出逢い
夕焼けに染まる空の下、青木ヶ原樹海を横断する国道一三九号線を歩く一つの影があった。
国道には、河口湖方面に向かってまばらに車の通りはあるものの、日も暮れかかった時分、歩いている者など、この影のような人間ただ一人きりである。
「影」と表現したが、それは、黒い帽子を被り、黒い衣服を着用していた。その容貌から、男なのか女なのか性別がはっきりしない。
ただひどく痩せていて、うずくまるように、黒く塗り潰されたような後ろ姿で歩いて行くのが、まるで、自我の芽生えた影が誰かから抜け出して、そこを歩いているかのように見える。
道の左右に広がる富士の樹海は、その名にふさわしく、混沌と深い海のように沈んでいく。
歩くその影は、樹海の中に引きずり込まれてしまいそうな危うさがあった。いや、樹海から這い上がってきたのかもしれない。
そう思うほどに、歩く足取り、雰囲気が、およそ生きている人の気配とは思えなかった。
明らかに異様な姿形なのだが、通り過ぎる車は、何もないようにスピードを下げずに、それの横を通り過ぎて行った。
おそらく、彼らは厄介なことに巻き込まれたくないという、自己保身の心理が働いているのだろう。
しかし、葛城邦彦は、不覚にもその影に心を奪われてしまった。
彼は、河口湖方面に向かう車とは逆に、富士宮市に向かっていた。
この日、彼は富士急ハイランドで開かれた新人アイドルのイベントに出席していた。
葛城は大手の芸能事務所で営業として働いている。
彼の営業手腕は社内外でも評判で、彼の営業から売れたタレントや歌手は指で数えきれないほどだ。
だから、彼がその気になれば、駆け出しのアイドルにさえ、テレビ出演やCM撮影など華やかな仕事を与えてやる事は容易いが、彼は下積み時代のこういった小さな仕事こそ大事にしたいと考えていた。
東京からはるばる富士の裾野までやって来たのもそういう理由があった。
葛城はイベントの成功を見届けると、そのまま東京には帰らずに富士宮市内のホテルに一泊して、翌早朝に浅間神社を参詣して帰ろうと思い立った。
実のところ、仕事上はすこぶる順調ではあるが、反比例するかのように、私生活の方はまるで上手くいっていない。
芸能事務所に勤めていると兎角華やかに見られがちであるから、往々にして、自分に近寄って来る人間は、大なり小なり何らかの下心があった。
それに目を瞑っていられた時期はそれなりに楽しかったが、四十歳を目前にして自分の人生を思い返すと、何も成し得てはいない、空っぽな人間が自分なのだと身に沁みて知る。
それでも妻や子がいれば、心の拠りどころが生きる証にもなるだろうが、あいにく、忙しさにかまけて特定の恋人などいない葛城には、愛情とは無縁の生活をもう何年も続けている。
それで、彼は縁結びで評判の富士浅間神社を訪れてみようと思ったのだ。
その想いが引き寄せたのか、彼は富岳風穴を通り過ぎて、いよいよ鬱蒼とした樹海が左右に広がっていくというところで、その影らしきものに出会ってしまった。
葛城はぼんやりと車を走らせていたが、不意に視界の右側に黒いものが飛び込んで来て、ほとんど反射的に車を止めてしまった。
とても不思議な光景だった――。
夕暮れの僅かな光でやっと確認できるそれは、人の後ろ姿のようで人ではないのかもしれないと思わせる。怖いとも思うが、それでいて、もう目が離せないのだ。
彼は道路の端に車を寄せて止めると、どれくらいの間か、歩いて行くその影を見つめていた。
見惚れていたという表現の方がぴったりかもしれない。
やがて、葛城は暗がりの向こうに吸い込まれていく影を目で追いながら、あれは一体、何者であるのか、その正体を確認したいという強い衝動に駆られた。
彼は幽霊など信じてはいないから、あれは確かに人だろうと思う。
だが、これまで仕事柄、有名な俳優や女優達と接した事があるが、どの人も、あの人らしきものと比べてしまうと、魅力を感じない。
それほど、目の前にあるものは異質なまでに存在感を放って、葛城の心を奪った。
そして、彼は車を走らせて影のような人物に追いつくと、車から降りて、それの背後から肩を叩いて、声をかけた。
「君、こんな時間にどうしたんだ?」
影が振り返る。振り返った姿を見て、葛城は心臓が凍りつくように驚いた。
それは両手に白い箱を抱えていたのだ。
金襴に房の付いたその形状から、遺骨を納めた箱に違いなかった。
持ち物はその箱一つきり。バッグなど持ち合わせていない。
黒い薄手のシャツとズボンを着て、まだ冬の寒さが残るというのに上着も羽織ってはいなかった。
それでこんな気味の悪い場所を独りで歩いているなど、およそ常人の感性ではない。
その上、目深に黒い帽子を被って表情が読み取れないのも、彼の不安をより強くさせた。
(誰の遺骨を抱えているのだろう……まさか自分の⁉)
一瞬で、彼は目の前に映るものは幽霊だと錯覚して、恐怖で頭が真っ白になる。
一方で、そんな自分の感情を滑稽なくらいに客観的な眼で分析する、もう一人の自分がいた。
その冷静な分析家は「幽霊が自分の遺骨を抱えて歩くなど、馬鹿げた怪談話があるはずもない」と、葛城にそっと教えてくれた。
なおも無言のまま佇むそれを前に、葛城は深く息を吐いて気持ちを落ち着かせると、いま一度、まじまじと観察した。
車のライトに照らされて確認できる限りでは、面立ちの若い感じである。垂れ下がった黒い前髪の奥から漆黒の二つの眼が覗く。瞳には光を宿していて、まぎれもなく今を生きる人の目であると確信できた。
葛城は少しだけほっとしたが、するとまた別の疑惑が浮かんで心臓が早鐘を打つ。
そうとは悟られないように、葛城は慎重に言葉を続けた。
「私はこれから富士宮市内に行くんだよ。日も暮れてこの辺は物騒だろう。もし良かったら、車に乗っていかないか?」
安い口説き文句のように聞こえるかもしれないが、この時の葛城には、これが精一杯の考えられる言葉だった。
自分が手を指し伸べなければ、この者は、やがて来る闇に呑み込まれて消えてしまうだろう。
嫌がっても絶対にこの場から連れ出さなければならないと、葛城は不思議な使命感を感じた。
「……まだ決めていないんだ……生きるか死ぬか……」
決定的な絶望の言葉を覚悟していたが、予想に反して希望の混じる返答だった。
声にしても、消え入りそうなか細い声だろうと思ったのが、呟くように声を発していても、空気と共鳴して、芯の強さを感じるはっきりとした声だった。
その聴き触りが良い声に、葛城は不謹慎にも、職業病的な打算が混じる。
だから、葛城は敢えて強い口調で、この者を諫めた。
「君は馬鹿か! 誰だっていつか死ぬのに、死ぬのは今じゃないだろう!」
「私が死んでも誰も悲しまない……それって生きてる意味があるのかな」
「だったら、なおさらまだ死ぬな! 悲しんでくれる誰かを探してから死んでも遅くないはないだろう?」
そう言うと、葛城は彼か彼女か分からない行きずりの者の手を強引に引いて、車の助手席へ引き込む。意外にも、この者は抵抗する素振り無く従った。
急発進させた車を追うように、背後から急速に闇が周囲を覆い尽くしていく。やがて闇に車内が同化した頃、葛城は高揚した気分も収まってくる。
すると、自分のした行動が実はとんでもない事ではなかったかと、急に心配になった。
不安を打ち消すように、彼はいよいよ口を開いた。
「すまん。自己紹介がまだだったな。俺は、葛城邦彦だ。東京で芸能事務所の営業をやっている。三十七歳、独身。A型。趣味は……そうだな、ドライブかな。君は?」
「……雪平椿。山梨の学校に通ってたけど、婆ちゃんが死んで通うのを辞めた。十四歳、独身。血液型は分からない。趣味は……もう辞めたけど、バイオリンだった」
思いの外、すらすらと返答が返ってきたので、葛城は拍子抜けした。幾分か気が楽になって、思わず声を上げて笑った。
「ハハハッ! 独身っていうのは言わなくても年齢で分かるぞ。椿って名前、珍しい名前だな。趣味がバイオリンっていうのも、俺は音楽関係の仕事もやってるから、なんだか気が合いそうじゃないか」
すると、葛城はある重大な事に気付いてしまう。
この名前では、男でも女でも当てはまりそうな名前だから、性別の見当がつかない。強いて言えば、女性に多い名前なのだろうか……。
申し訳なさそうに、彼はまた尋ねた。
「失礼な事を聞いて申し訳ないんだが、その性別は……」
「……よく言われた。女だよ。」
椿は帽子を脱ぐと長い前髪を掻き上げて、葛城に顔を見せた。葛城は横目で相手の顔を必死に見る。
大きな瞳に左右の均整が取れた完璧な顔立ちは、まるで古代の神々の申し子のようで、性別を感じさせない中性的な美しさがあった。
道路は障害物も無く真っ直ぐに続く。葛城はもう一度、彼女を覗いた。
椿は葛城と目が合うと、今度は目を三日月の形にして笑った。笑うと右頬にだけえくぼが浮かぶのを葛城は見逃さなかった。
それはあどけない少女の顔だった。
葛城は妙な気恥ずかしさを覚えて視線を正面に戻すと、運転に集中しようとする。
「ありがとう――」
椿はそれっきり、帽子で顔を覆うと寝息を立てて眠った。
葛城は椿の眠りを妨げないように音量を小さくして、ラジオを付けた。
ラジオから流行りの邦楽が流れてくる。ギターのアップテンポで明るい曲調が車内を支配する。
こうして不思議な縁で二人が出会ったのは、富士を守る木花咲耶姫のお導きかもしれない。
葛城は気のままに鼻歌を歌いながら、明日は彼女も連れて浅間神社を訪れてみようと思った。
これから推理小説……。