第44話 静かなひととき②
バルコニーでの会話から戻ったパルメリアは、執務室に積まれた書類を再び手に取る。国境付近の安全確保や、市民への新制度周知、議員の候補者選定――ひとつひとつが国の未来を左右する重責だ。
そんな中、先ほどのロデリックとのやり取りが、ほんのり彼女の胸を暖めていた。彼が王位を捨てて新体制のために奔走している姿は、かつての「体制側の王太子」とはまるで異なる。敬意と同時に淡い恋心のようなものが彼女を揺さぶるが、それも含めて今は一時の安らぎとして受け止めるしかない。
政治に追われる日々のなかで、パルメリアは自分の感情をまだ整理しきれずにいる。レイナー、ユリウス、ガブリエル、そしてロデリック――それぞれが彼女にとって特別な存在であることは疑いようもない。だが、自分の幸せと国の将来をどのように両立させるのかは、彼女自身がまだ答えを見出せずにいた。
(恋に惑わされる年頃ではないはずなのに、心が落ち着かないなんて……大統領として笑われないようにしなくちゃ)
そう自嘲気味に思いながらも、彼女の瞳はどこか嬉しそうに揺れている。圧倒的な重荷を背負う日々に埋もれていた少女の部分が、ほんの少しだけ顔を出した瞬間でもあった。
その一方で、「これほどまでに大きな責務を抱えながら、自分の感情に素直になることが許されるのか」という葛藤も捨てきれない。何せ彼女はこの国のトップ――大統領なのだ。ちょっとしたスキャンダルのような噂が広まれば、新政府そのものが混乱に陥るかもしれない。
だが、この夜だけはひとときの安らぎに浸りたかった。パルメリアは机に向かってペンを走らせつつ、バルコニーの方から聞こえるかすかな風の音を心の支えに感じている。
こうして夜は更け、パルメリアはいつもの執務姿に戻って書類を確認する。明日はまた、新たな議題が山ほど待っている。各地の有力者と面会し、旧貴族領の再編や、各種改革案の審議を重ねていかなくてはならないのだ。
それでも、彼女はもう怯えることなく前を向ける。ロデリックとの会話が、彼女の中で儚くも大きな力を与えてくれたからだ。かつて王太子だった彼が、今は一市民として「彼女の描く国家」に手を貸してくれている――その事実だけで、不思議な安堵と勇気が湧いてくる。
窓の外を見やると、夜の闇が深まるなか、月がしんとした光を放っていた。
パルメリアは「もう少しだけ書類を片付けたら休もう」と思いつつも、次々に目を通すべき文書が増えていく。小さく笑いながら机に向かい、ペン先をインク壺に浸す。今の自分があるのは、国を変えるという強烈な使命を果たそうと決意したから。だが、その道のりが思った以上に長いのは確かだ。
(いつか……落ち着いた頃には、国民全員が安心できる社会になっていてほしい。そのとき、私ももう少しだけ、自分の気持ちを大事にできるのかもしれない)
王宮跡の廊下を、遠く警備兵の足音が通り過ぎていく。まるでこの国が、今や新たな一歩を踏み出していることを象徴しているかのようだ。
長かった戦乱の時代を終え、王国は消滅し、ここには新しい国家と新しい価値観が生まれつつある。その中心に立つパルメリアは、革命の象徴と呼ばれながらも、まだ一人の人間として揺れ動く心を抱えている。
けれど、それが「人間らしい」姿だと実感しているからこそ、彼女は自分を否定しない。周囲を見渡せば、レイナーやユリウス、ガブリエル、クラリス、そしてロデリック――たくさんの仲間が、悩みや葛藤を抱えながらも、それぞれの立場でこの国を支えているのだから。
こうして夜は深まり、部屋に灯るランプの光だけがパルメリアの影をゆらゆらと映し出す。静かにペンを走らせる音が、広い執務室にかすかに反響している。そんな深夜の執務も、いまや彼女の日常だ。
だが、ほんの数時間前の短い対話が、彼女に大きなエネルギーを与えていた。「彼」が今も近くにいて、真摯に彼女を支えようとしてくれている――それだけで、見えないところで心がほぐれる気がする。恋愛感情と呼ぶにはまだ早いが、尊敬と友情の延長線上にあるその特別な感情は、彼女にとって何より尊いものだ。
(ロデリックだけじゃない。レイナーやユリウス、ガブリエル、それにクラリスだって、私を理解してくれる大切な仲間……いつか私が自分の気持ちに向き合う日が来ても、きっとこの関係は変わらないはず。国を変え、未来を築くのは、一人の力じゃない。仲間を信じて、共に歩めるからこそできることよ)
パルメリアは書類をめくりながら、そっと微笑む。夜風が通り抜けるバルコニーから、わずかに花の香りが漂ってくるのは、宮廷庭園に咲き始めた新しい花があるからだろう。革命によって荒れた宮廷が、こうして再生されていくのと同じように、彼女の心もまた再生される途中なのだ。
まだ旅は道半ば。改革は始まったばかりで、内外の課題は山積み。けれど、こうして“静かなひととき”を過ごせる夜が訪れるだけでも、大きな進歩だと感じられる。それはきっと、激動の過去を乗り越えてきた証拠なのだろう。
――いつか、夜空を彩る月が満ちる頃には、彼女の胸に抱える迷いや恋の行方も、はっきりと光を帯びるのかもしれない。その時が来るまで、パルメリアは己の使命に身を捧げるだろう。新たな国を、より良い未来へと導くために。
窓の外には、かすかな風が月明かりを淡く揺らしていた。かつて王太子だった青年との会話を胸に秘め、パルメリアは再びペンを取り、明日に備えて書類と向き合う。国の営みは止まることなく続いていくが、そんな嵐のような日々のなかにも、こうして穏やかな夜が訪れるのだ――それを知るだけで、彼女の心はどこか満たされている。
こうして新国家の鼓動を感じながら、パルメリアは夜に包まれた執務室で微笑んだ。国を揺るがす壮大な変革を進める彼女も、いまは一人の女性として、小さな幸せをかみしめている。運命に翻弄されながらも、仲間や――そして、かつて王太子だった青年との特別な関係に思いを巡らせる「静かなひととき」を、彼女は愛おしく感じていた。




