全部、嘘じゃなかった
午後四時、冬の夕暮れは早く、空はすでに茜色に染まり始めていた。
白瀬柚月は、スマホを握りしめながら黒川湊の家の前に立っていた。
数日前、彼が自分を庇ってくれた文化祭前の集会――
あの出来事の後、彼とは目も合わせられなかった。
けれど、もう逃げてはいけない。
湊の嘘に、私の本音で応えたいから。
インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。
制服姿のままの湊が、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……会長、じゃないか。今さら来るとか、どういう風の吹き回し?」
「その呼び方、やめて。もう……私は会長じゃないから」
柚月はそう言って、小さく息を吸う。
「話がしたいの……ちゃんと、湊の本音が聞きたい」
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彼の部屋は、思っていたよりも殺風景だった。
必要最低限の家具と、読みかけの本が数冊。
湊は柚月に缶入りのミルクティーを渡すと、自分も同じものを開けてソファに腰を下ろした。
「……あの時、なんで庇ったの?」
その問いに、湊は一瞬、視線を逸らした。
「別に。罪をかぶるくらい、たいしたことじゃない」
「でも……それ、本当は湊じゃないって、すぐ分かった……だから、聞きたいの。どうして、そこまでしてくれたの?」
沈黙が落ちた。
それは、短いようで永い数秒だった。
そして――
「……俺さ、昔、家族がバラバラになった時、嘘をついて誰かを守ろうとしたことがある」
湊の声は、低くて硬かった。でも、それは過去と向き合う強さでもあった。
「母さんが出ていく前、俺は全部うまくいってるって言い続けてた。弟もいたし、俺まで取り乱したら崩れると思ってた……でも結局、何も守れなかった。嘘はただ、何も変えなかった」
柚月は言葉を挟めなかった。ただ、彼の話をじっと聞いていた。
「だから俺は思った。もう嘘なんか信じないって。でも……お前と会って、嘘から始まったはずなのに、気づいたら、本気で守りたいって思ってた」
缶のふたを開けたまま、湊は俯く。
「全部壊して、お前に嫌われて、それでもいいって思った……本気になった自分が、怖かったから」
沈黙がふたたび落ちる。けれど、今度は優しかった。
柚月は立ち上がって、湊の隣に座る。
「ねえ、湊」
「……ん?」
「私はね。湊の嘘が、嘘じゃなかったって……分かってた」
彼が少しだけ目を見開いた。
「だって、あんなふうに庇ってくれる契約相手なんて、いるわけないじゃん」
「……白瀬」
「……柚月って呼んでよ。湊は、そう呼んでくれたでしょ。あの時――」
「……じゃあ、柚月」
その名前を呼ばれるたびに、心の奥がくすぐったくなる。
柚月は、震える指先をそっと重ねた。
「ありがとう。守ってくれて。嘘から始まったけど……今、ちゃんと信じたいって思ってる」
湊は、何も言わなかった。
でも、彼の指がそっと柚月の指を握り返す。
それだけで、言葉はもういらなかった。
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その夜、裏チャットの通知が鳴る。
【湊】
《なあ、会長じゃなくて、名前で呼ぶって約束だったよな?》
【柚月】
《……うん、でも、湊はずるい》
《そっちはもう全部、本気って言ったじゃん》
【湊】
《だったらお前も言えよ》
【柚月】
《……好きだよ。嘘じゃなくて、本当に》
スマホの画面がにじむのは、きっと気のせい。
明日も波乱はあるかもしれない。瑠衣の気持ちも、桐島の動きも残っている。
それでも今、彼と心がつながっている。
それだけで、今日は少し、眠れそうだった。