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最近、アルフレドさんの帰りが遅い。
時計の針が20を越えても帰って来ない事が多くなってきた。
それを、律儀に図書室で待つ理由もないのだが、日課のように毎日話していたので、突然辞めるのもどうかと思い、ブランケットを肩から掛けて、椅子に座って彼の帰りを待つ。
使用人の人たちも、私が自由にしていることを特に咎めないので、問題無いのだろう。
こうも連日、遅い帰りが続くのであれば、この夜のささやかなお話の時間もアルフレドさんの負担になるに違いない。
今日は、しばらく仕事が落ち着くまで、こうしてここで話をすることを辞めようと提案する予定だった。
特に、示し合わせて始めた訳ではないので、わざわざ辞めようというのも少し可笑しな気がするけれど。
「ただいま」
そう言いながら、彼が図書室に入ってきたのは、時計の針が1に近づいた頃だった。
私はうつらうつらとしていた顔を上げて「おかえりなさい」と返した。
ほっとしたように息を吐いて、アルフレドさんが椅子に腰掛ける。
どかっ、という効果音がつきそうな勢いだったせいか、机が小さく揺れた。
こんな風に、おざなりに座るのも、珍しい。
アルフレドさんがいかに疲弊しているかが、目に見えて分かる。
「お疲れ様です。お仕事大変なんですね」
「あぁ。まぁな。アルベルの奴がさっぱり捕まらない」
「…彼はどうしてます?」
私の問いかけに、アルフレドさんは口を噤んで、こちらをチラリと見た。
疲れ切ったその目には、何の表情も浮かんでいない。
「凶悪な通り魔、と言ったところか」
「はい?」
「まるで、自分が通った跡を残すように、各地で殺人を犯している」
ひゅ、と小さく喉が鳴った。
以前なら、アルベルが人を殺すところなど想像もできなかったのだが、今は違う。
笑いながら、朗らかに、誰かの肩に手をおいて、命を奪う姿が想像できる。
アルフレドさんは、黙り込んだ私をじっと見つめていた。
「ここにカエデがいるとバレるのも、時間の問題だな」
「そんな…っ」
思わず私は立ち上がった。
ここにいたら、迷惑になるだけじゃないだろうか。
そんな不安が胸を掠める。
「わ、私、出ていきます」
「どうして」
心底驚いた様子のアルフレドさんに、必死に言い募る。
「ここにいたら、アルベルが来るんでしょう?そんなの、アルフレドさんの迷惑になるんじゃ…!」
「カエデは案外、間が抜けているのか?あんなに、難しい本を理解できるのに」
落ち着け、と手を引かれて、再び椅子に座らされる。
宥めるように両手を握り締められて、思わず顔が熱くなった。
ときめいている場合ではないが、アルフレドさんの大きくて暖かい手に、嫌でも意識がいく。
「俺は奴を捕まえたいんだ。囮のような役目をさせて悪いが、アルベルがここに来てくれるなら好都合だ」
「でも、他の人に危害が…」
「心配ない。屋敷の者には、君と同じ防御の守りを渡してある。死の魔法を掛けられたとしても、気絶か寝込むくらいで済むだろう」
「本当に?」
ゆっくりと頷いたアルフレドさんに、ほっと胸を撫で下ろす。
アルベルが起こす事件は、どうにも私にも責任があるような気がしてしまい、罪悪感を感じてしまうのだ。
じっと黙っていれば、握られていた両手が、アルフレドさんの指にそっと撫でられる。
どうしたのだろう、と見上げれば、悲しそうに彼は笑った。
「君は、アルベル・シャトーが好きなのか?」
なぜ、そんなことを聞くのだろうか。
私が好きなのは、目の前にいるあなたなのに。
けれども、これまでの私の言動を考えれば、そう思われても仕方ないだろう。
アルベル・シャトー。
白銀の髪と、アイスブルーの瞳の、優しい風貌をした異世界人。
私は、彼のことを一度でも好きだと感じたことがあるだろうか。
じっくりと考えてから、ゆるく首を横に振る。
答えは、否だ。
「違いますよ。でも、それなりに好意は持っていました。こっちに来て、何もやることが無くて、アルベルと話すしか楽しいことが無くて。私には、彼しかいなかったから」
向こうの世界にいた時は、大学があって、笑子がいて、バイトをして、アルベルが全てでは無かった。
その時、私は少しでも彼に惹かれただろうか?
いや、一貫してどれだけスキンシップを取られても、彼を好きにはなれなかったし、むしろ、怖いとさえ思っていたはず。
それがどうだ。
こちらに来て、彼と二人きりになって、彼と話すことしか楽しみが無くなった途端、アルベルに流されかけた。
けれども、アルフレドさんに出会い、今思い返せば、あの状況はとても異常だったと断言できる。
家から出してもらえず、手錠をされたまま、満足に自分の面倒も見られない、アルベルに頼りきりの生活。
そう、あれは、異常だったのだ。
「今はもう、彼に対してどういう想いを抱けば良いのか…。ただ、アルベルが本当に悪い人なのか分からなくて、私の中で見限れない部分があるのも確かです」
「そう、か」
珍しくアルフレドさんが、歯切れ悪く言葉を濁す。
私の手を撫でていた指が、止まった。
「それでも、アルベル・シャトーにとって、君はとても大事な人なんだろうな」
「そうでしょうか?本当に大事なら、どうして、こんな刺青…」
「その刺青こそが、執着の証拠だ」
握られた手に、爪の先が白くなるほどに、力が込められる。
大きくて暖かいその手に、何故か小さな不安を覚えた。
「奴が誰かに執着することなど、今まで無かった。それこそ、人間をゴミのように扱い、笑っていた男だ。一体、どれほどの人が奴の犠牲になったと思う?あいつは人の心を忘れた化け物なんだ。その罪は、決して許されない」
苦しそうに顔を歪めるアルフレドさんに、掛ける言葉が見つからない。
私の知っているアルベルは、執着心の強い、心は幼いままに、身体だけが大人になってしまったような人だ。
甘えたがりで、くっつき虫で、怒って乱暴を働いたかと思えば、しおらしく謝ってくる。
大事にされていた、とは言いがたいが、ゴミのように扱われた覚えはない。
俯いてしまったアルフレドさんに、少しでも元気を出してもらいたくて、握られた手に少し力を込める。
それに気付いたのか、彼は顔を上げて、ゆっくりと再び指の腹で撫でてくれた。
「もう遅い。寝ようか」
魔法の光源に反射して、翡翠の色が優しく瞬く。
私は小さく頷いた。
そして、最初に言おうと思っていたことを提案する。
「あのですね、お仕事がお忙しかったら、無理に夜にこうして会うのもどうかと思うんですが…」
「カエデは、俺と話しをするのは嫌か?」
「いえ、そんなことはないですけど」
「それなら、今まで通り続けたい。もし、君の睡眠時間が短くなって嫌だというなら…」
「私は大丈夫です。ただ、アルフレドさんが…」
「アル」
遮られて、私は口をつぐむ。
首を傾げれば、アルフレドさんが、小さく笑った。
「アルって呼んでくれないか?親しい人間は、俺の事をそう呼ぶ」
それは、私も親しい人間に含まれるということだろうか。
嬉しさに舞い上がった私は、こくこく、と何度も頷いた。
「えっと、アル。これでいいですか?」
「敬語も抜けると嬉しいな」
「あ、はい…じゃなくて、うん」
よくできました、と子供にやるように頭を撫でられる。
そして、じゃれ合いながら図書室から出て、それぞれの自室に向かった。
「それじゃ、おやすみ、カエデ」
「おやすみなさい、アル」
小さく手を振って、廊下の前で挨拶を交わす。
去っていく後ろ姿を見つめながら、私は薄くため息をついた。
アル、という愛称呼びを許してくれたものの、完全に子供扱いである。
最初に未成年だと間違われていたこともあり、彼から見たら、私は恋愛対象にもならないのかもしれない。
それでも、少しでも距離が近づいたことは確かだ。
嬉しい、と思う気持ちを抑えられない。
「アル、か」
その愛称に、ちくりと胸が痛む。
努めてそれを無視しようとする私は、薄情だと罵られても仕方ないのだろう。
自嘲にも似た笑いが、口から零れた。




