かつて追い落とした聖女に、命を差し出すことになりました
王国の北端、特別な罪人を収容する塔がある。
断崖に建てられたそれは、石造りの温度をそのまま伝えるような冷たさと、強風と雨風にさらされてもなお立ち続ける荘厳さがあった。
そこに一台、場違いなほどに豪奢な馬車が止まっていた。
本来であればその馬車に乗れるような人物がこの塔に近寄ることなどあるはずもない。
それだけに、異様な組み合わせの質感がそこにはあった。
コツ、コツと階段をひたすらに上る。
一目で高貴な身分の女性だと理解できる出立ち。しかし初老に達しようかという年齢からひどく疲れを見せていた。最上階までまだだいぶ階段は残っている。
看守とお付きの者は、間を挟んで上るその女性に注意を払いながら、しかし気安くは触れられず、彼女の一歩に合わせて進むよりなかった。
たまらず彼女は足を止める。
足の重さは疲れのせいだけではない。
これから会わねばならない相手を思うと、肺の奥、心の臓からの重たさを感じた。
しわがれた己の手が目に入り。年を経たと、あれからどれほどの時が経ったろうと、その一つ一つの歳月を遡りながら、石段を上っていく。
会わねばならない。かつて決別したはずの過去と、もう一度。
額から垂れる汗を拭いながら彼女は進んだ。
最上階に辿り着き、目当ての牢の扉の前で息を整える。
鼓動の高鳴りが治らない。
顔には出ていないはずだが、ただの罪人を前にした緊張感とは違う。
ここにいる人は、たとえ罪人であっても、特別だから。
ゆっくりと、看守に目をやり、頷く。
牢が開かれ、連れ立って中へと入る。
彼女の瞳に、かつての宿敵が映し出される。
粗雑な服を纏って、はめ殺しの窓近くに腰掛ける姿は遠い過去に見たものと同じ面影がある。
お互いに年をとりその美しさも翳って久しい。
なのにこの宿敵は、それでもなお、美しかった。
「久しぶりだねえ、マグダレナ」
「ええ、貴女もお元気そうで何より、…ヴァシリサ」
かつてこの国の最高位である「歌の聖女」をかけて鎬を削った二人の、実に40年ぶりの再会であった。
二人の視線が絡み合う。
お互いの間にある数十年の月日が横たわる圧力のようなものが、マグダレナと呼ばれた高貴な老女の唇を結び、二の句を告げないようにしていた。
ヴァシリサはその様子に片眉をあげて、鼻を鳴らすと片手を翻し指差した。
「この国の、王太后さまには似つかわしくない質素な椅子だけど、良かったら、どうぞ?」
マグダレナの視線を見て、お付きの者はその粗末な椅子を本当に使って良いのかとおそるおそる確認し、ヴァシリサの対面、近すぎず遠すぎない位置に椅子を移動させた。
ぎぃ、と座っただけで音鳴りのする頼りない造りの椅子に目をしかめつつも、マグダレナは姿勢を正しヴァシリサを見つめ返した。
「…ふ、あんたが座るとその椅子も立派に見えるんだから、不思議なもんだね」
罪人が、そんな口をこの方にかけることは許されない、と看守が動きそうになるのをマグダレナは制止する。
改めて、看守とお付きに視線をやり、前もって指示していた通り、退出を促す。「何かあれば、すぐに」と彼らはヴァシリサを警戒しながら扉を少しだけ開けて牢の外に出た。
「なんだいアイツら、ばあさん二人が取っ組み合いでもするとでも思ってんのかね」
「それが彼らの仕事なのです」
マグダレナの返答に、はいはい、と興味なさ気に視線を外すヴァシリサ。
その仕草は昔と何も変わらない、あの頃のまま。
彼女が何か気に入らないと話し、それは仕方のないことだと私が嗜める。そして、それは聞き飽きたと途端に態度を悪くする。それがいつもの流れだった。
「で、昔話をしに来たんじゃないんだろう?」
指先をこすりながら目線すらもよこさず、ヴァシリさは問いかけた。退屈だと言わんばかりに。
彼女は、どこまで察しているのだろう。
マグダレナは再び体の芯が重くなるのを感じた。
その問いの答えを口にしてしまったら、今までの、マグダレナが心血を注いで行ったこと全てが泡のように消えてしまう。それは過去に決着したはずだったものが再び甦り、もう再度と、その罪がどちらにあるのかを問う神明裁判だった。
おそらく答えればマグダレナはもう、立つことはできないかもしれない。
それでも、先代歌の聖女として、また王太后として、罪の在処を問われたのなら、正しくそれを受け止めねばならないのだ。
だから、マグダレナは乾ききったその口から一言、その言葉を口にする。
「私が、間違っていたわ、ヴァシリサ」
あまりの恐ろしさに、思わずマグダレナは目を伏せてしまった。
どんな、罵倒を浴びせられるか想像もつかない。
いや、その罵倒が、恐ろしいのではない。恐ろしいのは、もっと別のものだ。
「…ふうん、そうなのかい?」
マグダレナは深く垂れた双眸を、見開いた。
蔑みも、怒りも、哀しみも。なにも、何ものせられることのない単調な声音。
まるで何も興味がないかのように。
「ーー私はっ、元歌の聖女でっ、この国の王太后ですよ!」
気づいた時には叫んでいた。
立場を得てから数十年、これまで努めて声を荒げることはせず、ずっと穏やかで、清廉な人格を表してきた。
それがたったひとりの、無関心さが耐えられなかった。
湧き上がった激情を抑えることができなかった。
なぜ、なぜ。マグダレナは制御できない呼吸に苛立つ。
自分はどうしてこの人の前ではただのマグダレナになってしまうのか。
多くの者に傅かれる人生を送って、いつのまにかそれを当たり前のように感じ、周囲もそれを当然として。しかしそれは、かつての彼女のようではなかったか。
「はっ、いいね! そうだよ。あんたはそうでなきゃね。あたしを追い落とした女が、しわくちゃのよぼよぼになって、ただ謝りにくる? そんな殊勝なタマじゃないだろう」
ヴァシリサは先ほどとは打って変わって喜色満面の様子をみせた。
その年老いた風貌とは違う、ギラついた力強い瞳をマグダレナに向けてくれる。
それが、もうずっと岩のように動かなくなっていた何かを、じりじりと灼くような熱をマグダレナに感じさせた。
「…穢れが、再び国を覆わんとしています。力を貸してくださいヴァシリサ。貴女が必要です」
いくら丁寧な口調に戻したとしても、一度はずれてしまった仮面は元には戻らなかった。
言葉とは裏腹に顔を歪め、ますます皺の深さが克明になった醜い顔で凄むマグダレナ。
それを、満足そうに眺めるヴァシリサ。
「知ったことか。あたしをここに追いやった連中がどうなろうと、どうでもいいね」
反対にヴァシリサは言葉の棘ほどの怒りも見せず、頬杖をついて楽しそうに答える。
「極刑になってもおかしくなかった貴女を救ったのは誰ですか!」
「そんなこと、頼んでないしねえ」
煽られている。それは理解してる。
しかし、積もりに積もった感情が、少しの引っ掻き傷で溢れ出た血玉のように膨らんで、いきおい、はじけるように流れていく。
「貴女は……あなたはいつもそう! 他人を顧みない。尊重しない。自分が1番素晴らしくて、それ以外は塵芥だと言わんばかりにふるまう。だから…だから負けたのですよ!」
「確かにね。ゴミも集まればそこそこなんだって、いい学びになったよ。でもそれだけさ。そのゴミの真ん中にあんたがいなけりゃ、あたしは負けなかったよ、たぶんね」
マグダレナは虚を突かれ、言葉を失う。
ヴァシリサの放った言葉は、思いもよらぬことだった。
それはまるでマグダレナを認めているような、そんなふうにも聞こえて。
「なんだい、意外そうな顔して。あたしは良いものは素直に認める性質だって、知ってるはずだろう? あんたは唯一、あたしの後ろを歩けた女。それが事実だろう」
たった、それだけの言葉だ。
40年経ってようやくと聞いたそれが、まるでカタチをもってそこに当てはまることが決まっていたように、マグダレナの中に沁み込んでいった。
「だからおとなしく身を引いたのにねえ。…あたしと違って、清廉潔白な誰にでも優しい歌の聖女さま。欲望に満ちた汚れた女は相応しくないって、誰か言ってたわよね。誰だっけ。もうどうでもいいけど」
それはマグダレナの伴侶となった男が言い放った言葉だと記憶している。
思わず謝るべきかと考えたが、思い直した。
彼女が「どうでもいい」と言ったなら本当にどうでもいいのだ。
謝罪したところで鬱陶しがるだけなのだろう。
「で、それから、あんたとその他の仲良しこよしな連中がこれからこの国を支えていく万歳万歳、めでたし。…って、本当に白ける場面だったわね。今、初めて思い返したけど背筋が凍るよ」
「…補償します。長すぎる時間の対価としては安直にすぎますが、我々にはこれしかないのです。貴女の望むものをできるだけ用意します。それで、どうか…」
「…あたしの望むもの?」
マグダレナは無言で頷く。
「ふうん、そう…なら」
ヴァシリサは窓際から降りて立ち上がった。
どれだけ容貌がみすぼらしくなったとしても、その立ち姿だけで何人にも有無を言わせぬ迫力を持つ。美しい人、ヴァシリサ。
贅を凝らした服と責任の重たさに耐えきれなくなってきた自分が、途端に恥ずかしくなってくる。
とつ、とつとヴァシリサは歩いてくる。
わずか数歩。それだけでマグダレナに届く距離。
身を屈め、その自信たっぷりの顔が、マグダレナに近づく。
40年ぶりに近づく。吐息が頬を触れた気がした。
「あんたを、貰おうかねえ」
「っ、それは命を…ということですか?」
牢の外に緊張が走ったのを感じる。
しかし、ヴァシリサはそれを意に介さず、当たり前のように、当然のように言い放つ。
「全部さっ! 命も何もかも、あんたはあたしのものだ、昔からそうだったろう? レーナ」
「…!」
その呼び方は、まだマグダレナがヴァシリサの側仕えだった時のものだ。
他の誰にもそう呼ばせたことはない。
夫である彼にも許さなかった。
その名で呼ばれると、どうしても思い出してしまうから。
マグダレナの人生の中で最も苛烈に輝いた人。ヴァシリサを間近で見続けたあの日々を。
歌のことなど知らぬただの娘を「ちょっと歌ってみなさい」と言われ、気に入られ、導かれた。
周りから見れば虐待のような訓練だったというが、ヴァシリサに近づくためにはそれは必要なことだった。
その後ろ姿を、その眼差しの先にあるものを、どうしても見たくて追いかけた。
いつの間にかヴァシリサに不満を持つ者たちがマグダレナを担ぎ出すようになり。二人の距離は物理的に話されるようになった。
ヴァシリサの横暴さ高慢さ放蕩さは、聖女を清く民衆に広めようとする教会にとっては邪魔だったのだろう。彼女の力に何も言えないところを、かろうじて、それに近づくマグダレナは絶好の神輿だった。
もちろんマグダレナもそのことは承知の上だった。
ただ、ヴァシリサに勝つこと。
その為だけにあらゆるものを利用した。
ひとりで勝てないなら仲間を。
清楚で純朴な見た目で近づき、味方に引き入れる。自然に。そうなるように。
やり方はわかっていた。ヴァシリサの反対のことをすれば良い。
そうして力をつけて、あの人の、ヴァシリサと対等になって同じ目線でものを見て。そうすれば認めてもらえると。
気づいた時にはヴァシリサは目の前からいなくなっていた。
あらぬ罪まで着せられて、なのに彼女は抗弁のひとつもせず、消え去ろうとしていた。
なんとか助命を嘆願したものの、特別隔離塔に囚われることとなった。
最高位まで昇ってしまった我が身ではうかつに近づくこともできず、合わせる顔もなく。
幾度も恩赦で塔から出る機会はあったのに、ヴァシリサは一向に出てこない。
追いかけていた背中がなくなったマグダレナは、ただそれまで積み上げたものを惰性で続けていくほかなかった。
ヴァシリサを追い落としてまで手に入れたものに価値がなかったとは思いたくなかった。
そう、そうだった。
たったそれだけのことだったのだ。
今、目の前にあれほど焦がれた相手がいる。
何もかも虚飾を取り払えば、たったひとつのことなのだ。
ーーヴァシリサさえ、いればいい
だから、マグダレナの返事は決まりきっていた。
「内容によります」
けれどそこは、長年の澱のように積もった気位が邪魔をして素直になんてなれない。10代の小娘ではないのだから。
「じゃあひとつ、久しぶりのレッスンといこうか」
「…レッスン?」
「ああ、合わせなレーナ」
できるだろう? と言いたげな表情でヴァシリサは音を発した。
音、だ。歌ではない。旋律でもない。ただひとつの音。
それだけなのに、彼女の、ヴァシリサの心が、存在が、音に集約されて伝わってくる。
びりびりと、周囲がその音に飲み込まれていく。
窓のガラスが耐えきれずひび割れる。
いっそ地震でも起きて、塔そのものが崩れ去るような気さえする。
視線を、もの言わぬヴァシリサの目が、マグダレナの裏側に吸い込まれる。
マグダレナが立ち上がる。
先程まで感じていた重さも何もかも忘れて、ケープを脱ぎ捨て。歩幅を広げ、姿勢は頭からつま先までまっすぐに。喉を広げ体をひとつの楽器に見立て、音を放つ。
響く。ヴァシリサの音にマグダレナの音が合わさり、響き合う。
それは和音というよりも、互いを削り合い、しかしその勢いでどこまでも昇りつめていくような。そんな予感をさせる音だった。
塔から放たれるひとつの音。
それが周囲一帯に広がる瘴気を、力任せに振り払っていく。
誰かのためではない、余人に干渉もされない、音のための音。
マグダレナは引っ張られていた。
少しでも気を抜けば、あっという間に喰らい尽くされてしまう。
そんな印象をはっきりと思い起こされる強烈な合わせ。
負けられない。たとえ勝てなくても、負けられないのだ。
もっと、もっと。己の全てをヴァシリサにーー。
「と、今回はここまでだね」
時間にすればわずか数秒だった。
それなのに、この塔を登りきったよりもはるかに大きな疲労感に襲われている。
流石のヴァシリサも汗を拭っている。
マグダレナはなんとか立っているくらいだ。ふらつくが意地で立ち続けている。
「…これでここ一帯の穢れは吹きとんだろう」
「これは、なぜ…?」
「伊達に40年引き篭っちゃいないよ。音だけに寄り添える時間はなかなか悪くなかった。おかげで芸も増えたしね」
「これをあと何人か、あたしと響く奴を集めて旋律をつくり、歌う。…それでこの国全土はいけるだろう」
「ですがこれは、そうしたら…」
マグダレナには想像がついた。たった数秒で命の残量がごっそりと失われた感覚。
これをもし、歌い切ったのならーー
「ああ、歌ったヤツは、全員死ぬだろうね」
なんでもないことのようにヴァシリサは答えた。
彼女にとって最高の歌が歌えるのなら、それはどうでもよいことなのだ。
「あたしとあんた、あと何人かの命で国が救われるなら、安いもんじゃないのかい?」
簡単に言ってくれる。これでもここまで国を守ってきた自負はある。
少数を殺し大勢を生かす。それはいつまでもついて回る事柄だ。
決定を下す側にとって慣れてはいけない決断なのだ。
およそ誰が犠牲になるのか、想像するだに恐ろしい。
だが、だからこそ、今回も同じように、決めるのだ。
「…そうですね」
そうこなくちゃ、とヴァシリサは笑う。
屈託なく。一切の罪悪感なく。他人の命を犠牲にすることを当然とする。
たとえ自分の命がそこに含まれたとしても、迷いなどない。
彼女にとって、すべては等価値なのだから。
『歌を前にすれば、全て詳らかになる』
そう言って、マグダレナに歌う心得を教えたのはヴァシリサだ。
あの頃のまま全く変わらない、いやひょっとするとこの40年でさらに純化したのかもしれない。
より、音に近づいて。人間ではなくなってしまうように。
こんな狂気をきっと他の誰も理解しないだろう。
マグダレナだけだ。ヴァシリサに追いつこうとした彼女だけがその狂気を肯定する。
「では、他の候補者を探さなくてはなりませんね」
「言っとくけど、あんたの歌唱団にはいないからね」
「…でしょうね」
二人は連れ立って牢から出ていく。
その先に待つ絶対の死に向かって。
それでもその歩みはしっかりと前に向かって続いていく。
たとえ他人から見ればどれほど愚かに見えることだろうと。やらねばならないことがある。
きっとこの二人には、地獄こそがふさわしい。
それでもその先に、彼女がいるならと。
立場も気性も何もかも正反対な二人が、横に並んで歩く。
その互いの姿に、口の端だけ歪めた笑みが、同じように浮かび上がっていた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
今回は少し重めの話でしたが、普段はもう少し軽めの作品も書いています。
現在「ママはネクロマンサー」という連載を投稿中ですので、もしご興味があれば覗いてみていただけると嬉しいです。
また、同じく短編で「目からビームが出る令嬢」の話も投稿しています。
雰囲気はかなり違いますが、気軽に読めるラブコメなので、よろしければこちらもどうぞ。




