if. カエデの印が完成していたら
カエデが壊れています。
痛い表現はありません。
息苦しい。
呼吸をしているはずなのに、上手く酸素が取り込めない。
左胸にあるはずの心臓が、身体の中心に来てしまったかのように、どくどくと大きな音を立てて暴れている。
朦朧とする意識の中で、私はベッドに丸まってただひたすらこれ以上、状態が悪化しないように震える手で祈りを捧げることしかできない。
目に入ってくる左腕を侵食する赤々とした毒のような刺青が、私の身体を蝕んでいく。
「かはっ…」
息が、続かない。
早く、早く、帰ってきて。
私を置いて行かないで。
苦しいのは嫌だ。
これなら、いっそ死んでしまった方がマシだと思うのに。
呪いは、私を殺してくれない。
死なない程度に、最大限、苛み続けるのだ。
ぐるぐると回る思考の中で、敏感になった耳が、玄関のドアが開く音を拾う。
「たーだいま」
間の抜けた声に、びくりと肩が痙攣する。
あぁ、ようやく、求めていた人が、帰ってきた。
これで、息ができる。
やっと、苦しくなくなる。
この動悸も収まるはず。
「あ…ある…べる…っ!」
必死に手を伸ばして、白銀の髪の男を求める。
アルベルは酷薄な笑みを浮かべて、焦らすようにゆっくりと歩を進めていた。
やっと手が届きそうな場所まで来たと思えば、ベッドの側に突っ立ったまま、こちらに触れてくる様子はない。
「や…アルベル!」
這いずりながらベッドの縁まで移動する。
早く、早くしてくれないと、苦しさに気が狂いそうだ。
震える指先でアルベルのローブを掴み、引き寄せる。
やっと腰を下ろした彼に縋り付けば、そっと私の左手を取って、その指を口に含んだ。
生暖かい感触が、指先を這う。
爪と肉の間を執拗に舐められて、思わず手を引きたくなるが、俯いてじっと耐えるしかない。
彼が私に触れるたび、魔力が流れてくる。
そうすれば、この苦痛が消えるのだから。
「これで大丈夫だね」
ちろり、と出した舌で、垂れた唾液をアルベルが舐めとる。
それが終われば興味が削がれたとばかりに、手が離れていく。
これ以上、アルベルは私に触れる気がないようだ。
けれども、今の分だけではすぐにまた、呼吸ができなくなってしまう。
愕然とした表情で目の前の白銀の髪の男を見つめれば、彼は口角を吊り上げた。
「なぁに?どうかしたの?」
「だ、だって…今のじゃ…」
「足りないの?足りないなら、おねだりしてごらんよ?」
アルベルが、じっとこちらを見つめている。
私が彼に乞うのを待ち構えているのだ。
ごくり、と唾を飲み込む。
いつも通り、彼の望むままに言葉を吐くだけ。
そうすれば、苦しくないのだ。
死んだ方がマシだと思うような苦痛から解放される。
乾いた唇を舌でなぞり、湿らせ、私は言葉を乗せた。
「アルベル、お願い…もっと…ちょうだい」
「あははっ、欲張りさんだなぁ」
笑ってばかりで、取り合おうとしないアルベルに、痺れを切らした私は、その首に腕を回して貪るように唇を合わせる。
何度も何度も角度を変えて、彼の咥内に舌を割り入れ、ゆっくりと交じり合う唾液を飲み込めば、苦しさが霧散していった。
そのまま舌を吸おうとすれば、主導権は渡さないとばかりに、アルベルが咥内を犯してくる。
執拗なほどに歯列をなぞられ、嬲られ、気持ちよさに腰が砕ける。
呼吸をしようと唇を離そうとすれば、後頭部を強く抑えられ、容赦なく唾液を流し込まれた。
必死に喉を動かして飲み下そうとする私の上顎を、アルベルの舌が何度も往復する。
ともすれば、喉の奥まで舌を伸ばしてくるので、えずきそうになるのだが、目の前の男は咳き込むことすら許してくれない。
もう舐められていない箇所など残っていないだろうと思うくらい、気が遠くなるような時間が経ってから、やっとアルベルが上体を起こす。
ちゅ、と小さな音を立てて唇を離した後、膝が笑って立てなくなった私は、そのまま彼の上に座り込んだ。
「かわいいなぁ、カエデは」
よしよし、と髪を撫でられる。
その行為ですら、苦しさは軽減し、呼吸が楽になっていくのだから、可笑しくて仕方がない。
私の身体は文字通り、アルベル無しでは生きていけなくなってしまったのだろう。
自ら命を断つことも出来ず、外的要因による死さえ望めない。
アルベルを拒めば、待っているのは終わることのない苦痛。
それならば、正気を捨てて、媚を売り、楽になる道を辿る方がよっぽど容易い。
ぼんやりした頭で、そっとアルベルの手に頬を寄せれば、彼の長い指先が唇の上をゆっくりと這う。
「アルベル?」
小さく口を動かして、尋ねる。
唇の上を往復し続ける指が、くすぐったい。
「んー、ちょっと僕の言う通りにしてね」
そう言うと、彼の人差し指と中指が、口の中に侵入してくる。
「ぅ…!」
突然のことに、思わず呻いて噛んでしまえば、こら、と怒られた。
「歯は立てないでよ。痛いじゃない」
「ご、ごめんなはい…」
指を口に含んだまま喋ったせいで、唾液が口の端から零れてしまう。
思わず拭おうと腕を上げれば、アルベルに必要ないとばかりに抑えこまれてしまった。
「いいよ、そのままで」
垂れた唾液は、そのまま首筋を通り、鎖骨へと流れていく。
気持ち悪くて顔を顰めれば、アルベルが楽しそうに笑った。
「いいね、その顔」
そして、私の首元に顔を埋めると垂れた唾液を舌で舐めとっていく。
ひくりと身体が痙攣し、口の中にあるアルベルの指を噛みそうになったところで、慌てて口元を緩めた。
「ふっ…あ…っ」
鎖骨を這い回る、ざらりとした柔らかな感触に、思わず声が出てしまい、強く目を瞑る。
とにかく、指を噛んでアルベルの機嫌を損ねる訳にはいかない。
動かないようにじっと我慢していれば、口の中に入れられた2本の指が、ゆっくりと出し入れされる。
時折、遊ぶように舌を指先で挟んでは、軽く引っ張られ、くすぐるように引っかかれた。
「ひぅ…」
それすらも気持ちよくて、背筋がぞくぞくとする。
興奮から浅くなる呼吸に、アルベルはとっくに気付いているだろう。
ただされるがままになっていれば「舐めて」と端的な指示を出された。
ここで、羞恥から拒絶をすれば、どうなるのか私はすでに知っている。
アルベルの言う通りにしなければ、鍵の掛かった屋内に放置されてしまうのだ。
与えられた魔力が尽き、昏倒する寸前まで、彼は帰って来ない。
必死になって求めなければ、再び地獄の責め苦を味わうことになってしまうのだ。
私は口の中に含んだ指にゆっくりと舌を這わせる。
けれども、キスをする要領とは違い、随分と難しい。
犬のように舌を出して、指の付け根から先まで何度も何度も丹念に舐めて、往復する。
これで合っているのかと不安になり、アルベルの様子を伺えば、ただ無表情で私を見下ろしていた。
心臓が嫌な音を立てて、跳ねる。
このまま同じことを繰り返していては、アルベルは飽きてどこかへ出て行ってしまう。
ぼんやりする頭を必死に働かせて、私は指にむしゃぶりついた。
そっとアルベルの手を掴んで、先程彼にやられたように、爪と肉の間を舌の先でなぞる。
すると、アイスブルーの瞳がうっそりと細まった。
「上手。いい子だねぇ」
あぁ、褒められた。
これなら、アルベルを怒らせることはない。
安心した私が力を抜くと、ゆっくりと口の中から指が引き抜かれた。
私の絡ませた唾液が糸を引き、アルベルの指と私の口をつなぐ。
「もう、苦しくない?」
「ん…」
それでも、いつまた、あの苦しさが襲ってくるか分からない。
私は、べったりとアルベルに抱きついて、零れた唾液がつくのも構わずに、彼の服に顔を埋めた。
「アルベル、どこにも行かないでよ」
「どうしたの、甘えん坊さん」
「一人にしないで。ずっと、一緒にいて」
一人になると、苦しいのだ。
息が出来なくなって、喉元を抑えて、酸素を求めて喘ぐことしかできない。
彼の魔力が無ければ、私は、永遠に苦しみ続けなければならないのだ。
「一緒だよ、カエデ。君が例え逃げ出しても、また捕まえて、ずっとずうっと一緒にいてあげる」
髪を撫でていたアルベルの手が、するりと下に降り、私の太ももを撫で上げた。




