年齢を重ね、再び名作映画を観る―「華麗なるギャッツビー」"The Great Gatsby"
初めて見たのは、たしか大学に入ったばかりの頃。
18-19歳の私には、ピンとこなかった。
人生わずか20年弱では、
「失われたもの」なんて、まだないに等しい。
ピンとくるのは、なかなか難しいだろう。
と、今では思える。
一般教養で選択したアメリカ現代文学の授業で、
「失われた世代:Lost Generation」がテーマだった。
ロバート・レッドフォードの大ファンの友人の薦めもあり、
ビデオを借りて見た。
(追憶を見たのも彼女の薦めだった。)
ピンとこなかったのに、
なぜか原作を読んでみたくなり、
原書で頑張って読んだことを思い出す。
当時の辞書は「紙」
ページをめくって単語を探し、
蛍光ペンで色付けをした。
辞書の薄い紙をめくる感覚は、
今でも手に残っている。
長い歳月が流れ、子育てに追われ、仕事に追われ、
目の前の現実の中で、もがきあがきながら生きていた。
なにか違う、なにか足りない、
これじゃない、それでもない、
正体が分からない不足感をいつも抱えながらー。
時間は誰にでも平等に、
容赦なく流れていく。
戻ることはできない、
それも現実
歳月とともに、息子たちともに映画やドラマについて、
俳優やストーリー、演出について、
一緒に語れるようになっていった。
『華麗なるギャッツビー』が
レオナルド・ディカプリオ主演でリメイクされることになり、
ロバート・レッドフォードのオリジナル版DVDを
長男が買ってきた。
その頃には、人生既に数十年。
失われたものだらけ。
数限りなく失われたものたちと
背中合わせに増えていったもの、
それは「経験」
失われたものなどなかった18-19歳の頃、
失われたものだらけになったその頃、
1つの映画が全く異なる色相になった。
喪失感とか、
失ってしまったものをひたすら追い求める気持ちは、
未経験で若い自分には、分かりようがなかった。
共感するには、ほど遠かった。
それから長い時間を経て、
失う、諦める、捨てる、
そういった経験が、
幾重にも積み重なってから、
あらためて観た時、
胸の奥に響いたー
「共感」という実体験
登場人物たちの年甲斐もなくひたすら愚かで、
せつない気持ちが、
頭の理解ではなく、
胸の奥でよく分かる。
作品の中の誰もの気持ちに
共感できるようになっていた。
若い頃に見た時は、
デイジーの愚かさに終始いらついた。
身勝手でバカな女に不快な気持ちになり、
純粋すぎるギャッツビーの愚鈍さに呆れ、
同時に哀れで、腹立ちさえ感じた。
時の流れは、
そんな感情を全て払拭してくれた。
そして、ひたすら切ない気持ちが溢れた。
作品の中の誰もの気持ちを
理解できるようになっていた。
理屈からではなく、心情として。
「華麗なるギャッツビー」"The Great Gatsby" を
あらためて観たことー
それは年齢と経験の積み重ねを
うれしく感じさせてくれた
「再会」だった。
ーおわりー




