if. アルベルとカエデが同じ世界で幼馴染だったら
完全にパラレルワールドのお話です。
アルベルは、母親に言いつけられた水汲みのために、井戸までの道のりを一生懸命に歩いていた。
身体の半分ほどもある大きな桶を、引きずるようにして、前へ前へと進む。
空であるにも関わらず、これほどまでに重いのだ。
水で一杯になった帰り道のことを考えると、涙が滲んでくる。
それでも、いつの日か褒めて貰うことを夢見て、アルベルは文句1つ零すことなく、我慢強く仕事をこなすのだ。
寒さでかじかんだ手の痛みを堪え、地面に目を落とし、俯いて歩いている時だった。
「大丈夫?」
持っていた桶が、ふと軽くなる。
驚いて顔を上げれば、隣に黒髪に黒目の少女がいた。
同じくらいの背丈だが、持ち手を握るその手は一回りほど小さい。
アルベル程ではないが、それなりに粗末な服に身を包み、じっとこちらを見つめていた。
「井戸まで行くの?」
「う、うん…」
どんな罵り言葉が出てくるだろうか。
アルベルはびくびくしながら、少女を伺う。
けれども、早く行こうとばかりに桶を引っ張るだけで、罵声が飛び出てくることない。
その様子に安心するよりも先に、より強い恐怖が沸いた。
「あ、あの!」
ぐ、と力を込めて足を止める。
それに気付いた少女が、小さく振り返った。
「どうしたの?」
「えっと、その、僕のこと…」
ごくり、と唾を飲み込んでから、蚊の鳴くような声で呟いた。
「化け物って、言わないの?」
少女は意味が分からなかったと言うように、首を傾げる。
「あなた、化け物なの?」
「ち、ちが…」
「違うの?」
「違う、けど、みんな…僕のことを化け物って言うから…」
尻すぼみになって消えた言葉に、少女は小さく笑った。
誰かに笑顔を向けられたことなど無かったアルベルは、驚きのあまり一歩後ずさってしまう。
「どうして化け物なの?普通の人間じゃないの?」
「ぼ、僕が…吹雪を起こすって…みんな言うから…」
アルベルはじっと下を向く。
言ってから、後悔をしたのだ。
せっかく、話しかけてくれた人なのに、わざわざ自分から化け物だなどと言う必要も無かったのではないかと。
もしかしたら、目の前の少女も途端に眉を顰めて、罵声を浴びせてくるかもしれない。
けれども、びくびくと返事を待つアルベルの予想は、見事に裏切られる。
「すごいじゃない。雪、降らせてみて!雪遊びしよう!」
ぎゅ、と持ち手ごと手を握られて、アルベルは慄く。
ぶんぶんと首を横に振って、慌てて否定した。
「で、できない!やり方なんて、分からないよ!」
「どうして?吹雪を起こせるんでしょう?」
「みんなが言ってるだけで、僕はどうやるかなんて、知らない」
「なーんだ、じゃぁ、やっぱり普通の人間じゃない」
つまんないの、と言いながら、少女は再び歩き始める。
アルベルは置いていかれないように、早足にその後ろをついていく。
不思議な女の子だ、とその後姿を見ながら首を傾げる。
今まで、この村の中で会ったことがない。
せめて、名前を知りたい、と思ったけれども、不用意なことを聞けば、怒られるかもしれない。
アルベルには話しかける勇気もなく、黙って歩くことしかできなかった。
そして、とうとう、何も言い出せないまま、井戸のある場所まで着いてしまう。
2人で釣瓶を落とし、ロープを引っ張って水を汲み出す。
桶がいっぱいになったところで、再び一緒に持ち上げた。
先程よりも、ずっしりとした重みが手にかかる。
「重いね」
正直な感想を零した少女に、アルベルはうん、と頷く。
「そういえば、あなた、名前はなんていうの?」
少女の質問に、とくり、と胸が高鳴る。
自分が名乗れば、少女の名前も聞きやすい。
アルベルは頬を上気させながら口早に告げた。
「アルベル。アルベルって言うんだ。君は?」
「私はカエデ。つい最近、この村に来たばっかりなの」
「引っ越し?」
「ううん。お父さんとお母さんが死んじゃって、親戚に引き取られたの」
「えっ」
こういう時、アルベルは何と言葉を掛けるべきか分からなかった。
ついつい黙りこんでしまったが、カエデは気にした様子は見せない。
「おばさん、私のこと、あんまり良く思ってないみたい。だから、外でぶらぶらしてたの」
「じゃぁ、明日も会える?」
「用事を言いつけられなければね」
アルベルは喜びを抑えきれず、思わず口元を緩める。
出会った当初感じていた恐怖は、今では綺麗さっぱり消え去っていた。
これが、幼い日、アルベルとカエデの最初の邂逅だった。
◆
いつしか、2人は、お互いが心の支えになっていった。
言いつけられる用事の合間を縫っては、顔を合わせ、慰め合う。
ただ並んでぼーっと座っているだけだったり、野の花を摘んで遊んだり、木に登ってみたりと、様々なことをした。
「どうして、みんな、アルベルのことを化け物だって言うんだろ」
「僕が知りたいよ。まぁ、この髪色が原因なんだろうけど」
はぁ、と深い溜息をついたアルベルの髪をカエデが引っ張る。
痛みは無いが、頭が小さく傾いた。
「綺麗だと思うけどなぁ」
「カエデがそう言ってくれるなら、それでいいや」
「魔法が使えれば、染めることも出来るはずなのに」
アルベルは目を瞬いて、カエデを見つめる。
驚きから、しばらく無言になってしまった。
「どうしたの?」
「なんで、そんなこと知ってるの?もしかして、カエデは以前、学校に通ってた?」
魔法に関する知識は、通常では得ることは出来ない。
書物は高く、手に入れることが非常に難しい。
加えて、学校に行けるのは、貴族の身分だけだ。
もしかすると、カエデは元は貴族の子供だったのかもしれない、と今更知る事実にアルベルは口元を歪めた。
それに気付いたカエデが、くすりと笑う。
「違うよ。ほら、あの建物見える?」
そう言って、カエデが指し示したのは、この村にある唯一の集会場だ。
アルベルは、それがどうしたのか、と疑問符を浮かべる。
「あそこでね、勉強をしている人たちがいるの」
「あぁ…村長の息子たちか」
「そうよ。それでね、私、こっそり窓から覗いてるの」
まるで、イタズラを提案する時のように、カエデは声を潜める。
「知らないことを、たくさん教えてくれるんだ。勉強して、知識を身につけるって、楽しいし、凄いことなの」
「でも、見つかったら…」
「ただじゃ済まないでしょうね。おばさんたちは、庇ってくれないだろうし」
それなくとも、アルベルと話している姿を見られたことのあるカエデへの風当たりは強いのだ。
これ以上、村人を敵に回すようなことはしない方が良い。
アルベルは不安になって、カエデの手をぎゅっと握った。
「嫌だよ、カエデ。いなくならないでね」
「大丈夫。最悪、鞭叩きくらいで済むはずだから」
「怪我して欲しくないよ」
「別に、殺される訳じゃないし。それにね、私、色んなこと知りたいの」
きらきらとした目で、カエデは宙を見つめる。
その視線を追っても、アルベルには同じものを見ることは叶わない。
「勉強して、偉くなって、王都で働くの。賢くなれば、おばさんたちに虐められることもないし」
「ここから出て行っちゃうの?」
「もちろん」
力強い言葉に、アルベルは心臓を杭で打たれたような衝撃を受けた。
ずっと、この村で一緒にいてくれると思っていたのだ。
側にいるのが当たり前で、いなくなるなどと、想像したことも無かった。
明らかに顔色が悪くなったアルベルに気付いたのか、カエデは首を傾げて少し考えた後、からかうようにアルベルの頬をつついた。
「その時は、アルベルも一緒に行こう」
「いい、の?」
「私、てっきり、一緒に来てくれるものだと思ってたんだけど…」
「行く!絶対、一緒に行く!」
ぎゅ、とカエデの背中に腕を回して、アルベルは思い切り抱きつく。
耳元で、くすぐったそうに笑う少女の声がした。
◆
その日はとても吹雪が酷かった。
雪の日には、必ず何か嫌なことが起こる。
その予感は、その時も外れることはなかった。
売られた。
血の繋がった家族に、売り払われたのだ。
髭面の、黒尽くめの男に引きずられながら、アルベルはなんとか手を振り払おうと力を込める。
けれども、男はびくともしない。
「いや、いやだ!離して!」
「うるせぇ、ガキだな!ったく、売る場所が場所じゃぁなければ、その顔ぶん殴ってやるのによぉ」
頭を強く掴まれる。
みしり、と嫌な音が耳の奥で響いた。
痛みのあまり、涙が浮いてくるが、外気に晒されてすぐに凍りつく。
「おら、とっとと歩け。凍死してぇのか」
雪に遮られて、前が見えない。
真っ白な景色が、絶望的なまでに目前に広がっている。
どこへ連れて行かれるのか、これからどうなるのか、不安のせいで吐き気が込み上げた。
「アルベル…?」
吹き荒ぶ風の中、その声を拾ったのは奇跡に近かった。
アルベルはハッとしてその方向へ顔を向ける。
そこは、カエデが預けられている家だった。
その軒下、農具入れの影に、隠れるように座っている少女の姿を見つけ出す。
きっと、理不尽な理由で家から追い出されたのだろう。
そして、なんとか雪をしのげる場所にうずくまっていたに違いない。
本当なら、駆け寄って、その身体を抱きしめたかった。
けれども、腕を掴む男の手がそれを許さない。
「カエデ…カエデ!」
「やっぱり、アルベルだ。そのおじさんは…」
言いかけたカエデの口が、閉ざされる。
その目が警戒するように細まった。
軒下から飛び出して、カエデが駆け寄ってくる。
それに気付いた男は、どうするでもなく、無視をした。
「助けて!僕、僕、売られちゃう!」
「女に助けを求めるたぁ、情けねぇ野郎だ。ケツの穴掘られるには持ってこいだな」
男の嘲笑が振りかかる。
何を言っているのか、アルベルには理解出来なかったが、馬鹿にされているのだけは感じ取った。
それでも、なりふり構っていられない。
「ちょっと、あんた!」
追いついたカエデが、吹雪の音に負けないほど声を張り上げる。
けれど、男が足を止めることはない。
「そこの髭男!人身売買は犯罪よ!分かってるの?!」
そう、目の前のこの男は犯罪者なのだ。
そして、アルベルを売り払った両親もまた、犯罪者へと成り下がった。
カエデの罵声に臆した風もなく、全く聞こえていないかのように男は前だけを見つめている。
無視されたことに腹を立てたのか、カエデは足下の雪を手の中で握ると、大きく振りかぶった。
「このっ!」
ボスッ、と男の背に雪球が当たる。
吹雪の中では、大したダメージにもならないが、それでも、カエデの精一杯の攻撃は男の神経を逆撫でした。
「クソガキがぁっ!」
男の手が、大きく振り上げられる。
アルベルが息を呑んだ時には、それはカエデへと振り下ろされていた。
鈍い音が響いて、小さな身体が跳ね飛ばされる。
「カエデ!」
「おら、行くぞ」
「離して!カエデ!カエデが死んじゃう!」
倒れこんだ身体に、容赦なく雪が降り積もる。
骨が軋む程に手首を捕まれ、アルベルは逃げることも敵わない。
何度も何度も振り返る度に、カエデの姿は小さくなり、ついには何も見えなくなった。
◆
連れて行かれた先は、地獄とも呼べる場所だった。
肌を撫でる手の温度に歯を食いしばり、己の内に吐出される欲望に耐えねばならない。
泣き叫べば暴力で封じられ、仕置きとばかりに鞭が入れられた。
「カエデ…カエデ…」
冷たいシーツの上、丸まりながら、アルベルは熱に浮かされたように名前を呼ぶ。
身動ぎすれば、首輪に繋がれた鎖がじゃらりと無機質な音を立てた。
「会いたいよぉ…」
赤黒く光る刺青が、アルベルの両足首を覆っている。
少なくとも、この刺青が良いものでないのだけは確かだった。
奴隷の印。
そう呼ばれるのは、学もなく、知識もないアルベルですら知っている。
雪の中、倒れてそのまま放り出されたカエデの行方が気になり、何度も脱走を試みた結果、刻まれた魔術。
施された直後、急激に成長した刺青は、両足が千切れたかと錯覚するほどの痛みをアルベルに与えた。
泣き叫び、謝り続けたことは、記憶に新しい。
時折やってくる魔術師の男は、にたついた笑みと共にこの身を蹂躙し、魔力を渡して去っていく。
最早、生きている意味など見いだせなかった。
何度、死んでしまいたいと願ったか分からない。
それでも、死すら許されなくなった己の身は、金を払い、毎晩のようにやってくる客に好きにされる他、ないのだ。
そんなアルベルの唯一の救いは、カエデとの思い出だった。
どれほど辛くとも、彼女との優しい記憶を掘り起こせばこそ、なんとか耐えられる。
月日が経てば、経つほどに、心は凍てつき感情を失っていく。
それでも、カエデのことを思い出す時だけは、涙を流して会いたいと願うのだ。
数年が過ぎれば、最早、カエデとの邂逅は夢の中で望むしかなくなった。
「今日の相手は、若い女だぞ。良かったじゃねぇか」
下品な笑みを浮かべてそう告げた元締めの言葉を、アルベルはなんともなしに聞き流した。
男だろうと、女だろうと、やることは一緒だ。
相手が満足するまで犯されるか、犯すか。
それだけだ。
扉が閉まる音がして、元締めが出て行ったのだと分かる。
深くため息をついて、ベッドから起き上がると、客を迎えるために座り込んだ。
若かろうが、老いてようが、そんなことはどうでもいい。
出来るだけ、相手の顔を視界に入れたくない。
キィ、と控えめなドアの音と共に、足音がした。
躊躇いがちに近づいて来た、その靴の爪先は随分と綺麗だ。
俯いていても分かるほど、上等な着物に身を包んでいる。
「アルベル…?」
その声音に、ハッと息が詰まる。
驚いて視線を上げれば、そこにいたのは、黒髪に黒目の1人の少女だった。
繰り返し思い出しては涙し、夢の中で会うことを願った姿。
「カエデ…?」
「そう、だよ。アルベル、アルベルなんだよね?」
喜んで飛びついて来たカエデに抱きしめられながら、アルベルは言葉を発することが出来ない。
幻影を見ているのだろうか。
不安に思って、そろそろと手をその背に伸ばす。
柔らかな身体の感触、少し高い体温、紛れも無い、本物がそこにいた。
「どう…どうして?カエデ…僕、僕」
「辛かったよね、苦しかったよね。もう大丈夫だから。私が、助けてあげるから」
視界が一気にぼやけていく。
喉の奥から熱い塊が込み上げてきて、つぅ、と頬を何かが流れた。
「泣かないで。大丈夫、大丈夫だよ、アルベル」
「カエデ…カエデ!会いたかった!生きてて良かった」
指摘されて初めて、流れた物が涙だと気づく。
死んだように動かなかった心が、再び息を吹き返したのだ。
再会の喜びに、疑問や驚きは押し流される。
ただひたすらに抱きしめ合い、お互いの無事に歓喜した。
しばらくして、落ち着いてから、ゆっくりと身を離す。
そして、ベッドに並んで座り、お互いの手を握った。
「僕、あの時、カエデが雪の中に倒れて…それで、死んじゃったのかと…」
「まぁ、あながち間違いじゃないかな。実際に死にかけたし」
「どうやって助かったの?」
「あの吹雪の中、通りかかった人がいてね」
楽しそうに、カエデが笑う。
そこで、はたと、カエデの着ているものが随分と上等な服だと気付いた。
頬のツヤもよく、赤味がさして血色が良い。
「アル兄…アルフレド・ラックスさんが、助けてくれたの。それで、いろいろあって、今ではラックス家に養子として引き取ってもらって、一緒に暮らしてる」
カエデが、遠く見える。
掃き溜めのような場所で、身を汚され、陵辱されて来た己とは違う存在。
アルベルは重ねた手をそっと引いた。
「学校にも、行かせて貰ってるの」
ふいに、カエデの目がアルベルの方を向く。
引いた手を再び握られ、アルベルは困惑した。
「アルベルのこと、ずっと探してた。たくさん勉強して、いろんな事を知ったわ。ここの施設は違法なの。アル兄が、必ず潰してくれるわ。もう少しの辛抱だから。アル兄の立ち入りの日まで、私が毎日来るから。他の奴らに、アルベルを好きになんてさせない」
「僕…ここから、出られるの?」
「もちろん」
眩しいほどの笑顔に、アルベルの心臓がきゅ、と痛む。
己の足首を彩る忌まわしい刺青が視界の端に映った。
「でも、出たら僕は死んじゃうよ」
「どうして?」
「ほら、これ」
示した先にある印に、カエデは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
それが何であるかをしっかりと把握したらしい。
「酷い…」
「何度もね、脱走しようとしたんだ。そしたら、お仕置きだって言われて…」
そこから先は、嗚咽が混じり、言葉にならなかった。
焼け付くような痛みが脳裏に蘇る。
カエデが心配で、どうしても会いたくて、何度も何度も逃げようとした。
辛くて、悲しくて、心が引き裂かれるような痛みをいつも感じていた。
「泣かないで、泣かないで、アルベル。大丈夫。なんとかして、その印を消す方法を探し出すから」
優しくて、温かい言葉に、アルベルは必死に頷く。
ほんの少しの希望が見えた気がした。
◆
警備団による立ち入りは、速やかに行われた。
瞬く間に建物内は占拠され、今までの地獄が呆気なく終わりを告げる。
「アルベルっ!迎えに来たよ!」
そんな中、まさかカエデまで参加しているとは、アルベルには思いもよらなかった。
鎖に繋がれたまま、唖然とした表情で彼女を見つめる。
「な、なんで…っ?!」
「アルベルが捕まってるのに、私が黙ってるわけないでしょ?!」
カエデはすたすたと近づいてくると、拘束具を検分する。
「魔法は…かかってるのか分からないなぁ」
「カエデ、代われ」
「あ、アル兄」
後ろから現れた長身の男が、こちらを一瞥する。
輝く金髪に、翡翠の目。
その肩に輝く勲章の数が、間違いなく彼が地位の高い人間だと示している。
「えっと、あの…」
「君がアルベルか。カエデから話はよく聞いている。もう大丈夫だから、安心するといい」
アルフレドが鎖に手をかける。
パキリ、と音が鳴り、一瞬にしてアルベルは自由になる。
数年間、己を繋ぎ続けた拘束具があまりにも簡単に壊れる様子に、言葉が出ない。
「カエデ、出口まで誘導できるか?」
「うん。行こう、アルベル」
すっ、とカエデが手を取る。
直に触れる温もりに、どきりとアルベルの心臓が跳ねた。
鎖を壊してくれたアルフレドに小さく頭を下げ、2人は廊下を走る。
各部屋から喜びに咽び泣く声や、発狂したかのような奇声、様々な音が聞こえた。
「お兄さん、残して平気?」
「アル兄は、ああ見えて団長だから。むしろ、残さないとダメなの」
「団長…すごい」
ほぼ警備団に制圧されたこの館で、急ぐ必要はない。
それでも、一刻も早く外に出たくて、カエデはアルベルの手を引いて勢いを落とさないまま、廊下を曲がった。
「きゃっ!」
ぼすり、とカエデが止まり、後ろにひっくり返る。
アルベルは慌てて受け止めると、ぶつかった相手を見上げた。
きっと、警備団の人だろう。
すっかり気を抜いた視界に飛び込んできたのは、見慣れた顔。
そこにいたのは、幾度となく己の身体を蹂躙した魔術師だった。
「あ…うぁ…」
自然と手が震える。
蘇る恐怖と激痛。
何もされていないはずの足首が痛むような気がして、その場にしゃがみ込んだ。
「よー、アルベル。逃げ出すつもりだったのか?」
にやにやと下卑た笑みを浮かべて、目の前の魔術師が見下ろしてくる。
カエデは訳が分からずぽかんとしたまま、その姿を見つめていた。
「いい女連れてるじゃねぇか。俺も混ぜてくれよ」
すっ、と魔術師の手が伸びてくる。
アルベルは反射的に身を引いて縮こまったが、男が掴んだのはカエデだった。
「綺麗なお洋服着て、どっかのお嬢さんか?おじさんが、そこの野郎と同じ印をつけて仲良く飼ってやろうか?ん?」
「くっ…!このっ!」
「負けん気の強い女は嫌いじゃないぜ?」
ぎしり、と骨が軋む音がする。
カエデの口から声にならなかった、空気が漏れた。
その光景に、アルベルの脳裏に吹雪の日が過る。
張り飛ばされた、小さな身体。
鞠のように跳ねて、雪に倒れるカエデ。
容赦なく降り積もる豪雪。
「やめろ…」
離れ離れになった後の、地獄のような日々。
いつか会えると信じて、それだけを希望に生き抜いた。
そして、奇跡のような巡り合わせで、やっと、再開できたというのに。
「カエデを離せ!」
ふわり、と風が舞った。
咄嗟に魔術師がカエデを放り投げ、防御陣を展開する。
けれども、アルベルの起こした突風は子供騙しの術など物ともせず、防御陣ごと男を弾き飛ばした。
壁に打ち付けられ、ずるずると男の身体がずり落ち、床に倒れ伏す。
「カエデ!怪我は?!」
「え、あ?ううん、大丈夫だけど、今のは…?」
「何でもいいから、早く警備団のところまで逃げよう」
へたり込んだカエデに手を差し出し、立たせる。
今度はアルベルが先導して、前へと進んだ。
カエデは訳が分からず、混乱したままにその背を見つめる。
そして、ふと視線を落とした先、アルベルの足首に違和感を感じた。
「アルベル…足…」
「ん?なぁに?」
「模様が消えてる…」
「えっ?!」
思わず立ち止まり、アルベルが下を向く。
禍々しく光っていた刺青が消えていることに、2人して息を呑んだ。
「な、なんで…?」
「私に聞かれても…」
「魔術は学校で習わないの?」
「理論は知ってるけど、私は才能がないからそこまで勉強してない…」
「警備団の誰かが助けてくれたのかな?」
「そんなはずは…。アル兄くらいしか魔法は使えないし。考えられるとしたら、アルベルの魔力があの男を上回ったとしか…」
なんにせよ、とカエデが続ける。
そして、アルベルが握る手に、その指を絡めた。
「これで、本当に自由だね」
入口が見えてきた。
外には、沢山の人だかり。
「これからは、僕たち一緒にいられる?」
松明の明かりが見える。
その中を、制服を着た影が、忙しなく動き回っている。
「もちろん」
カエデはアルベルを見上げた。
「ずっと一緒だよ」
力強いその言葉に、アルベルは数年ぶりに心からの笑みを浮かべた。
◆
「アルベル!遅刻するよ!」
「大丈夫だよ。転移魔法があるから」
「いくら宮廷魔術師だからって、就任式に魔法で登場はやりすぎじゃないかな?!」
2人の会話を聞きながら、アルフレドが遠い目でため息を吐く。
手にしたカップからずずっ、とコーヒーを啜った。
「カエデは国庫のとこだっけ?お昼に遊びに行っていい?」
「お昼くらい同僚と食べなさいよ!」
「えー、やだー!」
びきり、とアルフレドのこめかみに青筋が浮かぶ。
手に持ったカップが不吉な音を立てた。
「カエデに会いに行けないなら、同じ職場を選んだ意味ないじゃない」
「そんな不純な動機で宮廷魔術師なんかになったの?!」
「試験、一番簡単そうだったし」
「言っとくけど、一番なるのが難しい職種だからね?」
ガチャン、と乱暴な音を立てて、アルフレドがカップをテーブルに叩きつける。
その拍子に跳ねたコーヒーが溢れた。
びくりと肩を震わせたカエデとアルベルは、恐る恐る振り向く。
「いい加減にしろ!さっさと2人とも行ってこい!」
「ご、ごめん、アル兄」
「ごめんなさい、アル兄さん」
「アルベル、お前に兄と呼ばれる筋合いはない」
「えー、でも、カエデと結婚したらアルフレドは僕のお兄さんになるよね?」
「カエデは!まだ!嫁に出さん!」
ふーっ、と猫のように体を膨らませて、アルフレドが威嚇する。
「とっとと、仕事に行け!」
「行ってきます!」
「行ってきまーす」
怒声に追い立てられながら、2人で仲良く荘厳な玄関を飛び出す。
アルベルはくすくすと、忍び笑いを堪えきれずに吹き出した。
「あーあ、アルフレドったら、あんなに怒っちゃって」
「もう。姉さんが結婚して出てってから、余計に過保護になったんだから」
あの大活劇の後、アルベルの身元はアルフレドが引き取った。
そう年は変わらないが、貴族階級の人間の保証があるのと無いのとでは、大きく違いが出る。
今回、アルベルが宮廷魔術師としての地位につけたのも、アルフレド・ラックスの後見があってこそだった。
あれから、魔術の才能を見出されたアルベルは、驚くほどの快進撃を遂げ…とはいかなかった。
長年受けた心と身体の傷を癒すには、とにかく時間がかかる。
カエデ以外の人間とは好んで接触せず、ぼんやりとしていることが多かった。
そんな中、カエデの宮仕えが決まったのだ。
働き始めれば、更に一緒にいる時間は減る。
そこで、アルベルは孤独に耐え切れず、同じ職場で働くことを思いついた。
そうして、選択したのが宮廷魔術師。
高給取りであり、誰もが憧れる最高職。
これなら、カエデを娶っても、不自由させることはないと気付いたアルベルの行動は早かった。
瞬く間に魔術の基礎を習得し、あっという間に才能を開花させた。
気がつけば、宮廷魔術師に内定が出ており、このことにはカエデも唖然としたものだ。
「ね、カエデ」
アルベルは隣を見下ろす。
不思議そうに目を瞬いて、こちらを見つめる表情がそこにある。
そして、溢れ出す愛しさに、衝動のままに飛びついた。
「大好きっ!」
じゃれつく大きな幼馴染に、カエデがはにかみながら、その背に手を回す。
空を見上げれば、雲一つない澄み渡った晴天が、まるで祝福しているようだった。
IF編はこれにて完結です。
ご評価頂けると、励みになります。
異世界の犯罪者、ご愛読ありがとうございました!




