07
諭吉様事件の日から、私達はとてもぎくしゃくした関係になってしまった。
あれから、頭を冷やして帰ってきたアルベルは、とても真摯に謝罪をしてくれた。
ケーキというお詫びの品までつけて。
本音を言ってしまえば、アルベルには早く出て行って欲しかったのだが、それだけは勘弁してくれと泣きつかれ、結局未だに住まいを共にしている。
最初は数日だけ、なんて言っていたのに、気がつけば一ヶ月も一緒に過ごす羽目になっていた。
結局、バイトは、辞めてしまった。
アルベルは私に対して引け目を感じていたので、あのまま約束を反故にしてバイトを続けても良かったのだが、出掛ける度に、暗く淀んだ恨みがましい目で見られると、左手首が痛む気がして怖かったのだ。
あの日、部屋にあった諭吉様の山は消えてしまったが、アルベルが魔法でどこかへ片付けているのだろう。
彼の懐から何人も諭吉様が出てくるのは、きっと、そのせいだ。
結局、私は、アルベルのお金に頼って生きていく結果となってしまった。
それを悔しいと思う気持ちも、もちろんあったが、それよりも、学校と家の往復だけで済むことが想像以上に楽で、最早バイトを再び始めようという気持ちなど、とうに潰えていた。
「あ、カエデ…。これ、落ちてたよ」
なんだろう、と手を差し出せば、アルベルの手から落ちてきたのはネックレスだった。
アルベルは私を怖がらせないようにか、指先さえも触れないように気を付けてくれている。
最初は当然だと思っていたが、ここまで恐縮されると、こちらが悪いように思えてしまう。
過度なスキンシップは、当然のように無くなっていた。
そんな彼から渡されたのは、金色の小さなハート型の中心に、ダイヤとは程遠い、ただのガラスが嵌め込まれたもの。
元カレに貰ったものだ。
別れてから随分とぞんざいに扱っていたので、その辺に転がって消えたのにすら気付かなかったのだろう。
憐れなものだ。
「あー、ありがと。でも、もういらないかな?」
「どうして?」
「元カレから貰ったものだし」
浮気男からの贈り物なんて、縁起が悪い。
わざわざ渡してくれたアルベルには申し訳ないが、そのままゴミ箱に投げ捨てた。
元カレ、と言った瞬間にアルベルの目が笑わなくなったのに気付いたが、私がそのまま破棄したのが意外だったのか、今は目を丸くしている。
その様子が可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
彼を相手に、随分と久しぶりに声を上げて笑った気がする。
なんでもかんでも表情に出るアルベルは、まるで子供のようだ。
「なんて顔してるの」
「だって…元カレって、昔の恋人のことでしょ?」
「そうよ」
「捨てていいの?」
「浮気男から貰ったものなんて、いらない」
あれだけキツイことを言ったにも関わらず、アルベルは未だに私に好意を持ってくれているらしい。
元カレを否定する言葉を吐けば、吐くほど、目に見えて彼の表情が明るくなった。
「カエデの元カレって、どんな人?」
「思い出したくもないけど…。人のこと、可愛げがないって罵って、猫撫で声で甘えるような女に乗り換えた最低野郎」
「カエデはこんなに可愛いのに。見る目無いね」
「お世辞でも嬉しいよ。ありがとう」
無難にかわせば、アルベルは苦しそうな表情をする。
分かっているのだ、彼が本気で言っていることくらい。
けれども、私には、それを受け入れる度量はない。
アルベルが左手首に触れようとすれば怖いし、近づかれれば、条件反射で身を離すだろう。
「僕も、カエデの中で最低野郎の一人になるのかな…」
寂しそうに呟かれた言葉が、深く私の胸を抉る。
ダメだ、絆されるなと喚く自分がいる一方で、もうそろそろ許してあげなさい、と囁く自分がいる。
私はアルベルになんと答えて良いか分からず、口ごもってしまった。
最低、と言えば、この男は最低なのだ。
物理的な痛みを私に与えた点を取り上げるのならば、それは暴力を振るったのと同義だろう。
その手段が、魔法によるものだっただけで。
自分の思い通りにいかなかった事柄に対し、力でねじ伏せようとしたのだ。
そういう意味では、元カレは決して私に拳を振るったことは無かった。
ただ、言葉による精神的な痛みは、元カレに与えられた傷の方が深かった。
アルベルは、決して私を罵らない。
甘言を囁き、私の気を引こうと必死になっている。
アルベルの暴走の結果が、愛情によるものだとしたら、私は、この白銀の髪の男を、許せるのだろうか。
癇癪を起こし、暴力に訴えたこの男を。
数えてみれば、優しくしてもらったり、助けてもらったりした事柄の方が多いのだ。
アルベルが、私に対して怒りをぶつけたのは、たった一度だけ。
天秤にかければ、彼が温厚で優しい人間だという方向に傾くのは一目瞭然だった。
それでも、そのたった一度の間違いが、私の中の恐怖を煽る。
「僕と元カレだったら、どっちが好き?」
それは、非常に難しい質問だった。
アルベルは、私が散々元カレを罵ったことから、自分の方が好かれていると確信して問いかけてきたのだろう。
ここで、元カレの方だなどと答えて、また左手を触られるようなことになったら耐え切れない。
「アルベルだよ」
にっこりと笑って、口先を動かす。
アルベルは私の言葉を信じたのか、心底嬉しそうな表情を浮かべた。
「そっか、うん、良かった」
純粋に信じているアルベルには悪いが、どっちもどっちだ。
自己保身のための嘘に騙されて、喜んでいる姿はどこか滑稽にも見えた。
あぁ、私は、こんな性格だから可愛げが無いと言われるのだ。
「カエデはここではしがらみが多過ぎるのかもしれないね」
「突然、なに?」
「ううん。こっちの世界に来たら、良いかもって思っただけ」
「前は嫌な顔してたくせに」
忘れはしない。
そちらの世界に行けば、魔法が使えるのかと問うた時に、アルベルは私が別段行きたくないと言えば、胸を撫で下ろしていた。
思い当たる節があったのか、本人も苦笑している。
「あの時は、ここで一緒にいるだけで満足出来てたんだよ」
「今は?」
「向こうで、一緒にいたい」
「世界が違うだけで、やってることは同じじゃない」
そう言った私に、アルベルは含み笑いをしただけで終わらせる。
答えないところを見ると、何か疚しいことでも考えているのだろうか。
「元カレが、不幸になったら嬉しい?」
先程から、脈絡のない話ばかりをする。
不思議に思いつつも、この質問だけは素直に答えておいた。
「私より、幸せにはなって欲しくない」
例えば、「おあしす」のとんかつに至福の時を感じることすら許したくないのだ。
そう言っておけば、アルベルは笑った。
「それって、何が何でも不幸になって欲しいんだね」
「そうかも」
瞼に浮かぶ、ぼやけた輪郭の元カレの顔。
キスの感触は愚か、相手の顔すらまともに覚えていないなんて、酷いどころの騒ぎではない。
本当に付き合っていたのかすら疑わしいくらいだ。
自嘲を浮かべる私の隣で、ネックレスを投げ入れた屑籠をアルベルがじっと見つめていたことなど、気が付きやしなかった。