2話 「姫」との邂逅 <現実>
一日の終了を知らせるチャイムが、スピーカーから鳴り響いた。
といってもそれは、あくまでも学校の話――つまりは授業及び、帰りのHRの終わり――であり、現在は放課後だ。
HRが終了したばかりというのもあり、俺のクラス――『1-B』教室はいつも以上に騒がしく、がやがや、と生徒達が帰り支度を始める光景が広がっている。
「……新手のイジメか、これは?」
そんな中俺はというと、依然着席したまま、自身の机の上を凝視していた。そこにあるのは、一つの茶封筒。ある点を除けば、何処にでも販売しているような、至って一般的な茶封筒である。
愕然とした呟きを漏らした俺は、机の上に置かれたそれをそっと摘み上げた。
瞬間、手に感じる僅かな重み。ほんの少し上下に振ってみれば、チャリン、チャリン、とぶつかり合う甲高い金属音が聞こえる。
「嫌だなー、人聞き悪いこと言うなよ、ハト」
そんな俺の呟きに反応してか、すぐ前の机にいる男子生徒が振り返り、ニッ、と笑みを浮かべた。短めの髪に、中学生――下手すれば小学校高学年でも通用しそうなほどの童顔。顔に浮かぶ無邪気な笑みは非常に子供っぽいのだが、その童顔ゆえ、こいつがやると違和感がない。まさに、悪戯小僧、という言葉がよく似合う。
そして、「ハト」なんて変わったあだ名で俺を呼ぶのは、一人しかいない。そう、それがこいつ――小早川湧成という男だ。
どうやら、俺の名前である隼斗から二文字をとって「ハト」にしたらしい。
非常に安直というか、単純で分かりやすい。
「……じゃ、なんだ? 俺に対するいやがらせか? ……そうだよな、お前ってそういう奴だったよな、ユウ」
……かといって、俺もどうこう言えるわけではないのだが。
湧成だから、「ユウ」。どちらかといえば、俺のほうが単純ではある。
「って言ってもなー……その中にはちゃんと、お前に借りた5千円が入ってるぞ?」
さも、不思議そうな声色を出してくるユウ。
だが、それが下手くそな演技だということを、俺はもちろんとして、アイツ自身分かっているのだろう。
なぜなら、本当に疑問に思っている人間は――決してニヤニヤなどしないからだ。
しかし、ユウのにやけ顔はさておき、言っていることは間違ってはいない。
つい先日、俺はユウに5千円を貸した。特に金欠でもなく、欲しいものもなかったため、数日以内には返すという条件をもとに、だ。
本来、クラスメートとこのようなやりとりはしたくないのだが、それがユウならば、特に抵抗はない。
コイツとは、この矢桜高校に入学するより前、かなり昔からの付き合い。ゆえに、それなりにコイツの性格は知っているつもりだ。
その悪童めいた行動に散々苦渋を舐めさせられたとはいえ、それなりに律儀な奴、というのが、小早川湧成という人物に対する俺の印象である。だから、コイツがしらばっくれることや、踏み倒される、という心配はまったくしていなかった。
そして今日、そのお金が返ってきた。そこまではいいのである。
だが――。
「なんで硬貨なんだよっ!?」
茶封筒の表、そこには、「500円×10枚」の文字が踊っていたのだ。
「いやー、だってどんな形であれ、5千円じゃん?」
ぐっ、と言葉に詰まる。確かにコイツの言うとおりだ。俺は、返却の仕方を指定したわけでもない。しかし、だからといってこんな形で返すだろうか。……いや、そういったことをするのがコイツだった。
「本当は、100円が50枚でもよかったんだけど」
ニシシ、と笑ってそうのたまうユウを見て、俺はため息を吐かずにはいられなかった。
コイツのこれは相変わらずだが、それに慣れてしまった俺も、大概お人好しなのかもしれない。
諦めて茶封筒を制服のポケットに突っ込み、カバンを片手に席を立つ。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
ガタガタっと慌てて下校準備を始めるユウを尻目に、俺は教室の扉を開けた。
廊下に出て数歩、ドタドタっと足音を立て、後ろからユウが追ってくる。
「悪かったって!」
「……本当にそう思ってないだろ?」
「……まぁね。だって、これが俺の生き甲斐みたいなたいなもんだし」
実にあっけらかんと口にするユウ。
そんな様子に再び俺は溜め息を零すと、階下の下駄箱を目指して足を進めた。
「あぁっ! おいおい、ハト!」
と思ったのも束の間、今度は耳元でなにやら騒ぎ始めたユウが、ぐいぐいと俺の制服の袖を引っ張ってきた。掴まれて足を止めざるをえなくなった俺は、無言のままにユウを見る。
だが、そんな俺の視線も意に介さず、ユウは興奮したような面持ちで前方を指さした。
何事か、とそちらに顔を向ける俺の耳に、ユウのはしゃぎ声が聞こえてきた。
「姫さんだっ! ……これから帰るのかな?」
視線の先、階段近くの教室から出てきたのは、一人の女子生徒だった。
その姿に、廊下の喧騒は静まり、微かなざわめきが広がっていく。見れば、俺達を含む廊下を歩いていた生徒の半数近くが足を止め、彼女に視線を送っていた。
漆黒の長い髪を後ろで一纏めにして垂らした、所謂ポニーテイルと呼ばれる髪型。その下には、漆黒の髪とは対極の、まるで雪のような白い肌が覗き。小さめの顔に、整った小鼻。若干の気の強さを滲ませる大きな瞳は、まるで丹念に磨かれた黒真珠のような輝きを放っている。
桜色の唇をキリッと引き締め、矢桜高校の制服を身に纏う彼女の名は、柊千雪。
5月という、新学年となって間もない不可思議なタイミングでの転入。さらに、聞くところによれば、彼女はモデルの仕事をしているらしく、学内だけにとどまらず、学外においても名が知られている。
俺はそういった方面には疎いが、そこそこ有名なモデルらしい。
ちなみに「姫」という呼び方をしているのは、俺の知る限り、隣で騒いでいるこの馬鹿含め、少数だけである。なぜ「姫」なのか、と以前理由を尋ねたところ「可愛いけど、高嶺の花だから」という答えが返ってきた。それに、他生徒との接触もあまりせず、浮いている様が、姫みたいだ、とのことでもあるらしい。
そんなコイツの「姫」発言が聞こえたのか、それとも偶然か。数多くの視線が集まる中、その対象である柊は、発言者であるユウと、その隣にいる俺に視線を止めた。
美しく、宝石の如き眼が、こちらを射抜く。他の生徒も廊下を行き来しているというのに、まるで俺達だけがこの場に存在しているような錯覚。時の流れが遅くなったかのような感覚が、俺を襲った。
が、そのような気分も、あちらが視線を逸らしたことにより、ふっ、となくなる。
彼女――柊千雪は、何事もなかったように後ろ手で教室の戸を静かに閉めると、そのまま階段へと向かい、姿を消した。
その間際――今一度、チラリとこちらに視線をよこして。