模範的慣習
夕方。アパートの二階に上がると、どこかの部屋からかシャンプーの香りがした。女の香り。誰かがシャワーを浴びている。しかし私の使っているシャンプーも似たようなものだ。とすれば、シャワーを浴びているのは男かもしれない。事実、あと5分もすれば私もシャワーを浴びる。
ドアを開ける。一杯になったゴミ袋が目に入った。持ち手を縛る。中身の臭い、カレー臭が一気に鼻腔を突き抜ける。昨日の夜はレトルトカレーだった。胸が悪くなる。一晩経ったレトルトカレーの残滓、劣化した化学調味料とスパイスの臭い。すぐゴミ捨て場に持って行った。おかげでシャワーを浴びるまで10分かかってしまった。
昼。ウオッシャ―液を吹き付けワイパーを起動する。が、助手席側フロントガラスの端にある鳥のフンは洗い流せない。それでも視界は良好。運転に何も問題はない。
四方を道路に囲まれたスーパーに入った。進入するのは問題ない。左折して入るだけだ。問題なのは敷地から出る時。買い物を終え、入った所から出ようとすると「右折禁止」の立て札があった。別の出口にも「右折禁止」がある。仮に左折で出ようものなら進行方向とは逆に進み、スーパーをぐるりと一周してからでないと前に進めない。「右折禁止」のない出口はここから反対側にしかない。何と面倒な事か!
「右折禁止」なぞスーパー側が勝手に決めたルールであり、交通ルールでもなければ順守義務があるわけでも何でもない。しばらく出口の様子を伺う。ひっきりなしに車が行き交い、通行人や自転車も多い。「右折禁止」になるのもうなずける。まさに交通事故が起こりうるシチュエーションであり、無理を通そうとして事は起こってしまうわけだ。いま焦る必要は全くない。ここから反対側にある出口へマイカーを移動させた。
その出口には確かに「右折禁止」は無かった。しかし進行方向に行くために結局は右折しなければならない。ひっきりなしに行き交う車をくぐり抜けようやく敷地を出る。国道に出るためにはもう一度右折が必要だった。全く何という事か。私のアパートへの道のりは、あまりにこんがらがっている。
橋を渡って赤信号を待つ。思わず身構える。何年も前ここで右折しようとしてパトカーに捕まった。反則金は7000円。反則金も物価で上がったりするのだろうか。この交差点は以前「右折禁止」だった。今はそうではない。私と同じように、ここで右折しようとするものが後を絶たなかったのだろう。
右折してしばらく進んだところに踏切があり、一時停止する。マイカーをすり抜けるように、自転車が踏切を渡っていった。児童がスマホの画面を見ながら。それを追うように、茶髪パーマの児童が駆けていく。呆気にとられた、二人ともランドセルを背負っていたのだ。あれが今式の不良少年なのか。
マイカーが踏切を渡る。不良少年らは立ち止まり、横断歩道もないのに道路を渡ろうとしている。向かいの集合団地が彼らの住処らしい。私は不良少年らの機先を制し、彼らが渡り始める前に、スピード上げて直進した。私は不良少年から暴力を受けるタイプの児童だった。今私は、彼らとは比べ物にならないほどの力を持ったマイカーを操縦している。今こそ彼らを圧倒するのだ!マイカーがうなりをあげ、住宅街の細い道路を駆けていった。
・・・「無理を通す」とはまさにこういうことである。公道を走行する際は私情を挟んではならないのだ。
帰宅してマイカーを降りる。助手席側から荷物を出す必要があった。助手席の取っ手の辺りが錆びている。認識はしていたが、腐食は意外なほど広がっていた。おまけに鳥のフンがフロントガラスを汚している。
私に恋人がいたとしよう。彼女をデートに誘いドライブに出かけたとする。「こんにちわ」助手席を開け笑顔で挨拶する彼女。「運転よろしくね」の掛け声とともにマイカーが走り出す。彼女は嫌が応でも取っ手の錆びや、フロントガラスのフンを見出すだろう。
何か問題があるだろうか。いるはずもない恋人を気遣うなぞナンセンスだ。しかしルールを順守しなければ、いつまで経っても恋人は出来ないし、恋人とうまくやることもできない。問題はそれがどんなルールなのか明文化されていない事なのだ。




