彼女の秘密と、俺の条件
天栄学園の朝は、校門前のざわめきから始まる。夏の終わりを思わせる心地よい風が、制服の袖をやさしく揺らしていた。
そのざわめきの中心に、彼女はいる。
白瀬柚月――生徒会長。誰もが振り返る、完璧な存在。
「おはようございます、生徒会長!」
「今日も美人だなぁ……俺、三年間ずっとファンです!」
通り過ぎる生徒たちの視線と声を、柚月は涼しい笑みで受け止める。
「おはよう。遅刻しないようにね」
完璧な返答。姿勢、声色、歩幅。どれをとっても非の打ち所がない。けれど本人にとって、それは演技でしかなかった。
(完璧じゃないと、私じゃなくなる気がするから)
その言葉は、彼女の呪いだった。
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「いらっしゃいませー!」
放課後。夕暮れが商店街の通りを金色に染めるころ、柚月は白いエプロン姿でレジに立っていた。
惣菜屋『しらせ屋』
これが、誰にも知られたくない『もうひとつの顔』
笑顔を貼りつけ、客の注文をこなし、コロッケを包む手は慣れたものだ。だが、今日に限って――
「……ん?」
視界の端に、制服のままの男子が立っていた。
黒川湊。転校してきたばかりの、少しだらしない見た目の少年。クラスでも特に目立つタイプではないが、妙に目が合う。
なぜかその彼が、惣菜屋の店先にいる。
「……え?」
混乱する間もなく、湊は一歩前に出て、コロッケをひとつ注文した。
「うまそうだな、それ。会長さん、接客も完璧なんだな」
その一言で、世界が止まった。
「……なんで、ここに……?」
「んー? たまたま通っただけ。まさか生徒会長がバイトしてるとは思わなかったけどな」
湊は面白がるように言った。その声には非難も驚きもない。ただ――試すような響きがあった。
「誰にも言わないで。お願い……」
柚月の声は、明らかに震えていた。完璧な仮面が、ひび割れる。
「……ふーん」
湊は袋を受け取り、しばらく沈黙したあと、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、条件を出す。俺の恋人役、やってくれないか?」
「……は?」
思わず、素の声が出た。恋人? いきなり何を言い出すのか。
「もちろん偽装でいい。学校でだけ、付き合ってるふりをしてくれれば」
意味がわからなかった。ただ、ひとつだけ確かなのは――
「なんで、そんなこと……?」
湊は柚月の目を見て言った。
「お前さ、嘘つくの下手くそだよ」
その瞬間、背筋が凍った。彼の瞳は、すべてを見透かしていた。
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翌日。天栄学園はざわめいていた。
「えっ、あの会長と、あの転校生が!?」
「マジで!?」
「釣り合ってなくね?」
校舎のあちこちで、噂が飛び交う。柚月は無表情で歩きながらも、心の中では汗だくだ。
「なんで、こんなことに……」
隣では湊が、ポケットに手を突っ込んだまま飄々と歩いている。
「嘘も突き通せば本当になるって、昔誰かが言ってた」
「私、そんなの望んでない」
「望んでないけど、乗ったんだろ? 条件、飲んだってことだ」
それは――弱みを握られた立場で、断れなかっただけ。けれど。
けれど。
(このままじゃ……私は、本当に嘘に飲み込まれる)
チャイムが鳴る直前、湊が耳元で囁いた。
「俺は別に、脅してるつもりはないよ。ただ――お前がどんな顔するのか、ちょっと気になるだけだ」
柚月は、その言葉に答えなかった。
ただひとつ思ったのは。
(この人、怖いくらい……真っ直ぐに私の嘘を見てる)
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その日の夜。
湊から届いたメッセージは、妙にあっさりしていた。
《裏チャット作った。バレないように使えよ》
《パスワードは『シンデレラ』 お前にぴったりだろ》
既読をつけて、柚月は思わず苦笑した。
(……なんて、皮肉なあだ名)
完璧な仮面をかぶり、ガラスの靴を落とさないように歩き続けていた嘘つきのシンデレラ。
でも――
もしかしてこの人だけは、私の本当を、見つけてしまうのかもしれない。
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そして数日後。
「黒川くんと白瀬会長って、本当に付き合ってるんだって!?」
「ふたりで帰ってるの見たー! しかもアイス半分こ!」
嘘は、あっという間に真実のように広まっていた。
誰も知らない。これは仮面と仮面が交わす、偽りの契約関係。
けれど、たったひとつ。
二人だけが知る、本当の秘密があった。
――そして、それはすべての始まりだった。