とある狐の記憶
昔々、雪深い山奥に一匹の狐が住んでいました。
そこは、どこまでも白い世界でした。深々と降る雪は、足音すらかき消してしまいます。無音の銀世界は美しくもありましたが、心の慰めにはちっともなりません。
来る日も来る日も一人で過ごす日々に、とうとう耐えきれなくなった彼女は人里に降りてきました。
山の麓には小さな村がありました。
隣国との中継地点になっているその村は小さいながらも、とても賑やかでした。
村はどこへ行っても活気に満ち溢れています。今はちょうど祭りの時期で、いつもより人が多いのだと誰かが言ったのを聞きました。
笑顔や笑い声を聞くのは、それはそれは楽しいものです。
楽しい気持ちになって村を歩いていると、川の向こうで人間の子ども達が遊んでいるのが見えました。
鞠つき、でしょうか。楽しそうに歌を歌いながら鞠をついている姿を見て、ふと自分の手足に目をやりました。
ああ、もしこれが銀の獣の前足ではなく暖かい人の手だったなら。この喉から人の言葉が話せたならば、私もあの子達と遊ぶことができたのに。
狐の姿では、遠くから眺めることしかできません。
どうにかして人の姿が欲しいと、彼女は天の上の神様のところへやって来ました。
事情を話すと神様は渋い顔をしながらも、了承してくれました。
「おまえに人の姿と声をやろう。ただし、人間の前に出るときはこれを外してはならない」
そう言って渡されたのは、狐の形をした面でした。これをしていないと、人間でないことがバレてしまうと言うのです。
そして神様は、一枚の鏡もいっしょに持たせてくれました。いずれ必要になる、と。神様の言葉の意味は分かりませんでした。彼女は頷いてそれを受け取ると、村へ戻りました。
二足歩行はなかなか慣れません。声も、まだ掠れています。それでも、人間と同じ姿になれたことに嬉しくなって彼女は走り出しました。
「ねぇ、遊ぼう」
少し緊張気味に話かけると、子ども達は快く仲間に入れてくれました。
幸いなことに、今は祭りの時期なので面をつけていても、知らない顔の彼女がいても誰も気にしませんでした。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎました。気がつけば、もう夕暮れです。子ども達の後ろには、長い長い影が伸びています。
また明日と手を振ろうとした時、一人の子どもが悲鳴を上げました。
・・・彼女は気づいていなかったのです。走り回って遊ぶのに夢中で、面がずれてしまっていたことに。
彼女の後ろには影はありませんでした。ふさふさと九つに別れた尻尾が覗いていることに気づいた時は、もう村の大人達が彼女の周りを囲んだ後でした。
化け物、と罵る声。鍬や鎌を持った大人達の目に宿るのは、畏れ、蔑み、怒り。向けられた感情に、思わず足がすくみます。
---いっしょに遊びたかっただけなのに。
逃げて逃げて崖の手前まで追い詰められた彼女は、最早ここまでかと目を閉じました。
刃物が振り下ろされる瞬間。世界は一瞬、時を止めました。
目を開けた次の場面には、視界はもう真っ赤に染まっていました。
人の姿はありません。
驚いて地面に視線をやると、切り刻まれた肉片がいくつか転がっているのが見えました。
「・・・・・・っ・・・!」
取り返しのつかないことになってしまった、と。
血でできた海の中で、彼女はただ立ち尽くしているしかありませんでした。
どのくらい経ったでしょうか。
『どうして泣いてるの?』
後ろから、呼びかける声がありました。その声で、ようやく自分が泣いているのに気づきました。
『----怖い』
誰でもなく、自分が。
どれだけ人に似た姿をしても、やはり化け物でしかないのだということを思い知らされた。
ああ、人と共に暮らしたいなんて贅沢を言ったのが間違いだった。こんなことになるなら、いっそ--ー。
『怯えないで』
微かに、手が触れた。
暖かい指先から流れ込んでくる誰かの体温。少しだけ強められた肩を抱くその感覚は、自分を傷つけようとするものでないことは分かる。・・・でも、また傷つけてしまったら?
その感覚を振り切って、彼女はその場から立ち去りました。
『誰もいない世界に行きたい』
独り言のように呟いた彼女の願いを叶えたのは、あの鏡でした。
鏡は一度だけ願いを聞き届けました。そして、願いを映しとると、一つ世界を作ってくれました。
いずれ必要になる。そう言った神様はきっとこうなることは分かっていたのでしょうか。