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隣りにカエデがいない。
その事実はどうしようもなく、アルベルの心を蝕んでいく。
凶暴な衝動が収まり、穏やかな海のように凪いでいたはずの感情が、今では見る影もなく嵐のごとく吹き荒んでいた。
カエデは、怖がっていないだろうか。
誰とも知らない人間に、異世界から来たというだけで辛い目に遭わされてはいないだろうか。
自分の目の届かない場所で、カエデが何をし、何をされているのか、想像しただけで心の臓が千切れそうなほどに痛む。
もし仮に、幼き日の自分のように、誰とも知らない輩に売られ、辱めを受けていたら。
警備団が保護したとは言え、カエデがそこから逃げ出し、路頭に迷っていたところを捕まえられれば、可能性は皆無ではなかった。
警備団の団員を探し出し、捕まえてはカエデの情報を引きずり出す日々の繰り返し。
相手も容易に情報を吐きはしないが、家族を盾に取れば、口を割らない者の方が少なかった。
「この…化け物め…!」
ある団員の妻を殺した時、そう罵られた。
カエデの居場所を吐いた相手の目の前で、その妻を手に掛けたのだ。
探し始めた頃は、殺さずに解放したこともあったが、カエデを探していると知られては具合が悪いことに気付いてからは、1人たりとて逃したことは無かった。
自分にとって、彼女が大切な存在だと主張することは、その分、カエデ自身をも危険に晒しているのと同意義である。
アルベルという犯罪者を捕まえるための道具にされかねない。
「そう言われたのは、もう何度目だろうね」
くすりと笑って、手にした女の死体を床に放り投げる。
その亡骸に縋り、抱きしめる男の姿をアルベルはじっと見つめた。
まるで、異世界に行った時にカエデと一緒に見た映画の一場面のようだ。
けれども、あの時のように、目頭が熱くなることも無ければ、同情の念すら浮いてこない。
思い返せば、吹雪の中で生まれ、白銀の髪を持ったばかりに、蔑まれ、家畜のように扱われてきた。
理不尽な行いに耐えれば耐えるほど、心は凍てつき、世界は色を失った。
誰もが自分勝手に振るまい、相手を傷つける世界で、どうして聖人君子でいられようか。
「僕を化け物にしたのは、誰だろう」
床に蹲る男の肩に手を乗せる。
魔力を注げば、その生命は簡単に消え去った。
妻の躯の上に、折り重なるように男が倒れる。
カエデの居場所は聞き出した。
よりによって、警備団の団長の家に隔離されたという。
脳筋の集まりとも呼べる集団の中で、唯一、魔術の使える男だ。
アルベルの足元にも及ばない力ではあるが、目的のためには手段を選ばない非情で狡猾な部分がある。
実際、数回ほど彼の率いる部隊とかち合った事があるが、アルベルを捕まえるために、警備団に所属していない者まで利用していた。
アルベルはもう一度、床に倒れた夫婦を見やると、踵を返して先を急いだ。
屋敷を見上げると同時に、満天の星空が目に入る。
とても綺麗に晴れているように見えたが、空気は湿り気を含み、風は強く、刺すように冷たい。
「雪が、降る」
吐いた息は真っ白に染まり、空中に掻き消えた。
暗い空の遠方に、暗雲が立ち込めているのが見て取れる。
雪の日は、嫌いだった。
お前がこの世に生を受けた日も、吹雪が酷かったと罵倒されながら何度も何度も言い聞かされた。
かつて、悪夢のような日々を過ごすはめになったきっかけである、奴隷商人に売られた時も、雪が酷い日だった。
雪が降る時は、必ず、アルベルにとって良くない事が起きるのだ。
「待っててね、カエデ」
聳え立つ外壁を見上げ、歯を食いしばる。
敵の拠点に乗り込むなど、罠の中に身を投げ込むのと同じだ。
それでも、例え、その先に待っているのが破滅だとしても、カエデに会いたいと願う心は止められなかった。
正直に言えば、期待、していたのだ。
駆け寄って、抱きしめてくれることを。
寂しかった、また会えてよかった、迎えに来てくれてありがとう。
そんな、優しい言葉を待っていたのだ。
「ごめん、アルベル」
聞きたいのは、謝罪ではない。
その言葉だけで、ある程度のことを察してしまった自分が嫌になる。
敵の懐にわざわざ飛び込んだのは、拒絶を聞きたかったからではない。
何かの間違いだと、そうであって欲しいと願いながら、問答を続けた末に突き付けられた事実はあまりにも酷かった。
「違う!そうじゃなくて、私、ここに居たいの!」
指先から緊張によって温度が失われていく。
異世界で出会った、お人好しで、とても優しい、愛しい人。
ひだまりのような暖かさを与えて、心を溶かしてくれた、唯一の人。
他の何を投げ打ってでも、手に入れたいと望んだ結果がこれだというのか。
「なんで」
とても、低い声が出た。
気を緩めれば、嗚咽が漏れてしまいそうだった。
みっともない姿を見せたくなくて、ぐっと喉に力を込める。
目頭が熱くなり、鼻の奥がツキンと痛んだ。
「カエデには、僕だけのはずなんだ」
そう、仕組んだはずだった。
この世界でひとりきりのカエデが頼れる人間はアルベルだけ。
こちらを見て欲しくて、優しさを与えて貰いたくて、彼女を手に入れようと躍起になった。
近づく度に、何かを返したいと、自分も優しさを与えたいと、願ってきたというのに。
「2人で、一緒に帰ろうよ、カエデ」
時間なら、どれだけ掛かっても構わなかった。
まだ心をくれないと、好きになってくれないと言うのならば、カエデが納得するまで、いつまでも待つつもりだった。
「カエデの好きな、ジイシャを作ってあげる。大好物の「おあしす」のとんかつだって向こうで買ってきてあげる。それで、半分こしながら前みたいに、一緒に食べよう。ここにはテレビは無いけど、星空だったら2人で並んで見れるし、眠くなったら手を繋いで寝よう?」
普通の人々が手に入れられないものは、魔術で奪い取り、手中に収めてきた。
けれど、心は満たされず、いつでも乾き飢えていた。
アルベルが本当に欲しかったものは、高価な宝石でも無ければ、相手をねじ伏せる圧倒的な力でもない。
隣にいてくれる人が欲しかったのだ。
化け物と罵られ、蔑まれてきた己に、優しさと愛情を注いでくれる、そんな人。
そして、与えられたものに応え、自らも愛情を親愛を捧げたかった。
穏やかで、暖かくて、満ち足りた時間を過ごしたい。
ただ、それだけだったのだ。
ずっと渇望し、手を伸ばしていた物の形がやっと見えてきた。
もう少しで、あと1歩近づけば、指先に触れるほどの距離だった。
それなのに。
「私、アルフレドが好きなの」
目の前が真っ暗になるほどに、カエデの言葉は残酷だった。
意識せずに、アルベルの口から乾いた笑い声が漏れる。
ガラガラと音を立てて、己の内で全てが崩壊していくのを感じる。
崩れ、壊れ、跡形もなくなったアルベルの中に残ったのは、凶暴な破壊衝動だけだった。
両親に売られた時よりも、異世界に渡る前に見たロケットの中の絵姿よりも、遥かに深く暗い絶望が胸の内を覆う。
勢いに任せて組み敷いたカエデの唇に、噛み付くように己のそれを重ね合わせ、驚きのせいで薄く開けられた口に舌をねじ込み、ゆっくりと歯列を嬲った。
彼女が望むまで、手は出すまいと決めていたはずなのに。
一度破ってしまえば、自ら決めた約束事はとても小さく、どうでも良いことのように思えた。
なぜ、そんな無駄なことに拘っていたのか、疑問さえ覚える。
力づくで、手篭めにしてしまえば、こんな結末を迎えることも無かったのだ。
「最初から、こうすれば良かったんだ」
カエデの口元に垂れた唾液を、舌で拭う。
苦しそうな表情で顔を背けたカエデに苛立ちを感じ、無理やり正面を向かせた。
「手錠だけじゃなくて、足枷もつけて、首輪もつけて、飼えば良かったんだ。あんな森の中の家じゃなくて、冷たくて、暗くて、寒い地下牢で、僕だけが暖かいところで、飼い殺しにしちゃえば良かった」
かつて、蹂躙され踏み躙られた己と同じように。
自由を奪い、意思を奪い、閉じ込めてしまえば、間違いなどは起こらなかった。
魔法を使えないカエデには、アルベルと違い、その檻を抜け出す術があるはず無いのだから。
心が欲しいと望んだばかりに、全てを失ってしまった。
優しさに報いようと、躊躇いを見せたのが間違いだったのだ。
本当に手に入れたいのならば、手段を選ぶべきではなかった。
理不尽な暴力がいかに、圧倒的な力を誇るか、知っていたはずなのに。
知っていたからこそ、踏み出せなかった己の弱さに反吐が出る。
手を伸ばして、カエデの左腕を取る。
恐怖に目を見開き、震える愛しい人の顔にくすくすと笑い声が漏れた。
心をくれた暁には、刺青の魔術は解くはずだった。
けれど、それはもう出来ない。
この呪いを解いてしまえば、カエデを縛る鎖は無くなってしまうのだ。
「や、やだ…やめて、アルベル…」
「どうして?なんでやめないといけないの?」
「い、痛いの…や…やなの…」
ふーん、と無感情な相槌を打つ。
物理的な痛みを加えられることの苦痛を、アルベルは嫌という程、その身で体験してきた。
今までなら、カエデが苦しみ、悶える姿を可哀想だと思えただろう。
しかしながら、今はただ、自分が感じてきた痛みというものを、同じように感じて欲しいと願ってしまう。
こじれて出口の見えなくなった愛情は、歪んだ姿へと変貌し、牙を剥いた。




