4話 選択の結果 <ゲーム>
まるで、それが合図となったかのように、世界が動き出した。
先程までは微塵も感じなかった、息のつまるような圧迫感。
不意に耳に入った、ミシミシ、となにかが軋むような、妙な物音。
はっとして顔を上げれば――そこには、段々と高さを縮めて迫る、黒い壁があった。その正体は、天井。ゆっくりと、しかし確実に、天井が地を目掛けて落下しはじめていたのだ。
しかも、それだけではない。慌てて周りを見回せば、四方を囲う壁までもが、着実に幅を狭めてきている。
その異様な光景を目の当たりにした俺は、思わずその場から一歩後退った。
刹那――チャリン、という微かな金属音が、静寂とした空間に響き渡る。こんな緊迫した状況だからこそだろうか、その場違いな音色と、ポケットに感じた重みを、確かに俺は感じ取った。
「……そうだ、コインっ!」
すぐさま右ポケットに手を突っ込み、乱暴に封筒を捻り出す。ユウがふざけ半分で渡してきた、500円が10枚入った茶封筒。
中から1枚抜き取り、モニターに歩み寄る。未だ浮かび上がっている、気味の悪い赤文字。それが、まるで俺に催促をしているかのように、怪しく明滅している。
果たして、500円玉でいいものか、と不安にもなるが、そうも言っていられない。
俺は、ゴクリと唾を飲み込むと、筐体の下部にあるコインの投入口へと500円を入れた。
カラン、と音を鳴らし、すっと入っていく500円。俺はその様を、固唾を呑んで見守った。
しかし――なにも起こらない。
相も変わらず、モニターには文字が浮かび上がっていて、迫りくる壁も止まる気配はなかった。
「くそっ! なんでだよっ!?」
悪態をつきながらも、焦りに焦っていた俺は、1枚、また1枚と500円を入れていく。しかし、この不気味な筐体は、カラン、カランとただただコインを飲み込むだけで、なんの反応も起こさない。
それを何回繰り返しただろうか。俺は、500円を入れる手を止めた。まだ手元の封筒の中には、数枚残っている。だが、状況は悪化の一歩を辿るだけで、一向によくなる気配がない。
四方からは、迫りくる壁。上からは、落ちてくる天井。どうしようもなかった。
理解できない状況。そして、これからどうなってしまうか分からない不安に、拳をギュッと握りしめる。
――その時だった。
目の前の筐体に、淡い光がボウッ、と灯った。
慌てて、モニターを覗き込む。するとそこには、この現状を打破するかもしれない文字が躍っていた。
『ゲームを始めますか?』の文字が、モニターに浮かび上がっていたのだ。
もはや、一刻の猶予もない。
その行為がどんな結果をもたらすのかは知らない。ただ、この訳のわからない状況から抜け出せれば。
その一心で、俺は――モニター画面下部にあった『YES』をタッチした。
瞬間、今までの不気味さが嘘のように、筐体が明るく、輝いた。徐々に増幅していく光。そのあまりの眩しさに、俺は思わず目を閉じてしまった。
光に包まれ、そのまま、微睡むかのように、意識を手放していく。なにが起こっているのかを確認する間もなく、沈んでいく。
その最中。最後にこう聞こえた気がした。
抑揚のない、機械のような音声で。たった一言。
――『Good luck』と。
※※※
周囲が、妙にざわついている。
それに気づいた俺は、そろそろと両目を開いた。
未だぼんやりとしている頭をかきむしり、二、三度目を瞬く。
視線に入ってきたのは、人、人。
ようやく頭が働きだした俺は、先程の出来事を思い出し、この事実にひとまず安堵した。
あの理解不能な空間から抜け出した、というのもそうだが、自分以外の人間がいる、というのはそれだけで安心できるからだ。
だが――。
「……今度はなんだよ……」
そこにいた人々は、俺に言わせれば、おかしかった。いや、人であることは疑いがないのだが、その容姿、出で立ちがだ。
肌の色、髪の色。欧米人のような顔もあれば、東洋人のような顔もある。それはもう、様々だ。
褐色の肌、真っ白な肌。蒼色の髪、ピンク色の髪。ふと視線を向けただけでも、そのような容姿の男性、女性がごろごろといる。
そして、彼らの纏っているものが、白を基調とした簡素な衣服。大きさの差はあれど、皆が皆同じものを着ているようだ。
……決して、俺の目がおかしくなったわけではないはず。
俺は、ひとまず視線を巡らすと、周囲を見渡した。
青い空、雲間から顔を覗かせる太陽。いくら遠くを見ても、高層マンションの一つも見当たらない。
前方には、なにかを囲うように展開された、巨大な石の壁。そしてその入口であろう、強固な門が口を閉ざしている。
後方、及び左右には、広大な草原が広がっている。そして、現在俺のいる場所には、たくさんの人々。
「……ここは何処だ?」
脳の処理が追いつかず、俺は、ただただ呆然とすることしかできないでいた。
そんな中、何処からともなく、声が聞こえた。この場にいる誰かが発したわけではない。
そう、仮に存在しているのだとしたら、神であるかのような。
この場だけではなく、世界中に響き渡らんとする、明瞭な宣告。
『ようこそ、諸君! 私の世界――<モルス>へ!』
ただし、その声を、その声調を聞いた者は、決して神などとは思わなかっただろう。
なぜならその声音は――心底可笑しく、笑っていることを隠そうともしないような、そんな快活な声だったからだ。