつけて、玄関脇のキッチンを過ぎて、奥に進む。
どたんばたんと、何かが暴れる。
ふすまを開ければ、六畳ほどの広さの部屋。そこに寝転がるのは半年ほど付き合いのある、未だに名前も知らない女。
なあお前。
「んーっ! んーっ!?」
……お前もそう思うだろ?