第52話 武蔵原中央幼稚園
「声優」と言うお仕事の存在を知らなかった女子高生が声優を目指して奮闘する、笑いあり涙ありの……いえ、ほとんど笑いだらけの楽しい青春ストーリーです。
声優の井上喜久子さんが実名で登場しますが、ご本人と所属事務所のアネモネさんには快く承諾をいただきました! ありがとうございます!!
第1話と第2話を井上さんに朗読していただきましたが、このたび第16話と17話も、朗読していただきました!
朗読を聞くには下のURLをコピペして飛んでください!
謎の対談も、聞いていただけると幸いです(笑)
https://x.gd/9kgir
更新情報はXで!「@dinagiga」「@seitsuku」
武蔵野の面影を残す吉祥寺。その喧騒から少し離れた場所に位置する武蔵原中央幼稚園の朝は、眩いばかりの光に包まれていた。
六月の終わり、梅雨の合間の晴れ間は、すでに夏本番を予感させる力強さを持っている。丁寧に手入れされた花壇では、真っ赤なサルビア、鮮やかなオレンジのマリーゴールド、そして色とりどりのペチュニアが、気持ちよさそうにその花を開いていた。
「みんな、今日も元気ね」
この園の教諭・西原由香里は、ジョウロを手にふと目を細めた。丁寧に水を向けられた花たちは、一滴一滴の雫を宝石のように輝かせ、嬉しそうに光を浴びている。
武蔵原中央幼稚園は、この地で長く親しまれてきた歴史ある園だ。広々とした園庭には豊かな緑が溢れ、子供たちの五感を育む環境が整っている。自由遊びを教育の柱に据えつつ、英語や体育、絵画制作にリズム遊びといった「専科」の時間も充実している。幼稚園には珍しく、本格的なフットサル場まで完備されていた。
そんな恵まれた環境の中、由香里は今日、朝からずっと心地よい緊張感に包まれている。
「よし、準備万端!」
彼女は自分の格好をもう一度見直し、気合を入れ直した。
この伝統ある園の中では「若手」と呼ばれる二十代後半の彼女は、動きやすさを重視した真っ白なTシャツに、履き古した紺色のジャージ。その上から、少し年季の入ったエプロンをつけている。
髪型は、子供たちに無邪気に引っ張られても大丈夫なように、短く切りそろえたショートカットだ。少しだけ明るい茶色に染めたその髪は、活動的な彼女の性格によく似合っていた。
今日の特別保育は、いつもとは一味違う。
普段なら、お歌を歌って、外を駆け回り、お昼寝をする……というルーティンがあるのだが、今日は由香里自身が個人的にも熱望していた保育、いやイベントが予定されていた。
「先生、粘土でパン作ったよ!」
その時、彼女が担当する男子が駆け寄ってきた。
「わあ、美味しそう。先生にもひと口ちょうだい?」
「ダメ!」
その男子は差し出していたパン、の形をした粘土、をサッと引っ込める。
「どうして?」
「だって、粘土は食べちゃだめだもん!」
可愛いその答えに、由香里はニッコリと微笑んでしまった。
今は自由遊びの時間。保育室では、子供たちが思い思いに積み木やままごと、お絵描きに興じている。
由香里が受け持つのは、二十五人の元気な園児が集まる「もも組」だ。一人で見るには体力のいる人数だが、彼女には頼もしい相棒がいる。
「西原先生、あっちで健太くんたちが積み木の高さで競争を始めちゃいました。ちょっと見てきますね!」
そう言って明るく笑うのは、補助教諭の平田沙知代。二十三歳の彼女は、由香里を「理想の先輩」として慕ってくれる、非常に気が利く後輩だ。
そんな中、一人の少女がトコトコと由香里のそばに歩み寄ってきた。
「先生……これ、読んで」
差し出されたのは、一冊の絵本。
声をかけてきたのは、みんなから「しーちゃん」の愛称で親しまれている女の子だ。少しおとなしい性格だが、感受性が豊かで、何より本が大好きだった。
いつもなら由香里は「いいわよ」としーちゃんを膝の上に乗せ、優しい声で物語を読み聞かせるところである。しかし、今日の由香里はいつもとは少し違っていた。
「しーちゃん、ごめんね。もう少しだけ待てるかな? 今日はね、みんなのために、本を読むのがとっても上手なお姉さんたちが来てくれるのよ」
「おねえさん……?」
「そう。びっくりするくらい素敵な声で、物語を聞かせてくれるんだから」
由香里がそう言い聞かせていると、廊下からバタバタと足音が近づいてきた。
「西原先生! 高校生の皆さんが到着されました!」
玄関の方から、沙知代の弾んだ声が響く。
「ほら、お姉さんたちが来たみたいよ!」
由香里の言葉に、室内で遊んでいた子供たちの視線が一斉に入り口へと注がれた。
保育室のドアが開くと、そこには四人の女子高生が立っていた。
彼女たちが身にまとっているのは、近隣でも進学校として知られる都立武蔵原高校の制服だ。若々しいエネルギーを纏った彼女たちが一歩踏み込むと、保育室の空気がぱっと華やいだ。
「はじめまして!」
先頭にいた生徒が、元気いっぱいに頭を下げた。
「はじめましてー!」
園児たちも、負けじと大きな声で挨拶を返す。
「私たちは、武蔵原高校の声優部です! 声優って、知ってるかな?」
そう彼女が問いかけると、ほとんどの園児たちが“はーい!”と手を挙げた。
「みんなすごいね! では、自己紹介します! 青山ひかり! 今日はみんなに素敵な物語を届けに来ました。よろしくね!」
「よろしくー!」
キラキラとした笑顔で挨拶するひかりに続き、他のメンバーも自己紹介を始める。
しっかり者で部長の田中美紀、少し控えめだが瞳に知性を宿した久慈沢菜央、そしておっとりとした癒やし系の棚倉愛理。
彼女たちは、後の世代である雫や凛たちがまだ知らない、かつての「武蔵原高校声優部」の面々であった。
由香里は、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
実は彼女、隠れ朗読ファンであり、声優という職業にも深い敬意を抱いている。声だけで世界を作り上げる技術に、昔から憧れていたのだ。地元の高校に「声優部」があることを知り、今回のボランティアを熱望したのは、他ならぬ由香里自身だった。
「さあ、みんな、お姉さんたちの方を見て座りましょう」
由香里の促しに従い、子供たちが床にちょこんと腰を下ろす。しーちゃんも、期待に満ちた目で最前列を陣取った。
部長のひかりが、肩にかけていたカバンから、一冊の大きな絵本を取り出す。
「じゃーん! 今日、お姉さんたちが読むのはこのお話です」
彼女が掲げたその本の表紙には、小さな鳥が美しい色彩で描かれていた。
タイトルは――『ハチドリのひとしずく』。
そして読み聞かせが始まる。
その時、空気の色が変わった。
その第一声に、由香里は鳥肌が立つのを感じた。単なる「読み聞かせ」ではない。言葉の一つ一つに命が宿り、目の前に鬱蒼とした森の情景が浮かび上がってくる。
しーちゃんは、口をぽかんと開けたまま物語に引き込まれていた。
沙知代も、子供たちをサポートするのを一瞬忘れたかのように、彼女たちの声に聞き入っている。
夏の陽光が差し込む保育室で、四人の女子高生が紡ぐ物語の魔法。
由香里は確信した。
今日という日は、子供たちにとっても、そして自分にとっても、忘れられない「特別な日」になるだろうと。
彼女はエプロンのポケットの中でそっと拳を握り、これから始まる素敵な物語の世界に、深く深く耳を澄ませていた。




