卑屈な騎士の首輪
自身の顔が整っていたことは自覚している。あくまで過去形だが。
右の額から頬にかけての火傷の跡に触れながら、チャーリー・マクナーテンは小さく溜息をついた。三年前に負った火傷の跡は消えることなく、変色し、皮膚はところどころ皺を寄せたり張っていたり。当然その大きな火傷の跡の範囲にある右目は見えなくなっていた。
体の方にも目を向ける。肩、腹、腰、どこも無残な跡が残る。
マクナーテン男爵の三男として生まれたチャーリーは騎士になる道を選んだ。ゆくゆくは結婚もするが、家は長兄が継ぎ、早急に必要な結婚は次兄が引き受け落ち着いている。しばらくは好きなようにすることが許されていた。
罪悪感はなかった。長兄は家を継ぐことを目標に努力をしてきた人だったので、決して使命を重荷としていなかったし、次兄は政略婚でも真実の愛を生み出し子宝に恵まれている。
それならば、自分は多少好き勝手をしても許されるだろう。そう甘えていた罰が当たったのかもしれない。
三年前の小さな反乱の鎮圧のため戦いに出たチャーリーが相手をした男は、剣の達人でもなければ、屈強な体格だったのでもない。だから油断していた。生半可な気持ちで反乱を起こす者などそうはいないのだ。男は一人でチャーリーに向かいうとうとしたのではなかった。いつの間にか背後に回っていた別の男がチャーリーに油を被せ、次いでそれまでチャーリーを向かい会っていた男がチャーリーに火を投げたのだった。
油を頭からしっかり被ったのではなく、また川の近くだったことが幸いし命に係わることはなかったが、ただれた皮膚は二度と元には戻らないと言われた。
「ご自分に酔っていらっしゃるのかしら?そんなに鏡を見つめて」
小馬鹿にするような調子の声に顔を向けると、先月嫁いで行ったばかりの姉が腕を組んでチャーリーを眺めていた。
男兄弟ばかりの中で唯一の娘であった姉を嫁がせるのは、溺愛していた兄たちや両親をためらわせたが、もういい加減結婚しなければならない歳であること、相手が若い侯爵であること、愛し合っていることを姉がしつこく繰り返せば家族はしぶしぶでも承諾した。
「もう出戻ったのですか」
呆れつつ、上着を着ながら姉に問う。
部屋に入る時にノックくらいすればどうか、など、弟を下僕かなにかと勘違いしている姉に言っても無駄なことはよく知っている。
姉は子供っぽく頬を膨らませ上目づかいになりながら怒る。姉の背が低いのではなく、チャーリーが伸びすぎたせいで見上げられるのは大分前に慣れた。
「失礼な子ね。私と旦那様は昨日も今日も明日も明後日も未来永劫相思相愛よ。何故って運命ですもの!今日だって一緒に来たんですからね」
椅子をすすめる前にさっさと座った姉は、頬杖をついてニヤニヤと笑いながらチャーリーを見つめた。
こんな顔をする時、姉はろくなことを言わない。
そして、どんなにくだらないことを言っても姉に逆らう術をチャーリーは持っていない。この姉は家族全員を味方につけているのだから。おもちゃもお菓子もなにもかも、大人気ない姉に何度奪われたことか。
華奢な身体に幼い顔立ち、カールの入ったブロンド。天使のようだとたたえられる姉の実態が悪魔であることを知るのは、自分と、恋人になったときから姉の尻にしかれている義兄くらいだろう。
「では何故義兄上と離れてここへ来たのですか」
「貴方に縁談を持ってきてあげたのよ」
人差し指を立てた姉は、よくぞ訊いてくれたと言いたげに首を横に傾けた。
「結構です」
「貴方の意見なんて聞いていないわ」
なんという横暴。溜息をついたチャーリーを気にせず、姉は話を進めていく。
「私のお友達なのだけれどねえ、とても気立てのいい子よ。歳は私と同じ」
「姉上のご友人で、まだ独り身なのですか?」
チャーリーは今年で二十四。姉と同い年ということはその女性はチャーリーの一つ上になるのだが、こう言っては何だが嫁ぎ遅れと言われる頃の年だろう。
「そう。つい最近婚約者とお別れしたらしくてね」
「何故?」
「私からは言えないわよ。彼女の名誉にかかわる問題なのだから、気安く口にできないわ」
「それは…そうですね」
しかし、姉のこの口調からして女性の方に非があったようではなさそうだった。
「お兄様たちに聞いたわよ。貴方、今日から七日もお休みをいただいたそうじゃないの。これはいい機会だわ。休みの間に一度は彼女に会いなさいね」
命令口調の姉はチャーリーに拒否することを許す気はさらさらないように見える。
休暇を貰えたのは、上司の気遣いだった。この三年間、仕事と稽古だけの毎日。他に何をしていたか全く思い出せない。休日も返上して率先して仕事をするチャーリーに、上司は時々まとめた休暇をよこしてくれる。
休んでもすることがない。三年前から、周囲の自分に対する態度は明らかに変わった。友人が減ったり、上司に気味悪がられたりすることはなかった。家族も普段通りに接する。けれども、容姿のためにちやほやしていた人物も少なからずいたのだ。初対面の人なら大抵は顔を歪める。言い寄ってきていた女性は誰も疎遠になった。酷い時は顔を合わせただけで悲鳴を上げる者もある。
そのうちするが、結婚はのんびり考えればいい。いつでもできる。などとはもう言えなくなった。自分の容姿以外を見てくれていた女性がいなかったことに少なからずショックを受けた。
ならばこの際仕事に生きよう。と決心をしたというのに今回の姉の話。
「折角ですが、私はこのように見れた容姿をしていません。相手方を困らせてしまうでしょう」
「そうなの?私の言うことが聞けないの?」
有無を言わさぬ姉の笑みに、思わず凍り付く。
『私の言うことが聞けないの?』という姉の問いに対し、決して首を縦に振ってはいけない。そうすると姉は悲しそうな顔を作り、長兄に泣きつくのだ。『チャーリーが私に意地悪をするのよ!』と。それによって理不尽に反省をするよう言いつけられるのだからたまったものではない。
「……ご友人の判断に任せます」
あちらも理不尽な我が家の姉に振り回されているのかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
***
「はじめまして、サー・チャーリー」
綺麗な挨拶をした女性は、小さく微笑んでチャーリーを見上げた。折れてしまうのではないかと思うほど華奢な身体に、肩につくよりやや短いところで切りそろえられた黒い髪。深い青の瞳は、優しげに細められた。
とても美しい、というわけではなかった。ただ、妙に目が離せなくなる、儚げで、どこか愛らしい女性、という印象。
「はじめまして、レディ・ステラ」
姉に背を叩かれ自分も慌てて挨拶を返した。
明日はうちへ来るように、と姉に言われ、休日四日目に侯爵邸を訪れると、今日は友人もいるので粗相のないようにと注意を受けた。まさかと問いただせば、姉は悪びれもせず、話したばかりの縁談の話だと言う。
義兄は仕事のため留守。ここは姉のやりたいほうだいできる空間と化した。
姉の友人というステラ・オーメロッド子爵令嬢は、姉と親しいというのが信じられないほど大人しい雰囲気を持っていた。
しかし雰囲気に騙されてはいけない。女性を雰囲気で判断してはいけないのは、姉を見て知っていることだ。
姉はチャーリーとステラを庭に放り出すと、自分は邪魔だろうと言ってすぐに屋敷の中に引っ込んでいった。
ここまでしたら最後まで責任を持て!と言いたいのをぐっとこらえる。ひとえに姉が怖いためである。
「あの……」
姉がいなくなってすぐ、ステラがチャーリーを見上げ、申し訳なさそうに声をかけて来た。
「こんなことになってしまってごめんなさい。シャナ……貴方のお姉さまは私を励まそうとしてくださっているだけなのです。ですから、どうぞ、お気になさらず縁談は断っていただいて構いません」
「ああ……やはり姉が勝手に暴走しただけでしたか」
どうも、このご令嬢は結婚に対しがつがつとしている風はない。聞くところによると彼女は兄が一人、姉が二人、弟が二人いるらしく、結婚をしなくてもさして問題はないのだという。
「謝らなければならないのはこちらの方です。姉が貴女に無理強いしたのでしょう?不快な思いをさせて申し訳ない」
あの姉の弟が、まさかこんな欠陥品とは思ってもいなかっただろう。初対面で顔を歪めなかった彼女も、自分のこの見た目に本音では近づきたくないに違いない。にも関わらず、自分を不快にさせないために、腕に手をそえ歩いてくれる。これ以上は彼女に申し訳なかった。
「不快……ですか……?そんなことはありません。貴女のお姉さまとの友情に私はとても救われましたし、シャナのご自慢の弟君にお目にかかれたのはとても光栄です」
「しかしこのような見た目では……いや、失礼……」
ああ、馬鹿なことを言った。
自分が口に出して言ってしまえば、せっかく彼女が気遣い触れなかったことに触れさせてしまう。これまでの経験でそれが一番やってはいけないことだとわかっていた。
自分が、自分の火傷のことを指摘すると、相手は決まって気まずそうにして離れていく。苦笑する。困らせてしまう。
「見た目……、貴方の顔にある痕のことをおっしゃっているのでしょうか」
「…っ、ええ…」
「騎士様の勇敢さを見ているようですね。シャナに聞きました。国のために負った負傷なのでしょう?とても、私にはとても美しく見えますが」
首をかしげ微笑むステラに、チャーリーは感動するよりも理解に苦しんだ。このただれた皮膚を美しいとは、彼女の感覚は少々ずれているのかもしれない。
「私の叔父も、昔、騎士団にいたのですが、腕や頬に傷がたくさんあったのです。手のひらはごつごつしていて、子供の頃はその手に撫でられると妙に落ち着きました。でこぼこした傷跡は、叔父の勇敢な姿を想像させて、私はそれがとても魅力的に見えたのです」
「そうですか……。しかし私は、一方的に攻撃を受け無様に怪我を負わされただけ。勇敢という言葉は恐れ多い」
ステラはそっと首を振った。
「いいえ。そうだとしても、貴方はそれでも騎士様ではありませんか。怪我をしても、恐怖を知っても、貴方はまだ、騎士様でいらっしゃる。それはとてもとても、勇敢ではありませんか」
躊躇いつつ手を伸ばしてきたステラは、そっと、火傷の痕の残るチャーリーの頬に触れた。
「これは、貴方の勇気の証ではありませんか」
鼻の奥がつんとして、何故だか少し、泣きたくなった。
***
上司や気心の知れた同僚たちが、近頃妙に楽しそうにしている。
なぜかと、騎士団に入った当時から特に親しい同僚に訪ねると、彼は嬉しそうに答えた。
「それは、君。君があんまり、面白いからに決まっているじゃないか」
「面白い?私がか?」
「まったく君は、その年で一切女の影がないから上官方も先輩方も僕らも後輩たちも、随分心配していたからね。それが最近の君とくると、十代の若者のような様子じゃないか」
騎士団に入団しているものは上流階級のものが多い。そのため既婚者の割合が大変高く、今年で二十五になるにも関わらず婚約もしていないチャーリーは特殊だった。
それが、近頃は曖昧な関係ながらも気になる女性との文通が始まり、自分の中で様々な変化が起きたように感じる。きちんと将来を見据えた恋愛など初めてで少々の戸惑いもあるが。
同僚曰く、この頃のチャーリーは溜息と空を見上げる回数が増えたという。それが可笑しくて可笑しくて他の仲間とクスクス笑っているのだと。
さっぱり自覚のないチャーリーには改善のしようもない。
「団長が、明日、明後日と君に休暇をくださるそうだよ」
「二日も?それは駄目だ。ただでさえ七日も休暇をもらったばかりだぞ」
「二日増えたって変わりやしないよ。それだけ休んでもまだ足りないくらい、このところの君はよく働いていたんだ。もっともその代り、休みがあければばんばん働いてもらうんだろうけれど。団長も考えてくださったんだよ。遅れて来た君の春を逃すわけにはいかないと」
結局、その後団長に呼び出され行ってみると同僚の言った通り休暇を与えると言われた。その時の団長の顔もにやついていた。
笑いの種にされるのは嬉しいことではないが、こうして気にかけてもらうと職場に恵まれたとつくづく思う。
翌日、先に伝えず訪ねるのは失礼ではないか、と悶々としていると、事情を知る友人が背中を押してくれた。曰く、「女性はサプライズが好きな生き物だ」とのことだ。
しかし相手は子爵の令嬢。子爵の屋敷の前まで来てまた悶々としていると、後ろから肩を叩かれた。
「お久しぶりです、サー・チャーリー」
にこりと笑んだステラは買い物帰りのようで、荷物を持った使用人を連れていた。使用人はチャーリーの顔を見るなり目を背けたが、ステラを前にしたチャーリーにはもう気にならなかった。
「お久しぶりです、レディ・ステラ。お買い物ですか?」
「ええ。お散歩をしたくって、我が家の料理人の買い物にくっついて行ったのです。貴方は何故こちらへ?」
からかう風に笑うステラは、もう察しているようだった。それが無性に恥ずかしく思えたチャーリーは一度彼女から目を逸らして答えた。
「貴女に会いに」
うふふ、と笑ったステラは、少し外を歩いてきますと使用人に言いつけ、チャーリーの腕に手を添えた。
あれから数度二人で会ったり姉の家に二人そろって呼ばれたが、彼女はいつもこうして腕に手を添える。
屋敷の周りは特に何もなく、緑が豊かなだけ。それでも彼女との会話は尽きることなく楽しかった。
「ところで、レディ・ステラ」
他愛のない会話をいったん打ち切り、チャーリーは呼吸を整えた。次会ったら言おう、次こそは。と、いつも決心しては達成できなかった目標を、今日こそはと意を決した。
「私の、恋人になってはいただけませんか?」
少しだけ目を見開かせたステラは、やがて小さく声をもらしながら笑った。
「私は、気のない殿方と何度も二人きりになるほど簡単な女だと思われていたのでしょうか」
「貴女はやはり姉の友人ですね。はっきり、イエスと言ってくださいませんか。でなければ、安心して喜べない」
「勿論、答えはイエスですわ」
***
婚約、結婚となるまで時間はかからなかった。なにせステラはもう二十五。早く結婚しなければ、これ以上彼女を嫁ぎ遅れと言われるのも我慢ならなかったし、子供を作るにも都合がある。
一年のうちに婚約にこぎつけ、もうじき結婚式を挙げる。
ステラの家を訪れたチャーリーは、そろそろ聞かなくてはいけなことをまとめて、順番に、訊ねていた。
「ステラ、私は貴女に、これから嫌な思いをさせる質問をします。けれど貴女を大切にするには、隠し事のない夫婦になりたいのです。わかってくれますか?」
「ええ、なんなりと。なんでもお答えいたします」
ニコニコ笑うステラは、笑みを絶やすことなくチャーリーの手に自分の手を重ねた。
「では……、まず、貴女は、なぜ、以前の婚約を破棄したのですか?」
これについてはあちこちで様々な噂を聞く。だがそれも微妙に違っていて、どれが真実かはわからない。それになにより、ステラ本人の口から聞きたかった。
「あら。そんなこと…。相手の方に、他に良い人ができたからなかったことにしてほしいと言われただけですわ」
「だけ……」
「ええ。だって、直接お会いしたことは二度ほどでしたから、特に傷ついたということもありませんでした。ただ、これで嫁ぎ遅れだなあとぼんやり思っていて。兄弟が沢山いるのでいっそ独り身を貫こうと考えていたのですが、シャナに止められてしまいました。そうして、貴方と出会ったのです。今思うと、これはとても運命的ですね。色々な失敗や誤算が繋がって、こんなに素敵な方を射止められたのですから」
悪戯っぽく笑ったステラは、火傷の痕のある頬とない頬、両方に一度ずつキスをした。
「ですから、私が愛しているのは貴方だけですよ」
たまらなくなって抱きしめると、ステラの笑い声が耳元で聞こえた。
「本当に、私でいいのですか。気持ち悪くはないのですか」
訊くのが怖かった質問を、恐る恐るする。本当は、少しでも思っているのではないだろうか。思うことを責めてはいけない。責めるのではない。ただ、知りたいだけ。たとえ彼女が本当は気持ち悪いと言っても、今更離してやることもできないが。
チャーリーの髪を撫でるステラが、囁くように耳元で話す。
「正直なことを言っても、怒りませんか?」
「ええ。決して怒りません」
チャーリーの返事を確認すると、ステラはチャーリーの顔の火傷の痕に唇を這わせた。指では、チャーリーの体にある火傷の痕を服の上からなぞった。
ぞくぞくと震えていると、そんなチャーリーを見上げ、ステラは目を細めた。
「貴方の火傷の痕を、時々、首輪のようだと思っていたのです」
意味の分からない言葉にチャーリーが首を傾げると、ステラはまた火傷に唇を這わせた。
「貴方の勇敢さを表すものだと言ったのに、貴方を慕うようになってから、時々、これは私にとっては貴方につけられた首輪のようだと思っていたのです。この痕がある限り、貴方は自分に劣等感を抱える。他の女性に近づこうとしない。貴方が、そうやって柔らかな表情で笑って、話して、触れてくれるのは私だけ。貴方は私だけを見てくれると」
軽蔑しますか?とステラは悲しそうに笑って訊く。
チャーリーは首をふった。
「構いません。首輪でも、なんでも。これのおかげで貴女が一層愛してくれるというのなら、悪い気はしません。この痕は私には忌々しいものでした。ですが貴女が勇気の証だと言ってくださったとき、私は騎士である自分を誇らしく思えました。そして今、貴女が、私の愛を信じるためのものとしてこれを利用してくれるのなら、私はもう二度と自分のこの見た目を恥に思うことはできません」
腕の中にいる彼女を力いっぱい抱きしめると、苦しい、と怒られてしまった。けれど怒っている間も、彼女は笑顔を絶やさない。
「チャーリー、私は今とてもとても幸せです。ですけれど、貴方と夫婦になったらきっともっと幸せではないのかと思います。どうでしょうか?」
「ええ。必ず、貴方を世界で一番幸せな女性にします。愛しいステラ」
あの悪魔のような姉も、たまには天使のようなことをする。
もとはといえば、自分とステラを出会わせたのはステラを励ますためでもあり、自分を励ますためでもあったのかもしれない。
次に姉が実家に帰ってくる日には、姉の好きな菓子を用意しておいてやろう。
そんなことを考えながら、チャーリーは世界で一番大切な女性を強く強く抱きしめた。