06
開いた口が塞がらないとは、まさにこういう時に使う言葉なのだろう。
部屋いっぱいにうず高く積まれた諭吉様の山に、私は持っていた鞄を思わず取り落としてしまった。
東京ドームの収容人数と同じくらいの諭吉様が目の前にいるのではないだろうか。
私の背丈はもちろん、隣に立っているアルベルの背丈でさえ抜いてしまっている。
「こ、こ、こ…」
鶏が鳴いているような声しか出なかった。
アルベルは、そんな私を見ながら、にっこりと笑みを浮かべている。
「バイト、辞めるよね?」
正直、これだけの金額があれば、一生遊んで暮らせるのではないかと思う。
どう見ても、30年分なんて可愛い諭吉様の人数ではない。
アルベルが本当にこちらの世界の価値観を持っているのか、疑問になってきた。
きっと、私がここで頷かなければ、目の前の男の機嫌を損ねてしまうのだろうが、どうしても首を縦に振ることができない。
呆然としたまま、食い入るように札束の山を見つめていた。
「カエデ、バイトは?」
「む、無理…」
何とか捻り出せたのは、どうしようもない否定の言葉だった。
宝くじを当てたら、きっと嬉しくて仕方ないんだろうなぁ、とか、目の前にお金が沢山湧いて出てきたら、喜びで気が狂うんではないかと想像していた。
けれども、現実では冷や汗が吹き出し、早くこの大金を目に見えないところにやってくれ、と切に願っている次第だ。
喜びなど微塵もない。ただ、恐怖が湧き上がるだけだった。
アルベルは、私の否定が気に入らなかったのか、形の良い眉を吊り上げて黙りこんでいる。
そもそも、約束したのは数日前のことだ。
このところ、帰ってくるのも遅いし、どこぞやで一生懸命バイトでもしているのだろうかと微笑ましく思っていたというのに。
こんなにも早く、どうやってこれほどの大金を用意したのだろうか?
見たところ、洋服を飾っていた装飾品は減っているが、全て無くなっている訳ではない。
一番最初に、私に放り投げたルビーのブローチは未だに同じ場所に鎮座している。
「ア、アルベル…これ、どうやって…?」
「なぁに?お金の出処が心配なの?」
「だ、だって…た、た、大金…」
「それなら、安心して大丈夫だよ。物を売って手に入れたお金だから」
「何、売ったの?こんな、こんな…」
「装飾品と、あと、少しだけ魔法の掛かったものを。この世界には無い、珍しいものだから、とても高く売れたよ」
これでもう心配はないでしょ、とばかりに、アルベルが微笑む。
残念ながら、心配だらけすぎて、私は今にも倒れそうなのだが。
だいたい、魔法の掛かったものなんて売って、大丈夫なのだろうか。
新聞沙汰になっても、私は責任なぞ取れない。
「カエデ?」
アルベルが、私の左手を取りながら、顔を覗きこんでくる。
あまりにも近い距離に、仰け反ったところを、抱き込まれて逃げられない。
私の左手を口元に近づけ、アルベルが畳み掛けるように首を傾げる。
「バイト、辞めてくれないの?」
吐息が手にかかり、くすぐったい。
身を捩れば、じゃれるようにアルベルが笑って私を抑えこむ。
きっと、彼は、私が了承すると思っているのだろう。
いくら装飾品などを高く売ったからと言って、これだけの金銭を集めるその労力はタダではないのだ。
アルベルが一生懸命、日中に商人と交渉して売り捌いている姿を想像すると涙がちょちょぎれるが、それでも、私は素直に頷けない。
「…ごめん。こんな大金、やっぱり受け取れない」
今度こそ、はっきりと私は約束を破る言葉を口にする。
アルベルは行き過ぎていたものの、きちんと30年分、いや、一生分の金銭を用意したのだ。
いくら出処がしっかりしていようが、なんだろうが、普通の人間が手にするはずのない額を目の前にして怯んで手が出せないのは私の方である。
ただ、ひたすらに謝りながら、受け取りを拒否することしかできなかった。
いつもなら、私の言葉にはすぐ返事をくれるアルベルが黙りこむ。
しばらくの沈黙の後、紡がれた声は普段の彼とは違い、随分と艶やかで険が篭った声だった。
「そう…約束、破るんだ」
するり、とアルベルの指先が手首の上を滑る。
そして、その柔らかな唇が、蔦のような模様の上に触れた。
何をしているのかと、訝しんだその時、どくり、と心臓が嫌な音を立てる。
「うぁ…」
左手が、熱い。
アルベルがキスを落としたところから、蝕まれるように熱が広がっていく。
思わず左手を抑えて身体を折り曲げれば、アルベルに抱きつくような形になってしまったが、羞恥心を感じる余裕は無かった。
冷や汗が止まらず、一瞬にして背中がぐっしょりと濡れてしまう。
左手首が、千切れてしまいそうなほどに痛んだ。
「あ、アルベル…!アルベル、やだ…痛い!」
「本当はね、ゆっくり育てれば痛くないんだよ。でも、カエデが約束破るから、ちょっとだけ僕が育つ手助けしてあげたんだ」
何が育つのかなどと、疑問に思う暇もない。
アルベルの美しいと思っていたアイスブルーの瞳が、暗く淀んでいるように見えて、思わず目を反らしてしまう。
人が痛みに苦しんでいるというのに、彼の口元が弓なりに弧を描いているように見えて、悪寒が走った。
左腕の中で、皮膚の下で、何かが蠢いているような気がして気持ち悪い。
痛みと熱さを少しでも和らげようと、アルベルのローブに爪を立てるように縋りつく。
「止めて、お願い…っ!」
「バイトは?」
「辞める!辞めるからっ!」
痛みから逃れるために、気がつけばそう口にしていた。
アルベルは嬉しそうに目を細めると、私の左手首に指を滑らせる。
途端、先程までの苦しみは何だったのかと疑うくらいに綺麗さっぱり痛みも熱さも消えてしまった。
けれども、額に浮かぶ汗が、あれは、幻などではなかったのだと訴えている。
「大丈夫?そんなに、痛かった?」
アルベルの手が、汗を拭おうとしたのか額に触れる。
触れられたところから、また痛みと熱が広がるのではないかと恐怖した私は、その手を思い切り振り払ってしまった。
「さ、触らないで…」
私は今、はっきりとアルベル・シャトーという男に対して恐れを抱いていた。
柔和な笑みを浮かべているはずの表情が、人間離れした美貌のせいで、不気味に見える。
極限状態の中で、この男を受け入れるなど無理な相談だった。
「あっち行って」
完璧な拒絶の言葉に、アルベルの顔色が目に見えて真っ青になる。
自分の仕出かしたことが、今更になって不味いと気がついたようだった。
「ごめん、ごめんね、カエデ。僕、バイト辞めてくれると思ってたのに、頷いてくれないからって、酷いことしすぎたね。ごめんね」
「近づかないで!」
頬に触れようと伸びてきた手が、びくりと痙攣して止まる。
涙が零れそうなほどに、見開かれた瞳に、胸が痛んだが、とにかく今は側にいたくなかった。
「私、アルベルが怖い」
はっきりとそう告げれば、アルベルの手が力無く下へと落ちていく。
呆然と、傷ついた表情で私をしばらく見つめた後、本当にごめん、と蚊の泣くような声で謝罪が聞こえた。
「頭、冷やしてくる」
アルベルが、脇を通り抜けて行く。
扉が開いてから、閉まる音がするまで、私は一切振り向くことはしなかった。
最近は、少し、アルベルに気を許していたのに。
危害を加えてくるような男ではないと、安心していたのに。
悔しさで、目の前が滲む。
もしかしたら、信頼できるかもしれない、両親が亡くなってから、頑なに閉ざしていた心を開いて、笑い合える人が出来たかもしれない、と期待していた自分が馬鹿らしい。
ぼやけた視界の先、私の左手首に巻き付いた蔦の刺青が、少し大きくなっているように見えた。