既読にならない想い
休日の朝。柚月は商店街の小さな惣菜屋で、制服姿ではないもう一つの顔に戻っていた。
髪をひとつにまとめ、エプロンを締めて、焼きそばパンを袋に詰める。手慣れた動作だが、今日は妙に落ち着かない。
(遅い……)
店の角を曲がってきたのは、黒川湊だった。ジャケットの前を開けて、寝癖まじりの髪のまま、スマホを操作している。
「わりぃ、待った?」
「五分。まだ許容範囲」
口ではそう言ったものの、柚月の胸には、ちくりと小さな棘が刺さっていた。
「へえ、このへんが白瀬の地元か。想像より庶民派だな」
「それ、褒めてる?」
「ちゃんと褒めてる。素があるって意味」
彼の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
休日デート――という名目でのカモフラージュ外出は、あくまで演技だ。だが、湊の視線は、どこか本音を含んでいた。
柚月の案内で、商店街を巡る。
駄菓子屋、八百屋、焼き鳥の匂い。どれも懐かしくて温かい。
「なんか……ほっとするな。こういう場所」
「でしょ? 私はずっとここで育ったの」
「たまには、嘘のない場所も悪くない」
その言葉に、柚月は少しだけ視線を落とした。
(嘘のない場所……今の私は、どこまで嘘なんだろう)
商店街の片隅で、柚月のスマホが震えた。すぐに取り出そうとして、手が止まる。
(バッテリー、1%……)
ためらった末にスリープに戻す。どうせ、あと数分で切れる。
「電池切れそう。帰るまで持たないかも」
「充電器、持ち歩かないの?」
「お金、節約してるから。余計な外出用品は我慢」
湊が、何か言いかけて口を閉じた。その沈黙に気づきながらも、柚月は平然を装った。
「……じゃあ、次は駅前の喫茶店にしよっか」
「先に行ってて。トイレだけ寄る」
「わかった」
喫茶店までの道をひとりで歩きながら、柚月はスマホをちらりと見て――とうとう画面が真っ暗になる。
(こんなときに限って)
5分。10分。15分……湊が来ない。
電池が切れている今、連絡も取れない。
焦る気持ちを抑えて、店を出た。もしかして、逆に湊も探している?
駅前。交差点。アーケード街。
(いない……)
そのとき、どこかで見慣れた後ろ姿が目に入った。
「湊っ!」
柚月が駆け出した瞬間、彼も振り向いた。
「お前こそ、どこ行ってたんだよ」
「……探してたの。スマホ、電池切れて」
息を整える間もなく、彼はぽつりと言った。
「……来るって信じてた」
その一言に、胸が詰まった。
「私も。湊なら、探してくれるって思ってた」
それは、契約なんて言葉では表せない感情だった。
帰り道、日が傾きはじめた商店街を並んで歩く。
「さっきの喫茶店、入ってたら俺、ドリンク三杯はいってたな」
「私、三十分くらいぐるぐる歩いてた。おかげで新しいパン屋見つけたけど」
「それ、どっちが勝ち?」
「ドロー。互いに必死だったってことで」
二人とも、自然に笑っていた。
もう演技という枠を越えていた。そう、思ってしまうくらいには。
家の前まで来て、柚月が立ち止まる。
「……湊」
「ん?」
「私さ、最初はバレたから仕方なくって思ってた。でも、今は――」
そこまで言いかけて、声が詰まる。
(ダメ。これはまだ、言っちゃいけない)
「……ううん、なんでもない」
「……そ」
彼の目が、少しだけ寂しそうに揺れたのは、気のせいじゃない。
柚月はそれでも微笑んだ。
嘘をついた笑顔ではなく、自分の中に芽生えた本音をごまかすような、そんな笑顔で。