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亡国のカルマ  作者: rabbit
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黒塗りの車

 ラジオから流れて来る音楽は、どれも似たり寄ったりで、大衆受けを狙った中身の無い薄っぺらい音楽だ。ただ一つを除いては……。

 風間祐介は心の中でそう吐き捨てながら、それでもラジオのチャンネルを変える事無く、流れてくる音に耳を傾けていた。

 彼は、既に三十分以上もこうして車内の運転席に座って、何食わぬ顔で音楽を聴いている。肝心の待ち人は来る気配もなく、だからといって、運転席を倒して寝て待つわけにもいかなかった。

 高級料亭のすぐ傍に停車する風間が乗る黒塗りのレクサスは、通行人の好奇心の恰好の的で、どこぞの政治屋かお大尽か、はたまた官僚様でも来ているのだろうと、その軌跡を求めて行き交う人が車内を覗いていく。

 中には車内を物色するようにいつまでも覗く不届きな輩もいたが、それでも、防犯のために窓ガラスがグレー色になっているから、思うほど車内を見れるわけでもないだろうと、風間は気にしないようにしていた。

 こうして辛抱強く待ってはみたものの、さすがに一時間以上が経った頃には出直した方が良さそうだと思い直して、風間は一度、車庫へ戻る事にした。

 赤坂見附から霞が関に向かって国道四〇五号線を真っ直ぐに進んで行く。特許庁前の交差点を通り過ぎると、文部科学省のある霞が関コモンゲートの駐車場の表示板が見えてくる。左折して駐車場に入り、そのまま駐車場を横切って反対側へ出る。これは、官用車の運転手の間では当たり前のようにされていた。

 というのも、財務省上交差点は平日右折禁止なものだから、右折するには、六本木通りを国会前交差点方面に直進し、次の外務省上交差点のところでUターンするしかない。これが非常に不便であるので、合同庁舎へ向かう場合は、皆同じように他省の駐車場を横切って行った。

 緩やかなカーブに沿って合同庁舎の地下駐車場に入る。

 入口のすぐ左にある洗浄ホースを使って、伊藤三汰がシャツの両腕を捲し上げてゴム長靴を履いた姿で、熱心に愛車を洗っていた。

 伊藤は風間が運転するレクサスに気付くと、手を振って風間を呼び止めた。

「なんねぇ、祐ちゃん。終わったのかい?」

「お疲れ様です、三さん。風祭事務次官はまだ会食中のようでして、待ちくたびれたので戻ってきちゃいました」

「そりゃ、大変やなぁ。うちの大臣なんか品行方正やけん、もう家に送り届けたよ。

今日は洗車が終わったら、虎の門で一杯ひっかけて、帰ろうば思うとったんよ。祐ちゃんも一緒にと思ったけど、難しいようやね」

「また今度お願いします。そうだ、お酒を付き合えない代わりに、洗車のお手伝いしても構いませんか」

「そりゃ、助かるし、ええよ。けど、無線待ってなくて大丈夫なん?」

「内線のPHSを持ってるんで、大丈夫ですよ」

 そう言うと、風間は決められた停車場所に車を停めに行く。停車場所は車の後部窓に貼られた四桁の番号で決まっていて、風間が運転していた車は、駐車場の入口から一番遠い場所に停めなければならなかった。


 風間が急いで戻ってきた頃には、伊藤は洗車を終えて、黒塗りの車体にワックスを塗っていた。風間も伊藤を手伝ってワックスを塗り始める。

 伊藤三汰は黒塗りのセレナを運転する。単純に黒といっても、風間が運転する車のようなありふれた黒ではなく、漆塗りのような独特の深い艶を持つ。内装は落ち着いた茶の総革張りで、中央に書類を広げられるように木目調のテーブルとドリンクホルダーが付いている。数ある官用車の中でも、ひときわ高級な造りになっているのは、大臣専用車だからだった。

 伊藤が言うには、乗り心地はまるで揺りかごに眠る赤子のように健やかで穏やかなのだそうだ。その例えが適切なのか運転した事のない風間には分らなかった。確かに言えるのは、幾らか大臣専用車を見かけるけれど、この車は特にお金がかかっているだろうという事だった。

 この車を運転できる事は、伊藤の自慢だった。

 風間はこの職に就いてまだ一年余りの新人だから、与えられた車も、買い替え間近の一番安い官用車だ(と言っても、まだ使用七年目の車で、外装も内装もしっかりしていかにも高級なのだが)。

 駐車場も洗車や出入りに一番不便な場所に決められていた。新人は誰でもここからスタートする。

 そしてこの位置から少しずつ車のグレードと駐車位置の優勢を上げていくのが、一年に数回も使わない名刺の肩書きなんかより、はるかに重要だった。

 彼等の最終目標は大臣専用車の運転手、つまり大臣お抱え運転手となる事だから、伊藤は彼等にとって憧れの存在だった。

 官用車の運転手のほとんどは公務員ではない。

 官僚政治と呼ばれた時代、官用車の運転手はコネ入省で一番気楽な公務員だと言われたが、行政刷新が叫ばれる少し前から、定年退職を控えるほんの一部の職員を残して、運転手は民間委託により決定した業者が派遣する運転手が主流となった。

 しかも経費の無駄を叩かれない様に、稼働率の高い定期便や役職の無い事務官が乗る官用車の運転などを公務員運転手にさせ、大臣や官僚などのお抱え運転手は、民間委託事業者から派遣された運転手が勤めた。彼等は待機している時間が長い事を理由に、サービス残業を強いられる事も多かった。

 こういうカラクリで、一介のタクシー運転手がある日、国の中枢、霞が関にやって来て、経験を積んでやがては大臣のお抱え運転手となるのは、陽の当たらない職業にあって、一種のサクセスストーリーとして扱われ、同じタクシー仲間から羨望の目で見られた。

 風間も例外ではなく、大手のタクシー会社から派遣されて来た。

 彼は二十六歳と年齢が非常に若くて、しかも新人でありながら、いきなり省の事務方トップのお抱え運転手となったものだから、周りの嫉妬も相当なものであった。

 これは別に彼が優秀であったからではない。

 本来は三十代中盤で運転手歴十年以上のベテラン運転手が派遣される。

 ところが、政務次官専用車の運転手だけ長続きしないものだから、いっそ何も知らないまっさらな新人を連れて来たらどうかという事になって、伊藤が派遣されて来ただけだった。

 初めは風間も売上を気にしなくていいから楽だろうと安易に考えていた。

 しかし、連日の会合続きで今日のように待ちぼうけを喰らう日が続くと、なるほど、案外と待つのは辛いかもしれないなどと思い始めていた。

 そんな風間の心情を察してか、あるいは風間を孫のように思ってか、伊藤は事あるごとに風間に声をかけてくれた。

 風間も初めは大先輩を前に恐縮しきりであったが、伊藤の独特の愛嬌のある訛りのせいもあって、打ち解けるのに時間はかからなかった。


「三さん。ラジオ点けても良いですか?」

「うん、ええよ」

 風間は右のサイドミラーの縁を磨きながら、思い出したかのように言うと、ドラム缶に置かれたラジオに手を伸ばした。ラジオのチューニングの切れ間から、ぼそぼそと若い女性アイドルと思しき歌声が漏れ聴こえる。

「若いもんの歌は、何が良いのか全くわからんね」

「ははっ、私もそう思います。けど、一人だけ魂に響くような歌うたいが、最近いるんですよ。もうそろそろ、ラジオでやると思うんですけど……」

 そう言って、風間はラジオの選局を終える。番組はちょうど陽気なDJのおしゃべりコーナーが終わるところのようだった。

「なるほど、それを待ってるんやね。そういや、三ちゃんって音楽やってたって、誰かから聞いたなぁ。良い音を聴き分ける力があるんやねぇ」

 しみじみと尊敬するように伊藤が言ったので、風間は決まりの悪そうにわざとぶっきらぼうに返答した。

「よしてくださいよ。音楽って言っても、楽器を演奏してただけで、歌をやってたわけじゃないんだから」

「楽器?」

「しかも、クラシック音楽。バイオリンをやってたんです」

「バイオリン?」

 伊藤は風間の顔を見上げると、すぐに声を押し殺すように腹部を押さえて笑ってしまう。風間は、伊藤が明らかに自分の顔より上を見てそうしたのだと気付く。

「別に髪の事はいいじゃないですか!」

 つるつるの坊主頭を叩いて、風間は反抗してみせた。

 それが、ポコポコと如何にも脳味噌の詰まっていない軽い音なので、ますます伊藤は笑ってしまう。「坊主頭を叩いてみれば安い西瓜の音がする」とは、昔の人も上手く言ったものだ。

 強面な人相の上に坊主頭なものだから、バイオリンのような繊細な音楽とは結びつかなくて当然で、伊藤が笑ったのも無理はない事だった。

 伊藤の笑う声に共鳴するように、ラジオから男性の笑い声が聴こえる。続いて、静かに曲のイントロが始まった。

「あっ、この歌です」

 風間は伊藤に目配せをして静止を促した。


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