06
男が帰ってきた時には、時計の針はすでに19を指していた。
アルベルが仕事から帰ってくるのが15だったことを考えると、随分と遅い帰宅だと言える。
「すまない、遅くなった」
悔しそうに口元をへの字にしているが、機嫌が悪いのだろうか。
私は不思議に思いながらも「おかえりなさい」と挨拶しておいた。
そんな言葉が返ってくると思わなかったのか、男は多少面くらいながらも「ただいま」と返してくれる。
当たり前だが、アルベルのように額にキスしてくるようなことは無かった。
「疲れてるなら、お話は明日でも構いませんけど」
ちょっと思いやりを見せて、そう告げてみるが、男は首を横に振る。
「いや、そういう訳にもいかない。ついて来い」
そう促されて、大人しく後に続く。
けれども、一歩踏み出した瞬間に、足の裏の怪我が床に触れてしまい思わず声を出してしまった。
「いたっ」
「どうした?」
先を歩いていた男が振り返って引き返してくる。
私は苦笑いをして取り繕った。
「すみません。ちょっと、足の裏の怪我が痛かっただけです」
「見せてみろ」
「大丈夫ですよ。そんなに酷くないので」
首を横に振ったが、男はしゃがみ込むと私の足に手をかける。
驚いて後ろに仰け反り、転びそうになれば、素早く腰を掴まれて引き戻された。
「大人しくしていろ。どちらの足だ?」
「えっと、あー…右、です」
有無を言わせない口調に観念してそう告げれば、男はドレスの裾をまくって、右足を手に取る。
そして、自身の膝の上に乗せて怪我した箇所を丹念に調べ始めた。
見下ろせば、男の綺麗な金髪が目に入る。
外で仕事をしているのだろうか、少し焼けて傷んでいる髪はアルベルと比べると随分硬そうだ。
無意識に手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。
私は何をしようとしているのだ。
目の前の人物は、今日会ったばかりの他人である。
怪我を見るのに夢中で、相手に気付かれなかったのが幸いだろうか。
「俺の魔術でも、治せそうだ」
するり、と男の指が怪我の部分をなぞった。
くすぐったさに身体が震えたが、足の裏がじんわりと暖かくなったことに、すぐさま気を取られる。
その温度が消えた後、男は満足そうに頷いた。
「問題ないな。傷は消えた」
「え、あ、ほんとだ。ありがとうございます」
片手で右足を掴み、足裏を見てみれば、綺麗さっぱり傷跡がなくなっている。
奇妙な格好をしている私を横目に、男は笑っていた。
「他にも怪我があったら、遠慮なく言うといい。さぁ、行くぞ」
そう言って、連れて行かれた先は、客間のような場所だった。
男は使用人に合図をすると、飲み物を持ってこさせる。
グラスに注がれた液体は、真紅色をしていて、間違いなく赤ワインだと確信する。
こちらの世界にも、ワインがあるのか。
テウの実のような見たことも聞いたこともない食べ物だけでは無いらしい。
異なる世界の中で共通点を見つけたようで、なんだか面白かった。
ぼんやりと男の前にあるグラスを眺めていると、私の目の前にはオレンジ色の液体が置かれる。
「ジュースで良かったか」
「はぁ…まぁ…」
さすがにここで、ワインの方が良いと我儘は言えない。
私がいた世界と同じ味なのか確認したくて仕方がなかったとしても、出されたものを素直に有りがたく頂戴するのが、礼儀というものだろう。
けれども、私の視線がグラスに釘付けになっているのに気付いたのか、男が苦笑する。
「子供にはまだ早いだろう」
「いえ、飲めますけど」
「飲めるのと、飲んで良いというのは、別物だ」
諭すように言われて、私はあれ?と目を細める。
もし、こちらの世界にもアルコールに対する年齢制限があるのならば。
もしかして、これは。
「私、すでに成人してますけど」
そう言ってやれば、男は飲んでいたワインが器官に入ったのか盛大に噎せた。
見ているこちらが可哀想になるくらい、思いっきり咳込んでいる。
「ば、馬鹿言え。そのなりで?」
「21ですよ」
「嘘だろ…」
じろじろと私を探るように見つめていたが、微動だにしない私の顔色に本気を見たのか、男はグラスを机に置いて頭を項垂れた。
「あー、悪かったな。その、いろいろと失礼なことをしたような…」
「いえ、気にしてないです」
匂いの件だろうか。
確かに、子供相手だったと思えば、あの物言いも頷ける。
これについては、アルベルが全面的に悪いはずなので、私は彼を咎めようとは思わなかった。
とはいえ、本人は相当落ち込んでいるらしく、片手で顔を覆って下を向いている。
「成人女性のドレスの裾を捲っただなんて…」
思わずがくっと力が抜けそうになった。
先ほどの、怪我を直してくれた時の方を気にしていたのか。
ミニスカートを捲られたならまだしも、床につく程長いドレスの裾を膝下まで持ち上げられただけだ。
この話題については、おそらく価値観の違いから不毛な言い合いになることが目に見えていたので、さっさと話題を変えた。
「それより、アルベルのことで聞きたいことがあるんですが」
「何が聞きたい?」
「彼の人物像について」
男は、じっと私を見つめて、黙りこむ。
話すか、話すまいか、考えているようだった。
そして、しばらく熟考した上で返ってきた答えは、私の望んでいたものではなかった。
「まず、君とアルベル・シャトーの関係について教えてくれ。それが終われば、話そう」
ここで、嫌だ、と意地を張る必要もない。
私は素直に頷いて、全てのことのあらましを話してみせた。
異世界から来たことも、アルベルが冤罪から助けてくれたことも、こちらに来て、一緒に住んでいたことも、たまたま、禁じられていた外出をした時に、彼の白馬軍団に出会ったことも。
信じてくれるのか、些か不安があったが、話せと言ったのはこの人だ。
私は嘘偽りなく、全てを聞かせてから、彼の判断を待った。
「…なるほどな。道理で数ヶ月の間、足取りがぱったり消えた訳だ」
その結果、すんなりと信じてくれたらしい。
随分とお人好しだな、と思っていたのがバレたのか、男は小さく笑った。
「異世界に行く魔法っていうのは、存在するんだよ。ただ、それを使えるのはアルベル・シャトーくらいだろうが」
「アルベルって、そんなに凄い人なんですか?」
「魔術だけに関して言えば、天才だよ。誰も勝てない」
そんなに凄い人物だったのか。
知り合いが天才だと呼ばれたことに、思わず頬を緩めれば、男は厳しい目でそれを諌める。
「能力だけで言えば、だ。人柄としては最低最悪の部類に入る」
アルベルの人柄の、どこが最低最悪なのだろうか。
いつも優しく笑っていて、怒った時は痛いこともされたが、それでも、その後は真摯に接してくれた。
訳が分からない、と表情に浮かべて男に問えば、小さくため息を吐かれる。
「どうやら、君はアルベル・シャトーにとって、商品という立ち位置では無かったようだな。あの守りの結界は、君のためのものだったのか」
「結界?」
「あぁ。内側から君が破ってくれたおかげで、我々はあの小屋を見つけられたんだ」
どうやら、勝手に外に出たことで、アルベルの守りの結界とやらを壊してしまったらしい。
私が大人しく言いつけ通り家で待っていれば、目の前の男が小屋に来ることも無かったのだろう。
この件に関しては、アルベルに誠心誠意、謝らなければならない。
私は外に出ないという約束を破り、彼の信用をものの見事にぶち壊してしまったことになる。
「あの、アルベルはどうしてますか?」
「君がいないことに気付いて、血相を変えて探し回っているそうだ。奴が逃げ出した商品を追いかけるはずもないからな。このことからも、君が特別だと分かる」
「それ、その商品ってやつ。どういう意味ですか?」
アルベルが戻って来た時の様子を知っているのも気になったが、少し考えれば、部下に見張らせていたのだろうと見当がつく。
そちらよりも、私は商品扱いされる方が謎だった。
「もしかして、アルベルって奴隷商人か何かなんですか?」
「そんな可愛いものじゃないさ」
男は、グラスに入ったワインを煽る。
私もつられるようにジュースを口に含んでみた。
随分とさっぱりした甘さで、酸味は一切ない。
オレンジジュースかと思って期待したら、予想は見事に裏切られた。
どちらかというと、搾りたてのりんごジュースのようだ。
男がグラスをテーブルに置いたタイミングで、私も手にしたグラスを戻す。
「強盗、殺人、恐喝、人身売買、詐欺、強姦…この世のあらゆる犯罪という犯罪に手を染めている」
「…は?アルベルが?」
「見知らぬ者のみならず、血縁者にまで手をかけた非道な男だ。自身の両親を殺害し、姉兄は奴隷として売り飛ばしている。折り紙つきの犯罪者だな」
何を言われているのか、分からなかった。
あの、優しそうな笑顔を浮かべているアルベルが?
そんな、非人道的なことをしてのけた?
「何かの間違いじゃ?」
「全て証拠が上がっている」
「だって、アルベル、そんなことしそうに見えないです」
「あの顔のおかげで、何人の人間が騙されたか。もっと強面の髭面だったなら、被害は半減していただろうな」
私の予想はおおよそ合っていた。
アルベルは、きっと、この世界では周りからの心証が良くない人なのだろうと。
けれども、その罪状があまりに多いことに、驚きを隠せない。
「彼を信じていただろう君には、少し酷だったな。今日はもう、休むといい。寝付けないなら、酒を持って行かせよう」
立ち上がった男が、ぽん、と私の頭を軽く叩く。
子供にするような仕草だったが、我に返るには十分だった。
「あの、ありがとうございます…」
色々と配慮をしてくれる男にお礼を言おうとして、そこで初めて名前を知らないことに気付く。
今更かな、と思いながらも、私は彼に問うた。
「ごめんなさい、お名前は?」
「そういえば、教えてなかったな」
特に気分を害した様子も無く、金髪の男は小さく笑う。
翡翠の目を細めて笑うその様子は、初めて見るものだったが、裏表の無い綺麗なもので、思わず目を奪われてしまった。
「アルフレド・ラックスだ」
よろしくな、と差し出された手を、私はそっと握り返した。




