全ルート断罪確定の悪役令嬢、ヒロインのハーレムエンドで王国が滅びました
「あなたの唯一の使命は、この王国の結末を見届けること」
真っ白な場所で、女神様はそう言った。
「これだけは必ず守ってください。守らなければ、あなた自身に破滅が待っています」
「王国の結末?」
「ええ。あとは好きに生きて構いません」
世界を救えでも、魔王を倒せでもない。
ただ見届ければいい。
「分かりました」
「では、よい人生を」
女神様が微笑む。
次の瞬間、私は八歳の少女――エレノア・グランフェルト公爵令嬢として目を覚ました。
そして、自分が前世で遊んだ乙女ゲーム『花冠の誓い』の世界にいることを思い出した。前世の私は、日本で大学を出て普通の会社に就職した会社員で、このゲームは学生時代に一通り遊んだきりだった。
さらに数秒後。
「……詰んでるじゃねーか女神様!」
生まれて初めて、公爵令嬢らしからぬ絶叫を上げた。
*
エレノア・グランフェルト。
王太子アルフォンスの婚約者。
そして『花冠の誓い』における、典型的な悪役令嬢である。
攻略対象は四人。王太子アルフォンス、宰相家嫡男セドリック、近衛騎士団長の息子ユリウス、魔術院長の息子ノア。そしてヒロインは、男爵令嬢ミレイユ・ロゼット。
問題は、ミレイユが誰を選ぼうと、私が必ず断罪されることだった。
婚約破棄、貴族籍剥奪、修道院送り、国外追放。細部はルートによって異なるものの、悪役令嬢エレノアの社会的生命は必ず一度終わる。
全攻略対象の好感度を上げる隠しルート――通称ハーレムルートに至っては、王都地下牢へ終身幽閉。その後は一度も画面に出てこない。
前世では「悪役令嬢ざまぁ、当然だよね」くらいの気持ちで見ていた。
自分がなると笑えない。
ならば、悪役令嬢をやらなければいい。
幸い、ゲーム開始まで十年もある。ミレイユをいじめず、イベントを起こさず、攻略対象にも余計な執着をしなければ、ゲーム通りの断罪など成立しないはずだ。
王太子との恋愛?
どうぞどうぞ。
婚約者?
差し上げます。
私は命と自由さえあればいい。
どうせ婚約破棄されるのなら、王妃教育だって適当に――。
「本日の課題は、東部三州における税収構造と凶作時の減免措置についてです」
「はい」
できなかった。
王太子妃候補である以上、私の事情など王宮には関係がない。
税制、法、外交、領地経営、軍の兵站、宮廷儀礼、帝国語、主要貴族の家系と利害関係。毎日毎日、前世の受験勉強が可愛く思えるほどの知識を叩き込まれた。
どうせ将来は牢屋なのに、なぜ北部穀倉地帯の平均収穫量まで暗記しているのだろう。
理不尽である。
それでも私は勉強した。断罪回避に使えるかもしれないし、誰が誰と仲が悪いのか、どの家が王太子派なのか、誰の前で何を言ってはいけないのかを覚えておけば、生存率だって上がる。
何より、やれと言われたことを中途半端にするのが性に合わなかった。
そうして十年。
十八歳になった私は王立学園へ進み、とうとうゲーム本編の開始日を迎えた。
ヒロイン――ミレイユ・ロゼット男爵令嬢が入学してきたのである。
*
最初の一か月は順調だった。
私が徹底したのは、ミレイユと二人きりにならないことだけだ。茶会では空いているなら別の卓を選び、階段で前後になればさりげなく先を譲る。向こうから話しかけられれば普通に応じるが、こちらから積極的には近づかない。
別に無視をするわけでも、露骨に逃げ回るわけでもない。
ただ、イベントが起きそうな状況を作らない。
我ながら完璧である。
ところが王妃主催の慈善茶会で、最初の異変が起きた。
茶会も終盤に差しかかり、私は空になったカップを給仕へ返して、人の流れから少し外れた窓際へ移った。ちょうど王妃が寄付への礼を述べ始めたところで、客たちの視線は一斉に壇上へ向いている。
「エレノア様」
横から呼ばれて振り向くと、いつの間にかミレイユがすぐそばまで来ていた。彼女の手には、まだ紅茶の残ったカップがある。
「何かご用でしょうか」
「私、少しお話ししたくて――きゃっ!」
言葉の途中で、ミレイユの腕が大きく揺れた。紅茶が白いドレスの胸元へこぼれ、カップが床へ落ちて割れる。
私は触れていない。
けれど悲鳴を聞いた人々が振り返った時には、見えるのは紅茶まみれのミレイユと、その目の前に立つ私だけだった。
「エレノア!」
アルフォンスが人垣を抜けて駆け寄ってくる。
「殿下」
「何をした?」
「何もしておりません」
「ですが……」
ミレイユが怯えたように胸元を押さえた。
「エレノア様に腕を払われたような気がして……あっ、でも、私の勘違いかもしれません! 殿下、怒らないでください。エレノア様にも、きっと悪気は……」
「私はあなたに触れておりません」
「ご、ごめんなさい。急なことで、私もよく分からなくて……」
誰も決定的な瞬間を見ていない。
だからこそ厄介だった。
ミレイユは私を断言して責めず、「勘違いかもしれない」と自分から引いた。そのせいで、むしろ私だけが必死に否定しているように見える。
周囲から小さな囁きが広がっていくのを聞きながら、私はまだ、これをゲームの強制力だと思っていた。
私がイベントを避けても、結局は似たような状況へ引き戻されるのだ、と。
*
二つ目は脅迫状だった。
『身の程を知りなさい。殿下へ近づけば、あなたも家族もただでは済みません』
筆跡は私のものを精巧に真似ており、グランフェルト家の封蝋まで押されていた。文中には、王太子と幼い頃から付き合いのある者しか知らない呼び名まで使われている。
「私は書いておりません」
当然そう主張したが、今度は私の部屋から同じ紙が見つかった。
唯一妙だったのは、机周りを担当していた侍女が翌日に突然辞職したことだ。調べてみれば、多額の借金を抱えていた彼女の弟が、辞職直前になって全額を返済している。さらに追おうとした時には、家族ごと領地を離れていた。
偶然にしては出来すぎている。
三つ目は階段。
原作ゲームでは私がミレイユを階段から突き落とす。
だから私は、ミレイユと階段で鉢合わせれば先に行かせた。二人きりならなおさらである。
それなのにある日、温室脇のわずか三段しかない石段で呼び止められた。
「エレノア様、お待ちください!」
ミレイユが駆けてきたので、私は足を止めた。
「どうかなさいましたか?」
「私、エレノア様とお話ししたくて」
「ここで?」
「はい。だってエレノア様、いつもお忙しそうですし……」
寂しげに目を伏せたまま、ミレイユが一段上がって距離を詰めてくる。私は接触を避けようと、反射的に片手を胸の前へ上げた。
「私、本当は――」
その時、植え込みの向こうからアルフォンスとユリウスの声が聞こえた。
ミレイユの視線が、一瞬だけそちらへ動く。
次の瞬間、彼女は自分で踵を石段の縁から外した。
「きゃああっ!」
身体が後ろへ倒れ、三段の石段を転がり落ちる。ちょうど角を曲がってきた二人から見れば、私が手を上げた直後にミレイユが落ちたように見えただろう。
「ミレイユ!」
「違うんです! エレノア様は悪くありません!」
誰もまだ、私が何かしたとは言っていない。
「私が勝手に転んだだけなんです。だからエレノア様を責めないで……」
泣きながら私を庇うミレイユを、アルフォンスが抱き起こす。
私は石段の上で、まだ胸の前に上げたままの自分の手を見た。
今のは偶然ではない。
彼女は二人が来るのを確認してから、自分で落ちた。
けれど、そう訴えたところで、泣きながら私を庇う少女と、無傷で立っている私のどちらが信じられるかは明らかだった。
*
そこから先は早かった。切り裂かれた教本、壊された装飾品、腹痛を起こす薬草を混ぜられた菓子。私が一度も触れていない物から私につながる証拠が現れ、ミレイユはそのたびに「エレノア様を責めないでください」と庇った。
庇われれば庇われるほど、私は悪女になっていった。
途中からは記録を残した。いつ、どこにいて、誰と話し、何をしていたのか。侍女にも同じ記録を取らせ、証人になりそうな人物の名まで控える。
それでも、ミレイユの周囲には攻略対象が順調に集まっていった。
王太子アルフォンス、宰相家のセドリック、近衛騎士団長家のユリウス、魔術院長家のノア。
四人の美青年に囲まれたヒロイン。
前世で見たハーレムルートの一枚絵が、現実になっていく。
けれど私にとっては、恋物語の完成ではない。
断罪の場に立つ人間が、一人ずつ揃っていく光景だった。
だから私は、自分の身を守ることに集中した。
そして卒業記念夜会の日、ゲーム最大のイベントは予定通り始まった。
*
「エレノア・グランフェルト!」
大広間の中央でアルフォンスが私の名を呼ぶ。その隣には薄桃色のドレスをまとったミレイユがおり、さらに背後にはセドリック、ユリウス、ノア。
全員集合。
ハーレムルートだ。
「お前がミレイユに行ってきた数々の非道、もはや看過できぬ!」
紅茶、脅迫状、石段、薬入りの菓子。それどころか、私の知らない罪まで次々と読み上げられていく。
私は一つずつ否定し、記録も証人もいると告げた。
しかしアルフォンスは証拠を見ることすらせず、セドリックは「これだけ多くの証言がある」と切り捨てた。ユリウスは私をミレイユから遠ざけるように立ち、ノアに至ってはもはや私を見る目すら冷たい。
「エレノア様」
ミレイユが一歩出る。
「私は……謝ってくだされば、それだけでいいんです」
「何について謝ればよろしいの?」
「え……」
「私はあなたに何もしていません。していないことを謝れば、罪を認めることになります」
「こんな時まで……」
ミレイユの瞳から大粒の涙がこぼれた。
「恥を知れ、エレノア!」
アルフォンスが激昂する。
「お願いです、殿下! エレノア様を死刑になんてしないでください。私、どんなに酷いことをされても、エレノア様にもいつか幸せになってほしいんです」
「君は優しすぎる、ミレイユ」
私は何もしていない。
なのに、いつの間にか彼女は私を死刑から救う慈悲深いヒロインになっている。
ミレイユは涙を拭うふりをして俯いた。
あれが演技だと分かっていても、今ここで暴く手段はなかった。私が差し出した記録は開かれず、夜会は裁判の代わりに進んでいく。
結局、その場で婚約破棄が宣言され、私は王宮の塔へ拘禁された。正式な裁定は三日後の御前会議で下すという。
病床の国王に代わって国政を預かっていたのはアルフォンスだった。父は直ちに抗議し、私の記録と証人を調べるよう求めたが、王太子側は「公爵家による証拠隠滅を防ぐ」として、私と家族の面会を禁じた。父の再調査要求も、御前会議には上げられなかった。
*
三日後、私は終身幽閉を言い渡され、その日のうちに王宮地下の牢へ移された。
父はなお再審を求めているらしい。けれど私の記録も証人も調べられず、家族との面会も許可されなかった。
地下牢へ移された翌日、鉄格子の向こうに見覚えのあるドレスが現れた。
「エレノア様と、少しだけお話しさせてください。できれば二人で」
看守へ向ける声は、夜会で聞いたものと同じだった。柔らかく、控えめで、どこまでも善良そうな声。
看守が廊下の端まで離れる。
足音が止まった。
ミレイユの顔から笑みが消えた。
「これ、サインして」
鉄格子の隙間から一枚の紙を差し入れてくる。
拾って目を通し、私は眉を寄せた。
「……罪を認め、今後いかなる再審も求めない?」
「そう。あんたのお父さん、まだ証拠を調べろってうるさいんだもん。本人が認めたって紙があれば黙るでしょ」
「私がしていないことを認めろと?」
「死刑じゃないんだからいいじゃん。ほんと、最後まで面倒」
「しないわ」
即答すると、ミレイユは露骨に顔をしかめた。
「……もういい。どうせこっちは、ちゃんとハーレムエンドまで行けたし」
「……ハーレムエンド?」
「そう。アルフォンスも、セドリックも、ユリウスも、ノアも、全員私を選んだ。完璧でしょ」
その言い方で、胸の奥に引っかかっていたものが形になった。
「あなた、まさか……」
「そう。私も転生者」
ミレイユは得意げに笑った。
「女神に言われたんだ。『本当の結末に導いて。破ったら破滅が待ってる』って。私、このゲームやり尽くしてたから楽勝だと思った。ハーレムエンドの条件も全部覚えてたし」
私は鉄格子を握った。
「じゃあ、紅茶も、脅迫状も……」
「私。石段も、薬入りの菓子も。あんたが全然悪役やってくれないから、こっちは余計なことまでしなきゃいけなかったんだけど」
「それを、私のせいだと?」
「だってそうでしょ。あんたが物語通りに動いてれば、私がわざわざイベント作る必要なかったじゃん」
本気で言っている。
私が人生を奪われたことより、自分の攻略に手間が増えたことの方が、この女には重大なのだ。
ミレイユはもう用は済んだとばかりに、足元の紙を拾い上げた。
「待って」
立ち去ろうとしたミレイユが、面倒そうに振り返った。
「何?」
「あなた、女神様になんて言われたの?」
「さっき言ったじゃん。『本当の結末に導いて。破ったら破滅が待ってる』って」
「……ハーレムエンドにしろ、とは?」
「言われてないけど?」
胸の奥で、何かが引っかかった。
「このゲームで“TRUE END”って表示されるの、どのルートだった?」
「は?」
ミレイユの笑顔が止まる。
「ハーレムルートの表示は?」
「……SPECIAL END」
「王太子ルートは?」
今度は答えが返ってこなかった。
「王太子ルートだけ、“TRUE END”だったわよね」
「……だから?」
ほんの一瞬だけ見えた動揺を隠すように、ミレイユが眉を吊り上げる。
「だからって何? 普通、乙女ゲームで全員攻略したら、そっちが本当のエンドでしょ。条件だって一番難しいんだし」
「普通の乙女ゲームの話をしてるんじゃない。このゲームの話よ」
「同じでしょ!」
声が大きくなった。
「私、このゲームやり尽くしたんだから。全ルート見たし、全員攻略したし、ハーレムエンドだって自力で出した。あんたよりずっと詳しいの」
「でも、“本当の結末”は――」
「しつこい!」
ミレイユが鉄格子を睨んだ。
「私はちゃんとハーレムエンドまで行った。全員に愛されて、あんたも断罪されて、ゲームと同じエンディングになった。だったら私が正しいに決まってるじゃん」
そう言い切った声は、さっきまでより少しだけ早口だった。
自分でも気づいたのだ。
けれど、認めたくない。
「負け惜しみなら、もういいから」
ミレイユは背を向けた。
「私はちゃんとクリアしたんだから。あんたはそこで一生反省してれば?」
足音が遠ざかっていく。
私は鉄格子の向こうを見たまま、動けなかった。
TRUE END。
王太子ルート。
確か、スタッフロールのあとに――。
「……あ」
忘れていた記憶が、一つずつ戻ってきた。
原作のエレノアは、本当にミレイユへ嫌がらせをしている。だから断罪イベントそのものは起きる。
けれどTRUE ENDのミレイユは、その場で重い刑を求めなかった。
『エレノア様が本当にしたことと、していないことを、ちゃんと調べてください』
その一言から再調査が始まる。
エレノア自身が行った嫌がらせと、評判の悪さに便乗して押しつけられた罪が切り分けられた。実際にしたことについては弁償と謹慎を命じられるものの、命も爵位も将来も奪われない。
そして後日談では、王妃となったミレイユが、王妃教育を受けていたエレノアへ政務の仕事を頼む。
セドリックは宰相府へ、ユリウスは騎士団へ、ノアは魔術院へ戻る。
王国は続いていく。
「……それがTRUE END」
そこまで思い出して、私はようやく気づいた。
ゲームのエレノアは、本当に悪役令嬢だった。
でも、私は?
紅茶も、脅迫状も、石段も、薬入りの菓子も、何一つやっていない。
もし同じように調べられていたら――。
「……私、無罪だったんじゃない?」
声が地下牢へ小さく響いた。
全ルートで断罪される。
その記憶だけを見て、私は自分まで同じ運命だと思い込んでいた。
けれど、ゲームと同じ人物になったからといって、同じ罪まで犯したわけではない。
女神様の言った「本当の結末」が何を意味するのか、初めて輪郭が見えた気がした。
そして同時に、ミレイユが自分の手でその道を潰したことも。
*
二か月ほど経った頃、ミレイユが再び地下牢へやってきた。
今度は、看守が離れるのを待つ余裕すらなかった。足音が遠ざかるなり、鉄格子へ顔を寄せる。
「ねえ。どうにかして」
「何を?」
「アルフォンスたち。全員おかしくなってる。アルフォンスは結婚するって言うし、セドリックも引かない。ユリウスは私を王宮から連れ出すとか言うし、ノアまでアルフォンスに喧嘩売ってる」
「あなたは誰を選んだの?」
「選べるわけないでしょ」
「なら、なぜ私のところへ?」
「あんた王妃教育受けてたじゃん。こういうの何とかする方法知ってるでしょ」
私はしばらく彼女を見た。
「一人を選びなさい」
「は?」
「一人に決めて、残り三人には期待を持たせたことを謝る」
「無理。三人捨てたらハーレムエンドじゃなくなるじゃん」
「では、もう一つ」
「何?」
「私をここから出して、捏造したことを全部公表する。私なら四家との仲裁に必要な資料くらいは作れる」
「それも無理」
「どうして?」
「そんなの言ったら、みんな私を嫌うでしょ」
即答だった。
「国が割れかけているのよ」
「国のことはアルフォンスたちが何とかすればいいじゃん。王太子も宰相の息子も騎士も魔術師もいるんだから」
「……」
「私、政治とか興味ないし。みんなが私を好きなまま、喧嘩しなきゃそれでいいの」
ようやく分かった。
この女は困っている。
ただし、自分が何かを失う解決策だけは、最初から解決策に数えていない。
「では、方法はないわ」
「は?」
「一人も選ばない。真実も話さない。私も出さない。でも全員には自分を好きなまま争うな。それを叶える方法なんてない」
「考えてよ」
「ないものはない」
ミレイユの顔から焦りが消えたわけではない。
その上に、苛立ちが重なった。
「……役に立たない」
「そうね」
「あんたが最初から物語通りに動いてれば、こんな面倒なことにならなかったのに」
最後まで、原因は私らしい。
ミレイユは来た時より険しい顔で帰っていった。
それが、王国が滅びる前に彼女と交わした最後の会話になった。
*
内戦は、その翌月に始まった。
王太子派が宰相家の一部を反逆者として拘束しようとし、宰相家に近い東部諸侯が反発。ユリウス率いる近衛の一派は「ミレイユの安全確保」を理由に王宮へ兵を動かし、ノアに近い魔術師たちは王家への協力を停止した。
四人とも、自分こそがミレイユを守っていると主張した。
後に押収された彼女の手紙から、ミレイユが内乱直前まで全員へ別々の言葉を送り続けていたことも判明する。
『本当に愛しているのはアルフォンスだけ。でも皆を傷つけたくないの』
『セドリックといる時だけ、私は安心できる』
『ユリウスが迎えに来てくれたら、全部捨ててもいい』
『私を分かってくれるのはノアだけ』
全員の好感度を維持するため。
ゲームなら正解の選択肢だったのだろう。
現実では、四つの武装勢力へ同時に大義名分を与えた。内乱で街道が封鎖されれば税が止まり、税が止まれば軍への給金も兵糧も届かない。地方貴族は中央の命令より自領の防衛を優先し、国境部隊まで縮小された。
そして当然のように、北の帝国が動いた。
何十年も国境問題を抱えていた隣国である。この機会を逃す理由などない。
グランフェルト公爵家は私の再審を求め続けていたが、領民を守るため内乱のどの派にも与せず、領境を閉じた。王都への道もすでに断たれている。
帝国軍が国境を越えたという知らせが地下牢まで届いた時、私は驚かなかった。
*
「帝国軍が王都に入ったぞ!」
牢番の叫びが地下へ響く。
地上から鈍い衝撃が何度も伝わり、天井から細かな埃が落ちてきた。
「西門は?」
「昨日落ちた!」
「南門は?」
「近衛同士でまだ争ってる! もう何が味方か分からん!」
「食料は?」
「知るか、こんな時に!」
牢番は混乱していたが、私は王妃教育で王宮の構造を覚えている。
「第二王宮倉庫に乾燥豆と麦があるわ。地下通路から行ける。あと火災が起きたら南側牢区画は煙が溜まりやすいから、囚人を北側へ移して。第三中庭の井戸は地下水路から使えるはず」
「……なんでそんなことまで知ってるんだ」
「王太子妃教育で、王宮の備蓄と避難経路まで覚えさせられたのよ」
十年間、何のために勉強しているのかと思っていた。
牢屋で役立つとは思わなかった。
夕方になると王宮の鐘が止まり、翌朝、地下へ降りてきたのは王国兵ではなく黒い軍服の帝国兵だった。
「エレノア・グランフェルト公爵令嬢はいるか」
「元、ですが」
「旧王国政府による判決は、王都占領に伴い効力を停止した。事情聴取のため同行してもらう」
鍵が回り、半年ぶりに鉄格子の扉が開いた。
私は久しぶりに、囚人としてではなく廊下へ足を踏み出した。
その日の事情聴取を終えると、客室と湯を与えられた。
王太子妃の座より、今は湯船の方がありがたかった。
グランフェルト公爵家は早い段階で帝国へ武装解除し、家族も領民も無事だと聞いた時、ようやく胸の奥の力が抜けた。
ミレイユと再会したのは、帝国が設けた臨時法廷へ証人として呼ばれた時だった。
脅迫状、侍女への支払い記録、押収された手紙。証拠はすでに揃っており、私に求められたのは筆跡と封蝋、それから自分が実際に書いた文書との違いを確認することだけだった。
確認が終わり、退室を促された時だった。
「だって仕方ないでしょ!」
被告席のミレイユが突然、声を張り上げた。
「あの女が悪役令嬢のくせに物語通りに動かないから、私が元に戻したの! 私は本当の結末にしなきゃいけなかったんだから!」
裁判官は眉一つ動かさなかった。
「被告。ここで審理しているのは“物語”ではない。あなたが脅迫状を偽造したか、使用人へ金を渡したか、虚偽の告発によってこの女性を投獄させたかだ。質問された事実だけに答えなさい」
「だから、それはイベントを起こすために必要で――」
「必要だったかどうかは聞いていない。行ったのか?」
ミレイユが口を閉じた。
「……やったけど」
法廷が静まり返る。
ゲームの話など、ここにいる誰にも通じない。
けれど、通じる必要もなかった。
ここで裁かれているのはシナリオではなく、彼女が現実にしたことなのだから。
「あんたがちゃんと悪役令嬢やってれば、こんなこと――」
「被告。証人への発言は禁止する」
裁判官の一言で、ミレイユは止められた。
私は何も言わず、一礼して法廷を出た。
*
王国は滅びた。
正確には王朝が滅び、旧王国領は帝国へ併合された。
帝国軍は優しい軍隊ではない。抵抗を続けた王族、内乱を主導した者、戦乱に乗じて略奪した貴族には容赦なく処罰が下った。
一方、武器を捨てた兵士や行政官、降伏した地方貴族、平民は原則として保護された。
『農民を殺して誰が畑を耕す。商人を殺して誰が税を払う』
帝国軍総司令官の言葉だという。
慈悲ではない。占領地を荒らせば、その後の統治で自分たちが困る。帝国はただ、損得を計算しているだけだ。
それでも、恋愛沙汰で国の中枢を分裂させた旧王国の上層部よりは、よほど現実を見ていた。
*
臨時法廷から戻った夜、帝国軍が用意した客室の寝台へ横になった。
そして目を開けると、あの真っ白な場所に立っていた。
「お疲れさまでした」
女神様がいる。
「あなたは王国の結末を見届けました」
「……滅びましたけど」
「そうですね」
「これが正解だったんですか?」
女神様は静かに首を横へ振った。
「私は一度も、王国を滅ぼしなさいとは言っていません」
「じゃあ、何だったんですか?」
「『結末』は滅亡という意味ではありません。王国がどの道を選び、どこへ行き着くのか。その帰結です」
「それを、私には見届けろと?」
「ええ。彼女には、本当の結末へ導いてほしかった。それだけです」
嫌な予感がした。
「もしミレイユが本当に王太子TRUEへ導いていたら?」
「彼女は、あなたを悪役に仕立てる事件を作りませんでした」
「では、私の断罪は?」
「起こりません。あなたが知っていたのは、罪を犯したゲームのエレノアの筋書きです。あなた自身の未来ではありません」
「王太子との婚約は?」
「アルフォンスがミレイユを選ぶなら、王家と公爵家が正式に協議しました。あなたは婚約解消を受け入れ、王家から謝罪と補償を受け、家も名前も自由も失いません」
「それから、アルフォンスとミレイユが結婚する?」
「ええ。彼女が一人を選び、残る三人をそれぞれの職務へ戻せば、王国も存続しました。その帰結を見届けた時、あなたの使命も終わっています」
「……本当に、最初から詰んでいなかったんですね」
「ゲームの役名と、あなたの人生は同じではありません」
「だったら最初に教えてくださいよ! 私、十年間ずっと『全ルート断罪じゃねーか!』って怯えてたんですよ!」
「尋ねられませんでしたので」
私は女神様を見た。
「女神様って、性格が悪いと言われません?」
「時々」
女神様は少し楽しそうに笑った。
腹が立つ。
「では、ミレイユは?」
「私は最初から伝えていました」
――本当の結末へ導いてください。破れば、あなたに破滅が待っています。
「彼女が選んだ結果です」
それ以上、女神様は何も言わなかった。
「あなたの使命は終わりました。これからは、本当に好きに生きてください」
白い光が遠ざかっていく。
今度こそ、誰かに決められた役ではなく、自分の人生を選べる。
*
翌日。
「エレノア・グランフェルト殿。帝国政府は、あなたに旧王国領行政顧問への就任を要請する」
「……はい?」
好きに生きていいと言われた翌日に、就職が決まった。
どういうことだ。
理由を聞けば単純だった。
私は王太子妃候補として旧王国の行政制度を学び、主要貴族の家系と利害関係を把握している。帝国語も話せるうえ、王都陥落時には牢内の食料備蓄や避難経路について正確な情報を提供した。
占領した側からすれば、旧王国の内部事情を知る実務家はいくらいても足りないらしい。
「加えて、旧王家への忠誠心が薄い」
「最後の条件、必要ですか?」
「かなり重要です」
帝国の役人は真顔だった。
最初の仕事は食糧配分。
次が税の一時減免。
その次が、空席になった地方行政官の選定。
私は働いた。
死ぬほど働いた。
牢屋よりはましだった。
それに、勉強してきたことを使って人に感謝されたのは、これが初めてだった。
「今年は、冬を越せます」
地方から来た老官吏がそう言って頭を下げた時、私は十年間の王妃教育を、ほんの少しだけ好きになれた。
*
一年後、私は帝都へ呼ばれた。
「あなたがエレノア・グランフェルトか」
帝国宰相レオニード・ヴァイス、二十七歳。
史上最年少で帝国宰相へ上り詰めた天才――という触れ込みだけ聞けば、乙女ゲームの隠し攻略対象にしか見えない。
実物は、机の上に書類を山積みにし、目の下にくっきり隈を作った仕事中毒だった。
「旧王国領の徴税方式を三か月で整理したそうだな」
「私一人の仕事ではありません。現地官僚が優秀でした」
「旧王家の縁故者に対する不正採用を八十七件却下」
「資格がなかったので」
「帝国本国から出された農地税案を差し戻した」
「あのまま実施すれば、来年の作付けが減ります」
「本国の役人三人と口論になったそうだ」
「五人です」
レオニードはしばらく私を見る。
「……採用」
「何にですか?」
「私の補佐官」
「お断りしても?」
「理由を聞こう」
「嫌な予感しかしません」
「奇遇だな。私も君なら多少仕事を増やしても逃げない気がしている」
「なおさら嫌です」
採用された。
*
帝都へ来て三年。
私は帝国政務院参議兼宰相首席補佐官になっていた。
旧王国領はようやく落ち着きを取り戻し、戦争で途絶えていた街道にも荷馬車が戻っている。
帝国の制度がすべて正しいわけではなく、旧王国に残すべき仕組みもあった。そのたびにレオニードと意見をぶつけ、時には私が勝ち、時には完膚なきまでに論破された。
「その予算では足りません」
「足りる」
「十二ページ目を」
「読んだ」
「では十五ページ目」
「……なるほど。足りないな」
「でしょう?」
「嬉しそうだな」
「勝ったので」
逆もある。
「この法案なら地方でも運用できます」
「無理だ」
「できます」
「無理だ」
三日後。
「……無理でした」
「だろう?」
「嬉しそうですね」
「君が負けを認める機会は貴重だからな」
そんな日々の果て、ある夜、最後の書類を片づけたレオニードが唐突に口を開いた。
「君は元々、王太子妃になる予定だったそうだな」
「黒歴史を掘り返さないでください」
「では、宰相夫人はどうだ」
「はい?」
「王太子妃より権力は小さい」
「比較対象がおかしいです」
「住居は今より広い」
「不動産の話をしているんですか?」
「勤務時間はほぼ変わらない」
「最悪の条件になりましたね」
レオニードは真顔のままこちらを見ている。
冗談ではないらしい。
「……もしかして、それ求婚ですか?」
「そのつもりだ」
「恐ろしく分かりにくいです」
「三年間一緒に働いたが、君より話の通じる女性はいなかった」
「それは褒めています?」
「最大限に」
昔の私なら、王太子妃という肩書きに何かを感じたかもしれない。
でも今、目の前にいる人は攻略対象でも、女神様が用意した運命の相手でもない。
一緒に働き、喧嘩し、失敗も見られ、こちらも彼の失敗を何度も見て、それでも隣にいることを悪くないと思える人だった。
「条件があります」
「聞こう」
「結婚しても仕事は辞めません」
「辞められたら私が困る」
「喧嘩した時に宰相権限を持ち出さない」
「善処する」
「約束してください」
「……分かった」
私は手を差し出す。
「では、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
こうして私は、帝国宰相夫人になった。
もちろん仕事も辞めなかった。
*
ミレイユは、文書偽造、証拠捏造、偽証、贈賄、虚偽告発によって私を不法に拘禁させた罪で、長期の服役刑となった。自ら軍を動かしたわけではないため、死刑だけは免れた。
『死ぬよりいいでしょ』
彼女が私へ差し出したのと同じ種類の慈悲だった。長い服役生活の中で、自分が選んだ結末を見届けることになった。
アルフォンスをはじめ、王権・行政・騎士・魔術組織を私闘に動員した内乱の首謀者たちは、それぞれの責任に応じて処刑または終身刑となった。
ゲームなら、そんな場面は描かれなかっただろう。
ヒロインと攻略対象が結ばれた後、王太子はどう国を治めるのか。
宰相家の跡取りは何をするのか。
騎士団を誰が指揮し、魔術院を誰が動かすのか。
悪役令嬢は断罪された後、どこで何をして生きていくのか。
税金は誰が集め、兵士の給金は誰が払い、凶作の年には誰が食糧を配るのか。
恋愛ゲームには必要のない話だ。
エンドロールの後だから。
でも、ここはゲームではなかった。
エンドロールが流れた翌日も朝は来るし、人は腹を空かせ、仕事へ行き、昨日の選択の続きを生きていく。
「エレノア」
隣の机からレオニードが呼ぶ。
「何です?」
「この数字を確認してくれ」
「もう間違いを見つけました。三枚目です」
「……君は結婚してから遠慮がなくなったな」
「結婚前からありません」
窓の外には、かつて王国だった土地へ続く街道が見えている。
荷馬車が行き交い、人々が暮らしている。
王国は終わった。
女神様から与えられた使命も、悪役令嬢という役目も、とっくに終わっている。
その先の人生は、どの攻略本にも書かれていない。
――エンドロールの先くらい、自分で選んでいいらしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




