月と狐とかぐや姫
「だ、大事な話がある」
声が震えてたって構うものか。
意を決して台所に飛び込むと、エプロンを着て何やら作業をしている後ろ姿に話しかけた。
「何でしょう?」
じゅうじゅう、と油の跳ねる音と漂ってくるほのかに酸っぱいトマトの香り。
どうやら、今日の夕飯は「はんばーぐ」とかいう食いものらしい。この前食べてみたが、なかなか美味かった。
そうだな、油揚げの次くらいには。
「あ、もうすぐ出来るからお皿と箸を運んでおいて頂けますか?」
綺麗に並べられている食器棚から、皿と箸を二つ分取ってテーブルに置いた。
可愛い兎のキャラクターが描かれた小さめの皿は、彼女の手でも使いやすいようにと彼が買ってきたもの。
食器だけじゃない。
ここに置いてある日用雑貨や家具は、だいたい彼の仕業だ。殺風景だった部屋は、もう見る影もない。
ダメだ。
食器の一つを手に取って、声に出さずに呟いた。
なし崩しにこんな生活を続けて来たが、そろそろ覚悟を決めなければいけない。だって、このままではいずれ彼を。
「・・・で、私はいつまでもこんなことを続けるのは良くないと思うんだが」
それが大事な話ですか、と眉一つ動かさず彼は言う。コトン、と食器を置いてこちらを向き直った。
「俺は、あなたと過ごせるなら別に構いま・・・」
「おまえが良くても、私がよくないんだ!」
だから、一つ勝負をして見ないかと提案するところまでは計画通り。きょとんとした顔をしながらも頷いたのを見て、口元がちょっとニヤッとする。
「ルールは簡単だ。おまえは私の言うものを持ってきたらいい。持って来れればおまえの勝ちだ。私をおまえの好きなようにしていいし、出ていけなんてもう言わない。そうでなければ、私の勝ち。ここから立ち去ってもらう」
ガシャン。目の前で湯のみが割れた。おいこら。その、信じられないものを見ましたって顔やめろ。
「・・・ああ、『かぐや姫』ですか。俺は構いませんが、そんな簡単なことでいいんですか?」
そんなことを言っていられるのも、今のうちだ。懐から麻袋を取り出すと、その中からあるものを取り出して彼の前に置く。
「・・・鏡?」
古風な美しい装飾の施された、小さな古鏡。ヒビが入り鏡面は酷く曇っていて使い物にならない。
この世に二つとない、貴重な品だ。
「分かりました。これと同じものを探してくればいいんですね?」
簡単なことだ、とでも言いたげに彼は微笑んだ。チクリ、と心が痛む。
どうせ、世界中どこを探したって見つかりはしないのに。
「必ず見つけてきます。だから、月には帰らないで下さいね?」
どういう意味だ?聞き返しても返事が帰ってこない。その代わりに、本を渡された。『竹取物語』と表紙に書かれた薄い本。読めば分かるとでも言いたいのか。ちっ、仕方ない。
『いいですか。俺がいない間、誰か訪ねてきても絶対ついて行かないで下さいね。ああ、それから掃除はちゃんとするように。掃除機、ここに置いときますから。ああ、それから---』
いらんことをいっぱい言い残して、あいつは朝早くに出かけて行った。
眠たい目をこすって玄関まで出ると、あいつは少し驚いた顔をした。でも、すぐにいつものにやけ顔に戻って、「行ってきます」なんて言いやがる。
来たら悪いか。
今日くらい見送ってやろうか。そんな気分になったんだ。
「・・・行ってらっしゃい」
去りゆく背中に、小さく呟いた。