心の隙魔
「もう!!いつまで落ち込んでるのよっ」
友人の真奈美が千歌に言った。
それは一ヶ月前になるだろうか。
とある地方都市の大学に通う千歌。
千歌は同級生で彼氏の拓海と口論になった。
口論の原因は、拓海が他の女子学生と二人きりでいるのを、千歌が偶然目撃してしまったことだった。
千歌はすぐ浮気だと思い込み、拓海に問い詰めた。
拓海は否定したが、千歌はさらに問い詰めた。
ショックと嫉妬の感情が高まり、口論は次第にヒートアップしてしまった。
しかし、拓海が千歌以外の女子と浮気をしていたという事実はなかった。
千歌自身の誤解だった。
千歌は謝ろうと思ったが、感情的になって拓海を問い詰めた手前、なかなか謝るタイミングがつかめずにいた。
拓海は口論の後から、何だかよそよそしくなってしまった。
気まずい関係になってしまったのだ……
こんなはずじゃなかったのに……
拓海の話を信じず、聞かなかった千歌は、その時の自分を後悔した。
千歌は深く落ち込んだ。
心にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。常に虚無感が襲ってくる。やる気が出ない…。何をしても楽しくない…。毎日がつらい…。憂鬱だ。
「男なんてさ、いっくらでもいるじゃん。だから元気出そうよ!!」
真奈美が千歌を励ました。
千歌と拓海の関係は、拓海からの告白から始まった。当初は何となく付き合いだした千歌だった。だが次第に拓海のさりげない優しさや誠実さに千歌は惹かれていった。
拓海はいつしか千歌にとって、かけがえのない存在となっていたのだ。
拓海がいたから頑張れたこともある。助けられたこともある。
拓海だったからこそ、いろんなことを乗り越えてこれたのだ。他の男子ではダメなのだ。
仲直りしたい…でも…
良好だった関係を自分の誤解から崩してしまったと思うと、千歌はますます自分を責め、落ち込んだ。
「あ!!おいしそうなお店あったよ!!今日行かない?」
「…ゴメン、今日バイトなんだ」
真奈美は話題を180度変えた。これ以上千歌が自分で自分を苦しめてしまうのを察知したからだ。
真奈美の誘いは嬉しかった千歌だが、まだ立ち直れそうもなかった。
「ありがとう。」
千歌はそう言うと真奈美と別れ、バイト先へと向かっていった。
千歌のバイトはスーパーのレジ係だ。
スーパーに到着した千歌は、制服に着替え仕事に取り掛かった。
だが千歌の頭の中は拓海のことに対する自責の念でいっぱいだった。
考えれば考えるほど落ち込んでしまう………
負のスパイラルだ…
このまま拓海との関係が終わってしまうと思うと悲しすぎる。
ハァ……
千歌は思わず溜め息をついた。
「何ボーっとしてんだい」
千歌はビクッとした。
見るとお客さんが会計を待っていた。
「すみません!」
千歌は会計を始めた。
でもこのお客さんに千歌は何となく見覚えがあった。
それはすぐに思い出された。
常連客の地元のおばさんだ。このおばさんは、いつもはウザがられるほどに明るいのだが、今日はその明るさがない。
落ち込んで、どこか疲れきっているように見えた。
「………」
おばさんは無言だ。
いつもの明るさや覇気がない。
以前は千歌が要領を得ず仕事をしていると、ウザいほど注意してきたものだが、今日は注意もしてこない。
おばさんは俯き加減で、ただ力無く立っていた。
ズーッ…
ズーッ…
ふと奇妙な音が千歌の耳に入ってきた。
ズーッ…
ズズーッ…
何かを引きずるような、そんな音がする。
音のするほうに顔を向けた千歌。
千歌は音の出所を見つけるとギョッとした。
喪服のような黒い服、白い顔が隠れるほどの黒く長い髪、黒いハイヒール。
黒づくめの異様な女が右足を引きずり、ズズーッと音を立てながら歩いている……。
腕には力を入れてないようで、歩くたび女の腕はブラブラ揺れている。
かなり奇妙で異様な女だ。
あのお客さん、ちょっと怖いな
千歌は思わずそう感じた。
「ちょっと」
おばさんが千歌を急かした。千歌は急いで会計を済ませた。
「…可哀相に。見えんのね……」
おばさんがボソッと呟いた。
やはり元気がないようだ。この常連客のおばさんは普段ならボソボソ喋るタイプではない。
支払いを終えたおばさんは、疲れきったように歩いていく。こんなに元気がないおばさんのほうが可哀相だよ……と千歌は思った。
ズーッ…
ズーッ…
おばさんが歩いて行くと、黒づくめの異様な女は、その跡を追い、右足を引きずりながら一緒に店を出ていった。
おばさんのお連れさんだったのかな
それにしては奇妙な女の人だった。
「あの人、元気なくなったわね。どうしたのかしら?」
千歌の前方のレジで、パートのおばさんと噂好きの地元のおばさんが、千歌が接客した常連客のおばさんのことを話している。
「山田さんでしょ!?一人息子が亡くなっちゃったみたいなのよ…」
噂によると常連客のおばさんは、一人息子を亡くしてしまったらしかった。
おばさんは女手一つで子供を育ててきたらしい。
千歌は、以前おばさんが自分やパートの店員に、一人息子の自慢をしていたことを思い出した。
その可愛がっていたたった一人の息子が亡くなった。いつもの明るさや覇気がなかったのも、それが原因だったようだ………
「おい!!女の人が車に轢かれたぞっ!!」
千歌がその声を聞いたのは、常連客のおばさんの話を聞いたすぐ後のことだった。
スーパーのすぐ横の交差点でその事故は起きていた。
レジにいる千歌もその交差点を見ることができた。
次第に人が集まり、騒いでいる。
「誰かー!!救急車!!」
大きな声が店の外で飛び交う。
何とか車に轢かれた女性を助けようと、応急処置を試みている人達の様子が見える。
そのうち、救急車が到着し女性を搬送していった。
しかし、その女性は助かることはなかった………
その日、あの常連客のおばさんが死亡した……
数日後の休日。
未だに落ち込んでいる千歌を真奈美はおいしいと評判のお店に連れ出した。
真奈美は千歌を気遣い、評判のお店に連れて来たのだ。
「私も誤解くらいするよ(笑)。気にしない気にしない。」
「真奈美、ありがとう」
千歌は真奈美に感謝した。真奈美は千歌を明るく励まし、千歌の心のうちを聞いてあげた。
リラックスできた千歌はだいぶ気持ちが楽になった。だが依然として千歌の虚無感は消えなかった。
まだ心にぽっかりと穴が空いてしまっているようだ。それほど千歌の中では拓海の存在が大きいのだ。
「はぁ〜!おいしかったぁ!」
食べ終えると、千歌と真奈美は会計を済ませ店を出た。
そして千歌は、またもあの音を耳にした……
ズーッ…
ズーッ…
ズズー…
千歌は音のするほうに目を向けた。
道路を挟んだ向こう側の歩道。そこを右足を引きずる黒づくめの女が歩いていた……
あの人、この前の……
黒づくめの異様な女の前にはサラリーマンらしい男性が歩いていた。
どうも女はサラリーマンの男性に付いて歩いているようだ。
あの人、常連客のおばさんにも付いて歩いてたけど何なんだろ……
「ちょっと!千歌?!どうしたの?」
向こう側の歩道を凝視する千歌に真奈美が心配そうに声をかけた。
「ねぇ、あの女の人……。ちょっと気味悪くない?」
「どの人??」
「ほら、あそこに……」
指を指したその先には、既に女の姿はなかった。
千歌は女の特徴を話したが、真奈美はそのような女を見なかったという。
「ズーって足を引きずる音も聞こえなかった?」
「聞こえなかったけど」
千歌には女の足を引きずる音が聞こえたのだが、真奈美には聞こえなかったようだ。
女が歩いてたのは向こう側の歩道だった。音が聞こえなくても無理はないかもしれない。千歌はそう思った。
「さてと。これからバイトだから、また明日ね〜。あまり自分責めちゃダメだよ〜」
バイトが夕方に入っている真奈美は、明るく千歌を励ますと歩いてバイト先へ向かっていった。
「ありがとー」
千歌は、バイトがある日でも自分の為に時間を割いてくれた真奈美に感謝を伝え、手を振った。
そして自分のアパートに帰るため、千歌は駅に向かった。
ホームで電車を待つ最中、千歌は拓海に電話しようか迷っていた。
仲直りしたいと思っているのだが、踏ん切りが着かない……
こんなはずじゃなかったのになあ……
千歌はこうなってしまった原因を考えるとまた弱気になってしまった。
スマホをトップ画面に戻しバッグにしまった。
千歌はふと顔を上げた。
「!!」
千歌は思わず声が出そうになってしまった。
あの女が向かいのホームに立っているのだ。
サラリーマンらしい男性のすぐ隣に立っているその女は全く微動だにしない。腕をだらーんと垂らし、男性を凝視している……
不気味だ……
あの男性は異様な女にまじまじと見つめられて何とも感じないのだろうか、気にするようすもなく俯き加減で立ち、電車が来るのを時々気にしている。
普通凝視されれば、場所を移す等の対処に出たりするのだが、男性は動こうとしない。
女は男性を凝視し続け、時が止まっているかのように全く動かない。
千歌はその異様さから、目を離せない……
"三番線、特急電車が通過します。黄色い線の……"
あの女がいるホームに特急電車が近づいてきた。
特急電車はこの駅を通過するため速度を落とさず、女がいる三番線に迫ってきた。
そして特急電車が三番ホームを通過しようとしたその時………
女が凝視していた男性が線路内に飛びこんだ……………………
え!?
千歌は思わず目を背けた。
千歌は一瞬混乱したが、何が目の前で起きたのかわかるまでそう時間を要さなかった。
特急電車のけたたましいブレーキ音が鳴り響く。
「お、おい……自殺だ!」
叫び声がホームに轟いた。
駅は騒然となった。
千歌は恐る恐る目を向けた。
けたたましいブレーキ音を響かせた特急電車は、かなり遠くでようやく停車していた。
血らしき赤いものが散らばっている……
千歌の目の前のホームで、飛び込み自殺が起きたのだ…。
千歌は恐怖と混乱で、ただ茫然と立ちつくしていた。
飛び込みが起きた向かいのホームに、駅員が駆け付けてくる。
あれ……あの女の人は!?
千歌はふとあの女の姿が見えないことに気づいた。
女はいったい何のために男性を凝視していたのだろう。常連客のおばさんにも付いて歩いていた…
あの女の人は何なのだろう…
向かいのホームを目で探した千歌だったが、そこには既にあの女の姿はなかった……。翌日、大学の中庭で千歌は涼み休んでいた。
「昨日、大丈夫だった?」
真奈美がやって来て千歌に聞いてきた。真奈美は事故のことをニュースで知ったようだ。
「大丈夫じゃないよ!まだ怖いよ…」
千歌はそう言った。
大丈夫なわけがない。目の前で衝撃的な事故が起きたのだから……
今でも飛び込む瞬間が思い出される…
そしてそのすぐ隣で微動だにせず男性を凝視していた女のことも……
「真奈美…、そう言えば変な女の人がいたの…」
千歌は真奈美に話した。
昨日、真奈美との別れ際に見た女が駅のホームにいたこと。
その女が男性を凝視していたこと。
男性が電車に飛び込んだ後、女が忽然と姿を消したこと。以前もバイト先で女を見かけたこと。
「ねぇ、何か怖くない?」
千歌は女のことを話すと、真奈美に聞いてみた。
「偶然その人がいただけなんじゃないかな?」
真奈美は偶然だと思ったようだ。
偶然と言えば偶然かもしれないが、それにしては気味が悪すぎた。
女に付いて歩かれた常連客のおばさんと男性。彼らは二人とも死んでしまったのだ。
千歌はただの偶然ではないような気がしていた。
ズーッ…
ズーッ…
千歌はビクッとした……
まただ……、またあの音がする………
千歌は目を見開き、音を警戒するように神経を耳に集中させた。
「ちょっと千歌!?千歌?どうしたの?」
真奈美が心配そうに千歌に声をかけた。
「聞こえる……、ズーって音が聞こえない?」
千歌は真奈美に聞いた。
真奈美も耳をそばだて、目を閉じた。
「何も聞こえないよ…」
真奈美は聞こえないという。そんなはずはない。二人のかなり近くで音がしている。千歌が聞こえるなら、真奈美にも聞こえるはずなのだが………
ズーッ……
ズズーッ…
ズーッ…
……後ろから来てる
その音は千歌の背後から聞こえてきている。
だんだんと近づいてきているのがわかる。
千歌は脂汗をかきながら、その音を聞く。千歌の心臓はバクバクとなり、緊張が高まる。
ズーッ…
ズーッ…
その音は千歌のすぐ背後に迫った…
千歌は思い切って振り返る決心をした。
そして振り向こうとした瞬間、
黒い服が千歌のわきを通り過ぎた…
「キャッ…」
千歌は思わず声が出た。
心臓が一瞬止まりそうになるほど、ドキッとした……
「あの人だよ!!あの人!」
千歌はすぐ真奈美のほうに振り向き、今通り過ぎた黒い服を指差した。
「あれって…遠藤って人だっけ??」
真奈美の言葉を聞いた千歌は、自分が指差すその黒い服に振り向いた。
それは黒い服を来た遠藤とか言う男子大学生だった……
「千歌、あの人?」
真奈美が聞いてきた。
「……違う」
千歌が答えた。
「あの人、確か遠藤って言うんだけど、留年ばっかしてるんだって。最近ノイローゼになったとか言ってたけど、大学来てるね」
真奈美がその男子大学生のことを話した。
遠藤という学生はノイローゼにも関わらず大学に来ていたが、ノイローゼが治っていないのかオドオドしながら元気なさそうに歩いていく。
「千歌、あの人と見間違ったんじゃない?」
そんなはずはない。
確かに千歌が見たのは女だった。黒い髪は長く、白い顔が隠れるほどの長さだったし、黒いハイヒールを履いていた。歩き方も右足を引きずり、腕に力を入れずブラブラさせながら歩く不気味な歩き方をする。
見間違うはずがないのだ。
「見間違いじゃないよ!!」
と千歌が言ったその時、
ズーッ…
ズーッ…
あの音が千歌の横を通り過ぎた……
千歌が急いで音の先を見る。
あの女がいた…
ズーッ…
ズズーッ……
ズー…
右足を引きずり、独特な歩き方をするあの女だ…
「真奈美、ほら!!あの人!足引きずってる人!!」
千歌はその女の背中を指差した。
「そんな人いないよ……」
そんなわけがない。
特徴あるその黒づくめの女がわからないわけがない。その異様さと奇妙さは、周囲の環境から明らかに逸脱している。
一目でわかるはずなのだ。
「よく見てよ」
千歌は真奈美に再度その女を指差した。
「そんな女の人、いないよ……」
真奈美の言葉は変わらなかった…
真奈美は私をからかっているのか
千歌は一瞬そう思ったが、真奈美はそんなことする友人ではない。
それでは真奈美は本当にあの女が見えないということになる。
すぐそこを歩いていく異様な女。
千歌には見えるのに、真奈美には見えないと言う。
まさか………
そう思うと、千歌は背筋がゾッとした。
千歌に見えるあの女は幽霊なのだろうか?
「千歌、拓海くんのこととかで疲れてんだよ。幽霊なんかいるわけないし、たぶんそれ見間違いだよ」
真奈美は幽霊を信じるタイプではない。千歌もそうだ。
だが真奈美には見えない女が、現にすぐそこを歩いて行っているのだ。見間違いなどではない。
真奈美に見えないということは幽霊ということになる…。
だが千歌には霊感などの能力はない。
なんで私には見えるの…
千歌は、なぜ自分があの女を見ることができるのかわからない。
よく心霊スポットに行ったり、降霊術をおこなったりすると霊感を得ると言われることがある。
だが千歌はそのようなことはしていない。
千歌は疑問が募るばかりだ。
あの女はいったい何なのか…。なぜ真奈美には見えず、千歌には見えるのか…。ズズーッ…
ズズーッ…
女は右足を引きずりながら歩いていく。その女は遠藤という学生のあとをつけているようだ…。
遠藤が大学の校舎内に入る。
その女も遠藤のあとを追い校舎内に入って行った。
キャァァーーーーーーッッ
凄まじい叫び声が突如聞こえた。
「え?何!?」
真奈美が驚いて回りを見回す。
中庭にいた他の学生も立ち止まり、叫び声のしたほうを振り向く。
その叫び声は、遠藤とあの女が入って行った校舎からだった。
千歌と真奈美は、その校舎へと急いだ。
校舎入口に着くと、一人の女子大生がうずくまっていた。
その先には遠藤が倒れていた。
遠藤は白目を向き、泡を吹き痙攣している……。
しかしそこにはあの女はいなかった。
「救急車、救急車…」
真奈美が慌てて救急車を呼んだ。
他の学生も次第に集まってきた。
「何があった?!」
怖がってうずくまっている女子学生に事情を聞いている。
「……急に苦しみだして、倒れた……」
女子学生は震えながら涙ながらに答えた。
女に付いて歩かれた遠藤という学生…。彼もまた被害に遭った。
…偶然じゃない…
千歌は確実にそう感じた。しかしなぜ遠藤に付いて歩いていたのかわからない…。
そして忽然と姿を消す女…。
「ねぇ、この人が校舎に入ったとき、もう一人誰か入って来なかった?」
千歌はうずくまる女子学生に尋ねた。千歌は聞かずにはいられなかった。
「…この人だけだった…。」
やはり、あの女は自分にしか見えないようだ……
ということはやっぱり………
でも、どうして私にはあの女が見えるの……
"可哀相に…。見えんのね……"
不意にあの常連客のおばさんの言葉が思い出された。
千歌の背筋は再び凍り、鳥肌が立った…。
千歌は言いしれぬ恐怖を感じていた……。
………
常連客のおばさんが死んだ………
サラリーマン風の男性が死んだ……
男子大生の遠藤も、後日搬送先の病院で死亡が確認された……
原因不明の突然死だったようだ……
彼らはあの女に付いて歩かれ、最終的に死亡した……
…もしかして…私も!??…
千歌にはあの女が見える。自分も被害に遭うのかもしれない。そう考えるといても立ってもいられなくなった。
千歌は彼らの共通点を考えた。女に付き纏われる理由があるはずだ。
性別?
いや、性別は関係ない…
年齢?
これも違うと思う…
心霊スポットに行った?
呪い殺された?
職業は関係ある?
怨まれてた?
蚊を殺したから?
千歌は様々に考えたが、三人と千歌の共通点はわからなかった。
そうだ!!この土地に何か因縁があるのかも!!
千歌はわずかながらの希望を持って、大学を一日休み、市の図書館へと向かった。
千歌は図書館に到着すると、すぐさま郷土史や新聞を読みあさった。
土地の歴史、宗教、伝統、しきたり、事件事故。
関係あると思われるものは、片っ端から読み潰した。
だが、女に関する有力な情報を得ることはできなかった。
唯一得た情報は、
先日特急電車に飛び込んだ男性は借金を苦にしていた
、ということだけだった。
既に図書館に来て九時間が経過していた。まる一日、調べたが共通点や女のことはわからずじまいだった。
十七時。
日は西に傾き、街はオレンジ色に染まっている。閉館した図書館を出て、千歌は仕方なく家路につくことにした。
それでも千歌は諦めたくなかった。
女はなぜ付き纏ってたのか…
なぜ千歌には女が見えるのか…
ドンッ
「痛っ!」
考えこんで歩いている千歌に、誰かが当たってきた。
それは四十代くらいの男性だった。
男性は急いで走ってきたらしく、息を切らしている。
そして慌てた口調で千歌に尋ねてきた。
「ね、姉ちゃん!て、て、寺どこだ?」
男性は息を切らしながら、寺の場所を千歌に聞いてきた。
いったいこんなに慌てて、寺に何しにいくつもりなのか。
「ど、どうしたんですか?」
千歌は聞き返した。
「お、俺よ転勤でよ…左遷させられてよ…、落ち込んでよ、…弱気になってよ……虚しくてよ……」
男性は千歌の質問に答えていないようだ。取り留めのない話をしている。
弱気になったから寺に行くとでも、この男性は言うのだろうか。
千歌はこの男性を気味悪く思い、早急に寺のある場所を教えることにした。
「お寺はですね…」
千歌が男性に寺の場所を教えようとした、その時………
ズーッ…
ズズーーッ…
ズズズーーーーッ…
あの音がした。
そしてその音の出所は、
あの女だった。
千歌は背筋に寒気が走った。
女は千歌のほうに向かって歩いて来た。
右足を引きずり、歩くたび垂らした腕をブラブラさせ、喪服のような黒い服を来た長髪の黒づくめの女が、千歌に迫ってくる。
心臓の鼓動が速くなる。
脂汗が滲み出る。
足がガクガクと震え出した。
女から目を逸らしたくても、逸らせない。
「き、きき、来たあーーーッ!」
叫び声を上げたのは、男性だった。
どうやらこの男性にはあの女が見えるらしい。
男性はブルブルと震え、怯え出した。
「あ、あ、あ、あの野郎、心の弱みに付け込みやがって…」
男性はそう言うと再び走りだした。
ズー…
ズー…
…………
ズズズズズズズズズズズズズズズーー……
女は今まで千歌が見た中で最も速く歩き、千歌を通り過ぎあの男性を追いかけだした。
それはまさに、この世の者ではなかった。
千歌は男性と女から目が離せない…
どんどん走っていく男性と女。しかし男性は既に走り疲れ、へたっている。
男性が改装工事中のビルの横を走り抜けようとした時だ。
…女に追いつかれた…
その瞬間、改装工事の鉄筋が男性の頭上から落ちて来た。
鉄筋が地面に勢いよく落ち、衝撃音が轟いた。
あの女………死神だ…
千歌はそう思った。
自分の死が近いとでもいうのか…
千歌は死神が見える理由がわからない。自分もあんなことになるのだと思うと、血の気が引いた。
鉄筋の下敷きになった男性。
駆け寄る通行人。
次第に騒がしくなる周囲。
そしてあの女は、男性が下敷きになっていると思われる場所に立っている。
やはり他の人には女が見えていないようだ…。
あれ?
いつもと違う……
電車に飛び込んだ男性のときも、遠藤のときも女は忽然と姿を消した。
それなのに、今回は姿を消していない。
千歌は胸騒ぎがした。
すると女は、ゆっくりと身体を千歌のほうに向けた。
白い顔を覆うほどの長い黒髪。かろうじて見える無表情の口。それが歯を出してニッと笑った。
…次は私だ…
そう直感した千歌は、急いで逃げ出した。
殺される……。お祓いしてもらわなければ……。
ズズーー…
ズズーズズー……
背後から足を引きずる音がする。
女が追いかけて来ている。
千歌は、とにかくあの女を祓ってもらうため、寺に向かうことにした。
あの男性も寺に行こうとしていた。男性が寺に行こうとしていたのは弱気になったからではなく、お祓いしてもらおうと考えたからだ。
弱気?虚しい?
男性が言っていた言葉だ。落ち込んで、弱気になって、虚しくなって……
…共通点だ。
常連客のおばさんは一人息子を亡くして、
電車に飛び込んだ男性は借金で、
遠藤は留年ばかりで、
先程の男性は左遷で、
そして千歌は拓海との関係で、それぞれが落ち込み、疲れ、虚しくなり、弱気になっていた。
千歌たち五人は、心に隙をつくっていたのだ。
心の弱みに付け込まれた?
千歌は、あの男性が言っていた言葉を思い出した。
そして女に付き纏われる理由がわかった。
…女は心が衰弱しきって、隙だらけの私達を狙ってたんだ……
女は千歌たちの、心に空いた隙間を狙っていた。その弱みに付け込み、女は死に誘っていたのだ。
まさに死神だ。
千歌の弱って隙だらけの心が、あの女を引き寄せてしまったのだ…。
原因はわかった。今はとにかくお祓いしてもらわなければ助からない。
ズーッ…
ズーッ…
寺へ急ぐ千歌。その千歌の数百メートル先の路地から女が出てきた。
嘘!?後ろを追ってきていたはずなのに……
千歌はますます恐怖にかられた。
女はまるで先回りしたかのようだ。先の路地から出てきて千歌に迫ってくる。
先回りされ、女から逃げなければならない千歌は、寺に行くことができない…。千歌は引き返し、一人暮らしの自宅アパートに急いで逃げ込むことにした。
日が暮れかける街。
次第に闇に包まれていく。薄暗くなった住宅街には、逃げる千歌と追いかけて来るあの女しかいない。走り逃げる千歌は、時折後ろを振り返る。
ズーッ…
ズズーッ…
ズーズズー…
女はどこまでも追いかけてくる。
千歌は必死に走って逃げる。
唯一の助かる道まで奪われてしまった。
だが捕まるわけにはいかない。死にたくない。
千歌は逃げるしかない。
ブーーー
ブーーー
ブーーー
走り逃げる中、千歌のスマホが鳴り出した。誰かから電話のようだ。
千歌は走りながら、急いでスマホを取り出し電話に出た。
「あ…千歌、俺だけど…」
それは拓海からの電話だった。千歌は必死に助けを求めた。
「助けてっ!!拓海助けてーっ!!!」
千歌は涙をこぼしながら、必死に叫んだ。
自分だけにしか見えない女。拓海に助けを求めてもどうにもならない。しかし千歌は助けを呼ばずにはいられなかった。恐怖に堪えられなかった。
「……し…も…千……うし…歌…」
拓海の声が途切れる……。電波が悪いのか弱いのか、拓海とうまく話せない。
「拓海っ!!助けてっ!!」
「……………………」
とうとう途切れ途切れ聞こえた拓海の声も聞こえなくなってしまった。
ノイズ音がジーージーーと鳴り出し、最後には電話が切れてしまった。
スマホ画面を見ると圏外になっている。
あの女の仕業に違いなかった。
千歌は涙を拭き、アパートへと急いだ。
女はあの音を立て、しつこく千歌を追いかけてくる。
千歌は必死に走り、ようやくアパートが見えた。
階段を駆け上がり、二階の自宅へ逃げこんだ。
全ての鍵を内からかけ、ベッドのふとんを頭から被った。
千歌はブルブル震えながら、ふとんに隠れていた。
それからしばらく隠れていたが、あの足を引きずる音はしてこない。
女は諦めてくれたのだろうか…………
千歌は様子を伺おうとした……。
ピーンポーン
不意に玄関のチャイムが鳴った。千歌の心臓は破裂しそうだった。あの女だろうか。
恐怖で動けない。
ふとんから千歌は抜け出せない。
千歌はその場から動かず、玄関のほうの様子を伺い続けた。
ガチャッ
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ…
ドアノブが壊れそうなくらいに音を立て回りだした。誰かが執拗にドアノブを回し、ドアを開けようとしている。
千歌はふとんに潜り込み、耳を塞いだ。
そして心の中で女に向かって叫んだ。
死にたくない!!私はまだ死にたくない!!だから消えて!!消えて!!
必死に心の中で叫び続けた。
どれくらい時間が経っただろう…。
気がつくと、部屋は静まり返っていた。
チャイムもドアノブを回す音もしていない……。
女はついに諦めたのか、
あの音は全くしない。
助かった?……
ふとんから恐る恐る顔を出した千歌。
薄暗い部屋を見回したが誰もいない。
良かった、助かった…
千歌はホッと胸を撫で下ろした。
…ガチャン
玄関のほうで微かに音がした。
その音は明らかにドアが閉まる音だった。千歌は部屋に戻ってきたとき、確かに内から鍵をかけていた。
ドアを開けられるはずはないのだが……。
千歌は玄関のほうを覗いてみた。
日が届かない玄関は暗くてよく見えない。
千歌は目を凝らしてよく見た。その時、玄関のドアのところで何かの影が動いた……。
その影が動くと、
ズッ…
ズッ…
と音がした。
あの音だった。
あの女は既に千歌の部屋に入って来ていた…。
「キャッ」
千歌は立ち上がり、女から距離を取るため後ずさりする。
ズッ…
ズッ…
女はだんだんと千歌に近づいてくる。
千歌は怖くて声を出せない。ガクガクと身体が震えている。
後ずさりした千歌は窓に突き当たった。もう距離を取ることができない。
女はどんどん千歌との距離を詰めて来る。
ズッ…
ズッ…
消えて!!消えて!!死にたくない!助けて!!
恐怖で声が出せない千歌は心の中で叫ぶが、女は消えずますます千歌に近づいてくる。
薄暗い部屋の中で、女の顔が見えた。
黒い髪に隠れた顔。かろうじて見える無表情な口。
その口が再び無言で笑った。
口を開けて不気味に笑って、千歌に近づいて来る。
殺される……
逃げなきゃ…
千歌は窓を開け、ベランダの柵を乗り越えた…。
そして千歌はアパートの二階から落ちた……
「千歌!……千歌!!」
千歌はゆっくりと目を覚ました。
拓海が千歌を心配そうに見つめていた。
「気がついたか…良かった」
拓海が千歌を見てそう言った。
どうやらここは病院のようだ。
アパートの二階から飛び降りた千歌は、下の植木がクッションとなり幸運にも助かった。
そして電話の後、急いで駆け付けた拓海によって見つけられ助けられたのだ。
「…女は!?」
千歌は女のことを思い出すと、病室を隈なく見回した。
しかし、そこに女の姿はなかった。
「…ごめん、千歌。…心配かけて…」
拓海は千歌に謝った。
口論のあと、千歌にいろいろと悩ませてしまったことを拓海は反省した。
医者によると、千歌は心身ともに衰弱しかけていたとのことだった。
「私も…、拓海の話…ちゃんと聞かなかった…。ごめん」
千歌も拓海の話を聞いてあげなかったことを謝った。
千歌はようやく謝ることができた。
一ヶ月続いてきた千歌と拓海の気まずい状態は、ここでようやく終結した。
仲直りすることができた千歌は、ホッと一息ついた。
「千歌ーー!!」
病室に慌てて真奈美がやってきた。
真奈美は千歌の様子を見ると、涙を流しながら良かったと安心した。
「真奈美も、みんなも、千歌のこと心配してたぞ。」
拓海が言った。
千歌が大学を休んだことをみんな心配していたらしい。拓海も心配し、あの時電話してくれたようだ。
そして千歌がアパートから飛び降りたことも……。
千歌は、自分のことを思ってくれている人達がいることを改めて認識し、心が暖かくなった。
「心配かけて本当にごめんな…千歌。」
拓海は千歌に何があったのかは聞かなかった。
千歌は拓海の言葉を聞くと、落ち着き安心した。
誰しも落ち込み、悩むことがある。千歌もその一人だった。
たがそれには限度というものがあるのかもしれない。
苦しみから抜け出せなくなり、いつしか心身が疲れきる。
その時をあの女は待っているのだ。
心の隙間を見つけだし、その弱みに付け込むあの女。死に導ける獲物を、今もどこかで狙っているだろう。
世間で起こる事故や自殺。もしかすると、あの女が関係しているのかもしれない。
それから千歌はあの女を見ていない。
だが今でも時折、遠くにあの音が聞こえるのだという……