03
アルベルは、最近家を空けることが多い。
何をしているのか聞けば、当たり前のように仕事、と返された。
それもそうだろう。
私のいた世界ではヒモニート(実際、お金周りはアルベルを頼っていたが)のような彼も、こちらでは立派な社会人。
仕事をせずに、ずっと家にいた最初の数日の方が不自然だったのだ。
「行ってくるね」
「気を付けて。行ってらしゃい」
玄関を出るアルベルに、手錠の掛かった両手を振れば、嬉しそうに額にキスを落としてくる。
最早、これも恒例行事と化していた。
仕事の行きと帰りは、アルベルは必ず私の額にキスをする。
それが嫌だと言えなかった私は、大人しく彼のしたいようにさせていた。
アルベルの後ろ姿を見送りながら、私は家の中へと戻る。
未だにお風呂は入れていなかったので、随分と匂いが気になるが、アルベルに尋ねたところ「いい匂いだよ」と言う返事を頂いた。
あばたもえくぼ、と言うのだから、実際はかなり臭いんじゃないだろうか。
アルベルの贔屓目には、結構参るものがある。
なんとかならないかと、アルベルのいない時間に慰め程度にタオルで身体を拭いたりはしていたが、やっぱり思い切りお湯を浴びて身体の汗を流したかった。
そして、手錠の弊害は色々なところで出ていた。
日常の家事の半分も十分にこなせないのだ。
アルベルの世話になっているだけでは申し訳ないと、何度か掃除や洗濯に挑戦したが、桶をひっくり返したり、洗濯ものを物干しに広げられず、見兼ねた彼にやめてくれと懇願されてしまった。
食事の用意は包丁を持つなんて以ての外とばかりに、最初からアルベルに禁止されている。
おかげさまで、何ひとつやることが無く、私は一日中ベッドに転がるか、ぼーっとしてアルベルの帰りを待つだけだった。
本が読めれば、暇つぶしにはなったのだろうが、残念ながら私には理解できない。
アルベルに、こちらの言語が理解できるようになる魔法は無いのか、と聞いたところ、自分に掛けるのは出来るけど、他人には掛けられないと言われてしまった。
魔法は、万能ではないらしい。
いつしか、私はアルベルの帰りを切望するようになっていた。
家に篭りっきりで、何もすることがないとなれば、楽しみはアルベルと話をすることくらいしかないのだ。
何もせずに、ただ存在するだけ。
なんと怠惰で堕落した生活なのだろうか。
今までの苦労を振り返ると、人生の全てが無駄だったような気がして、やりきれなかった。
20の数字が刻まれている、読み方のさっぱり分からない時計をひたすら眺めながら、私はぼんやりとする。
この時計には針が一本しかなく、ゆっくりと、じわじわと、進むだけなのだ。
アルベルが帰ってくるのは、時計の針が15を差す頃。
今はまだ、7と8の間あたりを指していた。
驚くほどに、時間は有り余っている。
ふと、私の頭の中をいけない考えが過った。
アルベルが帰ってくる前なら、外に出ても気づかれないのではないだろうか。
いつになったら、彼が私を外に出してくれるのか分からないのだ。
置かれている状況が分からない不安に苛まれ続けるよりは、少しでも自分の目で見て現状を把握したい。
そっと玄関に向かって、様子を伺う。
私の靴は無いので、裸足で出るしかない。
そう遠くへ行くわけではないし、ちょっと外を見てみるだけだ。
アルベルにバレやしないし、バレたところで謝れば許してくれるだろう。
すぐに帰ってくれば、問題ないはず。
私はドアノブに手を掛けて、扉を開く。
そして、出てはいけないと言われていた一歩を、思い切って踏み出した。
そこは、窓から見える景色と同じ、深い森の中だった。
裸足の足の裏に、草と土の柔らかさが染みこんでくる。
久しぶりの外の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、とても清々しい気分になった。
調子に乗った私は、もう少し大丈夫だろうと、家の周りをゆっくりと散策してみる。
家の横には花が植えてあり、裏に周れば、水を汲むための井戸があった。
家には水道があったので、植物の水遣り用の井戸だろうか?
アルベルも植物が好きなのだろうか、と考えて、笑子を思い出し、嫌な気分になった。
私は、草花など大嫌いだ。
少し複雑な気持ちを抱きながら、家の周りの探検は終了する。
呆気無いほどに、短い散歩だった。
このまま玄関から家に入って、何食わぬ顔でアルベルを待っている方が良いのだろうが、もう少し外を歩きたい気分だ。
私はアルベルがいつも行ってしまう、玄関前の森の小道をみつめる。
ほんの少しだけ、そう思って、一歩を踏み出せば、もう足は止まらない。
高揚した気持ちのまま、私は小道を辿る。
けれども、その心はすぐに恐怖に支配された。
思っていたよりも、森の中が薄暗いのだ。
ぎゃぁぎゃぁとカラスが頭上で泣き喚き、時折茂みがガサゴソと音を立てる。
これは、アルベルが外に出るなと言うのも頷けた。
一人はもちろん、彼と一緒にいても、こんなにも何が飛び出してくるか、気を張らないといけない場所で、手錠をして動きが不自由な私を伴うのは難しいだろう。
「か、帰ろ…」
ちゃんと、アルベルの言いつけを守れば良かった、と後悔しながら、私は小道を振り返る。
いつの間にか、私達が住んでいる家が見えないほど奥に来てしまっていたらしい。
小走りになりながら、必死に道を辿る。
あれほど、アルベルが注意をしてくれていたのに、ここで熊に襲われたり、蛇に噛まれて死んだりしたら、元も子もない。
申し訳無さ過ぎて、合わせる顔も無いだろう。
幽霊となって、枕元に立つことすらおこがましい。
必死に裸足の足を動かしていた時、枝を踏んづけたのか、痛みが足の裏に走った。
見れば、薄っすらと血が滲んでいる。
アルベルに見つかれば、目を釣り上げて怒られるだろう。
包丁で危ない手つきをした時でさえ、お怒りだったのだ。
怪我などしたと報告すれば、ベッドから一歩も降りるなと言われても不思議ではない。
絶対にバレないようにしよう、と心の中で固く誓った時、遠くで馬の嘶きが聞こえてきた。
「なに?!」
聞きなれない音に、私は思わず身を竦ませて立ち止まる。
どこにそれらがいるのか突き止めようと必死に耳を澄ませた。
何頭もいるようで、盛んに鳴き声がしているが、近づいてくる様子はない。
だが、残念なことに、馬の鳴き声は前方から聞こえていた。
そう、私とアルベルが住んでいる家の方だ。
「なんなのよ」
言い知れぬ不安が、私を襲う。
盗賊か何かが、山奥の家に目をつけたのだろうか?
そうだとすれば、外に出ていた私はラッキーだった?
ぐるぐると頭のなかを思考が駆け巡るが、とりあえず、何が起きているか確かめようと私はゆっくりと来た道を引き返す。
そして、家が見えてきたところで、少々、いや、かなり気は引けたが、小道から外れて茂みに潜った。
靴を履いていないおかげで、足音は立たない。
茂みを揺らす音は、たくさんの馬の蹄の音に掻き消される。
湿った土の感触だけが気持ち悪かったが、そうは言ってられないだろう。
体中が葉と泥に包まれるのを感じながら、今日はもうアルベルにお風呂に入れてもらうしかないと腹を括った。
ずるいかもしれないが、一緒に入る代わりに外に出たお咎めは無しにしてもらおう。
茂みの隙間から覗いたそこから、何頭もの真っ白な馬が家を取り囲んでいる光景が飛び込んでくる。
馬上に座っている人たちは、しっかりした制服を着込んでいて、どうみても粗野な盗賊などには見えない。
どちらかと言えば、騎士のようだった。
先頭に立っている一人が、仕切りにドアを叩いている。
丁寧にしているつもりなのだろうが、誰も出てこない苛立ちからか、多少乱暴な手つきになっていた。
「ーーーー!」
ここからでは聞き取れないが、何かを叫んでいる。
どう言った状況なのか、さっぱり理解できないが、このままでは家に入れない。
ここでアルベルが帰ってくるまで待つか、白馬の集団を宥めて帰ってもらうか。
悩んでいたところで、目の前を這いずり回る、うねうねと大きな赤黒い色の芋虫が目に入ってくる。
その瞬間、私は隠れていることも忘れて叫んだ。
「ぎゃー!」
色気に欠ける声だったのは、仕方がない。
アルベルの好意も吹っ飛んでしまうであろう、酷い声だった。
でも、こんなでかい芋虫は見たことが無かったし、そこに裸足でいる自分が信じられなくて、思わず茂みを飛び出して小道に戻ってしまう。
もちろん、背後から聞こえてきた悲鳴に白馬の集団が気づかない訳もなく。
一斉に、視線がこちらを向いた。
注目を浴びて、途端に冷や汗がどっと吹き出し、背中が濡れる。
「あ…あの、えっと…こんにちは?」
場違いな挨拶をしてみても、誰一人として、にこやかに迎えてくれる者はいない。
全ての人達が、怪訝な目でこちらを眺めていた。
中には腰にある剣に手を掛けている者もいる。
そこで初めて、私はここが自分のいた世界とは違う、そう、異世界なのだと実感した。
途端に恐怖が襲ってきて、へたりと道に倒れこんでしまう。
両手首の手錠のせいで、うまく受け身をとれずに、尻もちをついてしまい、とても痛かった。
そんな私を憐れに思ったのか、扉を苛立たしげに叩いていた人が、他の人を制しながら近づいてくる。
「ーーーーー?」
何を言っているか、さっぱり分からない。
ただ、目の前の人が、キラキラと輝くすっきりした短めの金髪に、翡翠の目をした、やけに整った容姿をしているということは理解した。
色白で、鼻筋がスッと通っていて、とても目元が涼し気である。
均整のとれた身体は、アルベルとは比べるのもおこがましいくらいに、しっかりとした体躯をしており、間違っても折れそうには無い。
しっかりと着込んだ制服の左胸には、いくつもの勲章が下がっていた。
地位の高い人なのだろうか?
何にせよ、白銀の髪の美青年を見慣れた今、これほど感動するまでに素敵な人と出会えるとは思えていなかった。
ありがとう、神様。
ぽかんと口を開けて、よだれを垂らしそうな程に呆けている私の顔は、さぞ間抜けだっただろう。
そんな顔をこの方に見られていたのだと思うと居た堪れない、と後になって、とても後悔した。




