春の章-12 泥棒?
自主鍛練を終えて自室に戻ろうとしていた秋姫は、がたがたという物音に足を止めた。
時刻は八時を少し過ぎたところ。日は長くなりつつあるとはいえ、月のない今夜はいつもより闇が深い。
昼間は多くの人が駆け回るこの屋敷も、夜になるとほぼ無人になる。そこに目をつけた泥棒だろうか、と考えてから秋姫は一人首を横に振った。この屋敷の住人は皆、腕に覚えのある者ばかりだ。道場も経営しているし、最近テレビにも取り上げられただけあってそれは周知の事実と言えるだろう。いくらこの羽城邸がここらでも群を抜いた資産家であるとはいえ、達人クラスの武術家が悠々と闊歩するこの屋敷に好んで忍び込む者がいるだろうか。ましてや、今は普段の住人である羽城ファミリーに加え次期候補である自分達もいるのだ。泥棒も回れ右で帰っていくに違いない。
しかし、世の中に絶対にありえないことなどない。
もし本当に強盗だったら、自分一人で大丈夫だろうかと不安を感じながらも秋姫はおそるおそる襖を空けて、真っ暗な部屋を覗き込んだ。暗闇で動く影は男性のものだ。しばらく目を凝らしてから秋姫は、それが泥棒や不審者ではなく見知った幼馴染みであることに気がついた。知らずに力を込めていた拳を緩め、紛らわしい行動をしている彼に声をかけた。
「冬牙?何してるの?」
箪笥の引き出しを開けてはしめ、開けては閉める冬牙は泥棒並に不審である。
「…秋姫か」
そう振り向いたその顔も、廊下の明かりで辛うじてわかるだけだ。こんな時間に真っ暗な部屋の中で何をしているのだろう。不思議に思った秋姫は部屋の中ほどまで進んで、暗闇のなか右手をふらふらと泳がせる。
そうして探り当てた電気のヒモをつんと引くとジャージにTシャツ姿の冬木がくっきりと浮かび上がった。
若干汗ばんだ背中は稽古の後であることを物語っている。秋姫は左腕に不自然巻かれたバンダナに目を止めた。よくあるペイズリー柄ではなくて可愛いキャラクターがついたお土産品のようなバンダナだ。とてもファッションで巻いているようには思えない。それに手を伸ばして軽く触れると、冬牙はほんの一瞬、顔を歪めその手を振りほどいた。秋姫はその様子にピンときた。
「怪我したの?」
冬牙は再度手を伸ばそうとする秋姫からするりと身を躱す。
「大した事ない」
答える声はどことなく固い。
「腕、痛めたの?」
「いや、ちょっとした打撲だ」
再び自分に背を向けて箪笥に向かう冬牙の左手からするりとバンダナを抜き取って、秋姫は瞳目した。
「うっわぁ」
その左腕の肘より少し下の部分が広範囲に渡って赤紫にに変色している。他の三人ほどではないとはいえ、十数年武術を学んできた秋姫も試合や鍛練で青痣や擦り傷を負うことはある。しかし、目の前のこの痣をつくるほどの衝撃を思いおもわず、自分の右手を押さえた。果たして、自分にはこれが受けきれたであろうか。いや、受けられるくらいでなければ勝てないのかもしれない。
「やめておけ」
心を読んだかのような言葉に秋姫は一瞬びくりとした。
「折れるぞ。そんな細腕じゃ」
冬牙は正しい。現実的に考えれば当然そうなるだろう。うっかり受けて、骨を折るようなことになればこの選抜を勝ち抜いて総領の座を手にするのは難しくなる。実質、リタイアだ。それは秋姫にとっても避けたい事態だ。しかし、冬牙の言葉に不安を感じた秋姫は、その腕に再び手を添えた。
「おい」
痛々しく内出血し、腫れた腕を探って、折れてはいないことを確認してほっと胸を撫で下ろす。
「離せ」
「ごめん」
見上げた冬牙の顔がほんのり赤みを帯びていることに気がついて、秋姫は慌てて手を離した。
「用がないなら、去れ。俺は、やることがある」
と、冬牙は再び箪笥に向かう。よくよく見れば怪我した腕を庇いつつ、箱状のものを見つけては片っ端から空けている。
探し物は薬箱だったのかと思い当たった途端に吹き出した。冬木は突然笑い出した秋姫に訳が分からずにただ眉根を寄せる。
「薬箱は箪笥の中にはないと思うよ」
もっともな言葉に、後ろ手で箪笥の引き出しを閉める冬牙を見て秋姫はまた楽しそうに笑った。
秋姫はこちらに越してきてから既に何度か薬箱の世話になっていた。それは鈍った体と自分の未熟さによるものであったし、決して誇れるものではないのだが、今この場においては幸いなことだと思う。
隅の扉付きの棚の中段から薬箱をとりだした。かなり大振りな木箱である薬箱には定番の赤い十字がついているわけではなく、パッと見はそれとはわからない。ぎっしりと包帯やら傷薬やらが詰まった薬箱は重く、なんとか棚から取り出すと、それを横から冬牙が奪っていった。ガタゴトと音を立てて湿布薬を取り出している。
しかし、片手では湿布薬のシートをうまく剥がせずに左手の指にくっつけ子どものように奮闘している。その光景も普段は到底見ることのできないものであり、それを見た秋姫はまた笑い出しそうになるのを必死に堪えながら助け船をだした。
「貸して。利き腕に貼るのは大変でしょ」
その言葉に今度は素直に腕を差し出した冬牙は。
「済まない。」
と言った。
その腫れた腕に湿布薬を貼りながら、自分が一人で稽古をしている間に、同じ土俵に上がる友人はこんなにも酷い怪我をするほどのことをしているのかと、秋姫は思う。今回は違うが、いずれ戦うこともあるだろう幼馴染達。秋姫はその実力が恐ろしかった。それでも、この選華の儀、勝たなければならない。
あさっての方向を向きながらもおとなしく手当てを受ける冬牙に秋姫は恐る恐る聞いた。
「稽古で怪我したんだよね?誰の攻撃を受けたらこんなことになるの?」
しばらく待っても、答えは返ってこない。こんな至近距離だ。聞こえていないはずがない。
冬牙にこれだけの深手を負わせた相手に興味が沸いた秋姫は、さらに問う。
「春流かな?男同士だと容赦ないとか…」
返ってきたのはやはり沈黙で、しかし灯りの下の冬牙は明らかに動揺していた。もしや、と思いもう一人の幼馴染の名を挙げると冬牙はピクリとも動かなくなった。あぁ、なるほどと思う秋姫だったが、それ以上何かを言うことはしなかった。
「これで、大丈夫、かな」
たっぷり二枚分の湿布を筋肉のついた右腕に貼って、固定用のネットをかけた秋姫がそう言うと冬牙はぼそりと礼を言って立ち上がった。
「秋姫、このことは二人には黙っておいてくれ。」
「言ってなかったの?」
秋姫は呆れたというふうに、声を上げた。これだけの怪我だ。試合で負ったのだとしたら周りが気がつかないなんて、衝撃で感覚が麻痺して痛みを感じなかったか、それともよほどのポーカーフェイスなのかのどちらかだ。もちろん秋姫は後者のほうだという自信があったが。
「いいけど、これ、一日で完治は無理だよ。明日もこのまま稽古するのはきついんじゃ?」
「問題ない」
「問題ない、って」
呆然とする秋姫を置いて冬牙は自室に戻っていった。
秋姫は、あのくらいタフでないとやっていけないのかと真剣に考える。
―――やっぱり、一緒に稽古できるの日は遠いな。でも、タフさって、どうやって鍛えるんだろ?マラソン・・・?
ちなみに次の日、夏月と春流が冬牙からの初白星を奪うことに成功したのは言うまでもない。