第45話 変わらぬ眼差し②
夕刻から夜への移ろいが進む廊下で、二人はしばし無言のままたたずむ。過去に分かち合ってきた思い出、戦場での苦楽、そしてこれから歩む国づくり――ありとあらゆるものが今、二人を繋いでいる。
この一瞬だけは、政治でもなく革命でもなく、ただ二人の幼馴染としての感情が穏やかに混ざり合う。それは恋と呼ぶにはまだ微妙な距離かもしれないが、少なくとも互いを愛おしく思う気持ちは確かに存在していた。
外務担当としての仕事が待つレイナーは、やがてパルメリアから視線を外し、先に歩き出そうとする。いつまでもここで立ち止まってはいられないのだ。
「また、話がしたいな。仕事のことでなく、昔みたいに……君と他愛ない話をして笑い合える時間が、もう一度戻ってくるといいなと思う」
小さな声でそう告げると、パルメリアはかすかに笑みを浮かべ、うなずいた。
「そうね。きっとそんな日が来るわ。私も、少しは力を抜いて生きてみたいもの」
暗くなり始めた窓の向こうでは、街の灯りがぽつぽつと灯り始めている。戦乱の影はまだ完全には消えないが、人々がそれぞれの場所で小さな幸福を見つけようとしているのがわかる。そうした景色を共有する二人の間には、これまでと変わらない優しい時間が流れていた。
レイナーは最後にもう一度、彼女の名を呼ぶ。
「パルメリア……。これからも君を支えさせてほしい。たとえ僕がその想いを形にできる日が遠くても、ずっと君の力になりたいんだ」
彼の瞳は昔と変わらず透き通っていた。幼い頃からパルメリアを見つめてきた眼差しが、今もそのまま、彼女だけに注がれている。
パルメリアの胸には、ぽっと小さな灯がともるような感覚があった。誰かに寄り添いながらも、自分のやるべきことを優先し、国を支えているこの日々――それが苦しみだけではなく、こうした温もりを感じられるものだと教えてくれるのが、レイナーという存在なのかもしれない。
「ありがとう、レイナー。……あなたの眼差しは、本当に昔から変わらないのね」
ささやかな一言に、レイナーは安堵とかすかな緊張が混じった表情を浮かべた。彼女の言う「変わらない」という言葉が、幼馴染以上の特別な意味を帯びているのか、彼は確かめるすべを持たない。
けれど、その些細な疑問すら甘んじて受け入れるほど、彼の心には静かな確信がある。いずれ、パルメリアが国の事情から解放され、もう少しだけ自分との未来を考えてくれる日が来る――それまで彼は待ち続けるだろう。
こうして夕陽の名残が廊下から消え、夜が訪れようとする中、レイナーはそっと礼をして去っていった。パルメリアは彼を見送る。その背中は堂々としているが、幼い頃の気さくさや優しさは変わっていない。
彼女は深い呼吸をし、再び抱える書類を手に執務室へと歩を進める。国政は待ってくれないし、彼女がしなければならない仕事は山ほどある。新しい法律を定め、諸外国との外交を整え、国民の生活を支える仕組みを作らなくてはならないのだ。
(レイナーに限らず、ユリウス、ガブリエル、そして……ロデリックだって、私を気遣ってくれている。私には大切な人がたくさんいる。なのに、いったい私は何を望んでいるんだろう)
心に芽生えた小さな迷いを、パルメリアはまだ手に取ることができない。国が最優先だと信じて疑わない以上、彼女は自分の幸せを後回しにしているのだ。だが、ここまで奮闘してきたからこそ、また一方で、「ほんの少しだけなら自分の幸せを考えてもいいのではないか」という思いも、片隅でささやいている。
それでも今は、彼女の中で「国」が圧倒的な優先度を占める。人々の命と暮らしがかかった大局を、恋愛で揺るがすわけにはいかない――幼馴染への想いを認めながら、同時に自分を律する彼女の在り方は、ある意味でパルメリアらしいと言えるだろう。
夜が深まるほどに、彼女の執務室ではランプの灯が揺れる。報告書や書簡を見ていると、あちらこちらで小さな抗争が起きたり、旧体制に未練を持つ者たちが密かに勢力を再結集しようとしたりしているのがわかる。国全体を一朝一夕で安定させるのは不可能であり、長い時間をかけて丁寧に合意を築かなければならない。
そうした厳しい現実を目にするたび、パルメリアは革命の道を選んだ責任の重さを噛みしめる。彼女の決断に、多くの人々が賛同し、同時に多くが犠牲になった。その罪悪感と、何としてでも国を豊かにする義務感が絶えず胸を締め付けるのだ。
だが、先ほどレイナーがくれた優しい眼差しが、今も脳裏から離れない。彼の言葉は直接的な「愛の告白」ではないにせよ、幼馴染以上の特別な好意が込められていたことは明らかだ。
もしパルメリアが一人の少女として生きていたなら、その想いにすぐに答えていたかもしれない。しかし、今の彼女は共和国の大統領であり、国民から絶大な期待を向けられる存在。自ら幸福を追い求めれば、多くの人が落胆し、混乱が生じるかもしれないという恐れがある。
(私が大統領の座を降りれば、少しは楽になれるのかしら。それとも、そんな甘えは許されない?)
そんな自問が浮かぶが、結論は出ない。革命の旗を振ったのは彼女自身であり、世間は「パルメリア・コレットこそ、新国家の統治者にふさわしい」と熱望してきた。それを裏切るような行為は、まだ時期尚早としか言えない。
それでも、レイナーの存在は確かな救いであり、希望だ。幼馴染として、同士として、そしてこれから先、もしかすると違った立場で――彼が彼女を支えてくれるという事実は、パルメリアが夜遅くまで仕事に没頭できるほどの勇気を与えてくれる。
視線を落とした書類の活字がにじんで見えるほどに疲れても、心のどこかではレイナーの温もりが灯り続けていると感じられるからだ。
夜明け前、パルメリアは書類を片付け、束の間の仮眠を取るために机に突っ伏す。数時間後には新しい会議が控えており、彼女はそこで経済改革案や農業再編計画を議員たちに提案しなければならない。
薄暗い執務室のなかで、意識が遠のきかけたとき、窓の外から鳥のさえずりが聞こえてきた。長く閉ざされていた夜の空が、徐々に白み始めている。
(そうだ……朝が来るたびに、国は新しい一日を迎えるのよ。私も、この国のために戦い続けている仲間たちも……いつかは報われる日が来るはず。レイナーの想いに応えられる日だって、きっと……)
疲れた体を何とか持ち上げ、ソファへと移動して仮眠を取ろうと決める。ほんの数時間の休息だが、これがなければ明日を乗り切れない。
そのとき、レイナーが先ほど見せた優しい笑顔と真摯な眼差しが鮮明に蘇った。彼の変わらぬ思いが、パルメリアの胸を温かく彩る。まだ、彼女は国の未来を優先せざるを得ない立場だが、その先にあるかもしれない「二人の未来」を完全に否定する気持ちはなかった。
(待っていてくれると言ったレイナー。私が胸を張って「自分の幸せ」を考えられるときが来るまで、……もう少しだけ甘えさせてもらっていいのかな)
そして、穏やかな呼吸を整えながら、彼女はそっと目を閉じる。闇夜を駆け抜け、激動の革命を成し遂げた少女は、今や国の頂点に立ちながらも、一人の女性としての気持ちを少しずつ育みはじめていた。
変わらぬ眼差しを宿す幼馴染――レイナーが見せてくれた情熱と優しさが、彼女の疲弊した心を包み込み、明日へと向かう力を与えてくれる。それは大統領という重責から生まれる苦悩を和らげるだけでなく、彼女の将来をさらに豊かに彩る希望でもあった。
そして朝になれば、パルメリアは再び大統領の顔を取り戻し、仲間たちと共に国政を動かすための会議室へ向かう。レイナーは外務担当として、ユリウスは内務や治安に、クラリスは教育・科学の発展に、ガブリエルは国防に――各自が専門分野を駆使し、共和国の発展を支えていく。
だが、その合間に時折レイナーと視線が交わる瞬間、パルメリアの胸はかすかに高鳴る。国が落ち着いてきたからといって、すぐに恋に溺れる彼女ではないけれど、言葉にならない温もりが二人を繋いでいるのは確かだ。幼馴染というカテゴリーを超えた想いを、少しずつ感じ始めている彼女自身も、その事実を否定しきれずにいる。
(もしこの国が十分に安定し、誰もが安心して暮らせる日が来たら――そのとき私は、彼の想いに向き合うのだろうか。多くを犠牲にしてきた私だけど、そのときはきっと、自分の幸せを考えても許されるのかもしれない)
まだそれは漠然とした未来図に過ぎない。しかし、パルメリアは自分の心を偽れないと知っている。かつて幼い頃、二人で野原を駆け回ったあの記憶が、今も胸の片隅で明るく灯っているのだ。
だからこそ、彼がくれた眼差しは、パルメリアにとっては何よりも尊い宝物。国の繁栄を最優先に掲げる彼女にとって、こうして自分を信じ続けてくれる存在がいることは、歩み続けるための大きな支えとなる。
戦乱を経て、王国は滅び、共和国が生まれた。しかし、すべてが解決したわけではない。貧困や不満、そして未知の脅威が潜む世界で、パルメリアは大統領として国民を導きながらも、一人の少女として恋心に揺れている。
それはどこか切なくも、温かな感情だ。彼女の揺れ動く心こそが、この国の未来をより鮮やかに彩る要素なのかもしれない。たとえ結末がどうなるとしても、今はただその真実を胸に、彼女は日々を懸命に生きていく。
レイナーが宿す「変わらぬ眼差し」に報いるためにも、彼女は決して歩みを止めないだろう。恋と革命のはざまに立つ彼女の物語は、まだ終わりを迎えていない。その先には、さらなる希望と試練が待ち受けているとしても、今の彼女ならきっと、すべてを乗り越えていけると信じて――。




